時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

歌を掲げよ、剣を紡げ

 がちゃん、と重い鍵の音が響く。
 何の変哲も無い、朝出た時と何も変わらない殺風景な部屋を見渡し、未森錫(みもり すず)は溜息を吐いた。
 荷物を部屋の隅に放り投げ、安物のベッドの上にどさりと身を投げる。
 シーツを握りしめ、胸の奥から湧き上がってくる悔恨に耐えた。
 今日の「お役目」は、完全に失敗だった。結局、元凶を見つけられず、尖兵の蜥蜴を切り潰すだけで精いっぱい。
 ――何てこと。
 しかも、自分の剣を砕かれて、どうすれば良いのか解らなくなった時、剣の歌が聞こえた。微かな音を頼りに走り、やっと見つけた柄を掴んだら、そこに居たのは、どうにも間抜けな顔をした少年だった。「裏側」の世界のことなど何も知らないようで。
「……いや、そんな馬鹿な」
 自分の思考を、自分の言葉で否定する。何故なら、彼は剣の歌を知っていた。祝詞も、音程も、何より己が魂を込めることが出来なければ、音の剣は作れない。そんなことが出来る人間が、「調律師」の他にいるものか。
 人の、恨みや妬みや怒り、悲しみ、所謂「負」であるという感情を込められた音は、声によって世界に零れ出た後、決して消えはしない。殆どの人は、目に見えないから消えてしまったのだと思っているだけだ。
 負の音は、ゆっくりと世界に流れ、降り落ち、やがて吹き溜まりのような場所を作って形を成す。
 それはまるで人の思いを代弁するかのように、人が本能的に怖気を振るう姿となって、音の世界から扉を食い破り、物質の世界へと躍り出る。
 それを水際で食い止め、己の歌で剣を編み出し、斬り祓うのが「調律師」。錫の家は、その調律師たちの一族、総本山とも呼べる地位を持つ所であった。
 それなのに、だ。
 現未森家当主の末娘でありながら、未だにきちんと一人でお役目を果たせたことはなく、今日のこの体たらく。錫の気持ちは再び沈み込んだ。銀色がかった瞳の端に、じわりと涙が浮かび、枕に顔を埋めることでそれを吸い取らせる。
 ――恐らくあれは、私の尻拭いを任された調律師に違いない。
 自分自身が、未熟であることは彼女自身良く知っている。未だに歪んだ剣しか作れない半端者。一族のもの全てから、そうやって謗られることはもう当たり前になっているのに。
 悔しい。口の端から零れそうになったその言葉を、歯で無理やり噛み潰す。いつまでたっても一人前になれない自分、当主の期待に応えられない自分。今この場に音の剣があるのなら、それで自分の心臓をずたずたに突き刺してしまいたくなる。
 そんな自虐的な思考を、ぼす、と頭を枕に強く埋めることで止めた。馬鹿らしい思考を続けていても、誰かが助けてくれるわけもない。そうやって、自分で立て直すしか、自分に術は無いのだと言い聞かせてきた。ずっと、前から。
 調律師は、音の剣は、誰かを助ける為のものであるのだから、と。
 埒もない思考を止めて、錫はのろのろと起き上がり、枕元の床に転がっていた鞄から携帯電話を取り出して、ベッドの縁に座り直す。
 登録している番号はひとつだけ。震えている指に気づかないように、何度も深呼吸しながら、コール音を聞く。通話先は、他ならぬ本家の外線電話だ。
 本家の下働きの人が出ればいい、と望んでいたのだが、耳に入ってきた低く艶のある声に、錫はびくりと背を竦ませた。
『――錫か』
「……ぁ、はぃ」
 ひくり、と喉が引き攣って、上手く声が出なくなる。普段からすぐに吃りがちになる己の声は、彼を前にすると更に使い物にならなくなる。
『如何した。報告は?』
「は、っい……! ぁ、の、まだ」
『別に今日明日で出来ると期待はしていない』
 まるで鉈のように無造作に振り下ろしてくる容赦の無い声に、錫は思わず背を丸めて縮こまった。それ以外に、身を護るすべがないと言うように。
 電話口から聞こえてくる声と、錫の声は、男女の差があれどどこか似ていた。がさついた錫の声に対し、男の声が含む色気はかなりのものだったが。
 それもそのはず、男――未森刃金(みもり はがね)は、錫にとって二人いる兄のうちの一人だった。
 優秀な調律師であり、両親の覚えも目出度い二兄と、全く振るわず後ろ指を刺される末妹。それが、未森の兄弟達の関係だった。幼い頃から、錫は刃金にも、もう一人の兄・白銀(しろがね)にも、優しい言葉一つかけて貰ったことは無い。勿論、それは仕方のないことだと、錫は納得していた。していても、辛いものは辛いのだが。
「ま、まだ、『負の音』を呼んだ人間は、解りません。もう少し、調べます」
 人間の負の感情が形になると言っても、それが人に仇名す化け物になるのにはきっかけが必要になる。つまり、ただその辺に散らばっているだけだった残り粕を、知らぬうちに増やしてしまうような存在。僅かな暗い匂いに充てられて、それを育ててしまう人間が、現れてしまった時に異変は始まり、それに合わせて調律師が派遣されるのだ。
『解った。――他に何か、報告することは有るか』
 冷徹な兄の言葉に、錫は一瞬迷う。今日出会った、あの奇妙な少年の事を、報告するべきか否か。しかしもし彼が、本家の派遣した調律師ならば、こちらが報告しなくても向こうが言うだろう。ひとつ覚悟を決めて、おずおずと錫は切り出す。
「と、扉の中、で。他の、調律師に、会いました」
『――何?』
 兄の言葉が一段低くなり、錫は泣きそうになる。堪えきれぬ苛立ちが浮かんでいるのが解るのだ。つまり兄が、その謎の調律師を把握していないという事実には、すっかり怯えてしまった錫が気づかないのだが。
『何故それを先に報告しない』
「ぁ、うぅ、すみませ、」
『無駄な謝罪はするなといつも言っている筈だ』
 逃げすら許されず、すっかり錫は委縮してしまったが、それでも如何にか、出会った相手の背格好を告げた。剣の歌を歌ったことも。流石に彼の剣を無理やり分捕ったことを自ら話す勇気は無かった。こんなことを告げたら、兄の怒りは天井知らずになってしまうだろう。
 ある程度報告した後、刃金は完全に無言になった。電話を切ることも出来ず、それ以上何か言うことも出来ず、錫は只管兄の言葉を待つことしか出来ない。
『――錫』
「ひぁ、はいっ」
『お前はその男に近づくな。こちらで調査する』
 引き攣った声を慌てて抑えると、兄の冷静な声がきっぱりと断じた。更なるお叱りを受けなかったことにまずは安堵したが、続いて錫の心はまた暗く沈みかかる。調査ひとつろくに出来ない妹だと、思われているのだと。
「ちょ、調査、なら、私が」
『お前には既に役目を与えた筈だが?』
「っ! す、すみ、ぅ」
 咄嗟の謝罪を、唇を無理やり噛んで堪える。これ以上兄の不興を買いたくないが為の必死な行動だ。幸い、兄にはばれなかったようで、僅かな吐息と共に、『では、次の報告で』と言って通話は切れた。
「は、あ……」
 心底から安堵の息を吐き、ぺしゃりと錫はベッドに横倒れになった。
 兄の苛立ちの理由は、ちゃんと理解している。
 負の音による大きな歪が起こる兆候があると先触れが告げ、錫が今の学校を訪れたのは、ほんの一ヶ月前のこと。
 調査を命じられたはいいものの、一体誰が原因なのかとんと見当がつかず。事態の悪化を待たなければそれを祓うことすら出来ず、その祓いすらこの体たらく。おまけに不審者との接触まで許してしまった。何度詫びても足りないが、兄は詫びることを許してくれない。
「……がんばら、なきゃ」
 そうだ、自分に出来ることは、頑張ることしかない。
 兄の言うことに逆らわず、世界を正すことだけを考えればいい。それが優秀な調律師であり、両親や兄が望むことなのだから。それが、世界の為になるのだから。
「頑張る。がんばる、から」
 から、の次に続く言葉は、とても唇から出すことは出来なかったけれど。
 まずは、あの少年には近づかないことだ。彼が同じ学校に通う生徒だということは間違いない。細心の注意を払い、接触を避けなければと、心に固く誓った。
 接触、というところを考えて、思わず胸に手をやる。それなりにある膨らみに、殆ど当たるように触れた感触を思い出して、錫の顔は真っ赤になった。
 ……咄嗟に殴ってしまったけれど、こんな貧相なものを触って殴られるなんて、あの人に悪いことをしてしまった。
 本気でそんなことを思い、色々な反省を鑑みて、耳まで赤くしたまま錫は再び枕と仲良くすることになった。



×××



 右手側にガードレールの気配と、途切れない車の音を聞きながら。左手に妹の肘の感触を感じながら、安綱はてくてく歩く。
「――んで、オジイ先生が怒ってるんだけど、全然迫力ないの」
「ははは、いてっ」
 妹のとりとめのない会話に笑った瞬間、びりりと顎に痛みが走った。咄嗟に菫子の腕を強く掴んでしまったので、慌てて離す。同時に立ちすくんでしまうので、妹もぴたりと歩を止める。
 す、と顔の前に掌の気配がする。抵抗もせずに待つと、顎をそっと菫子の柔らかい手が撫でてくる。
「これ、どこで打ったの? 赤くなってるよ」
「あー、多分机とか?」
 赤くなっている、という表現はいまいち安綱には理解できないが、僅かに熱を持っている部分がそういう風に見える、ということなのだろう。夢を見て机から転がり落ちた時に打ち付けたのだろう、と安綱自身は思っていたのだが、何故か不機嫌そうな気配が妹からする。
「……あの女子に、殴られたんじゃないの?」
「え?」
 思いもよらない台詞を聞かされ、今度は安綱の方が驚いた。ごく自然にまた妹の肘にそっと手をかけ、二人で歩き出しながら、改めて問う。
「あの女子、って?」
「兄貴がコケた後、教室から出てった子。確かつい最近転校してきた子じゃなかったっけ? B組に」
 明確に年功序列が出来ている高校という場所において、年上である筈の兄と同級生を「子」と呼ぶのはいかがなものかとちょっと思うが、女子の間では許される行為なのだろうか。そんな埒もないことに思考を飛ばしていた安綱は、聞かされた事実を漸く飲み込んで、目をぱちくりさせた。
「……どなた様?」
「名前、なんだっけかな。漢字一文字だった筈。シンプルでいいよね」
 社交的な妹でも、流石に学年の違う、兄の隣のクラスにやってきた転校生の名前までははっきりと覚えていないようだ。そしてスミレコという、武家の娘でもないのに仰々しい名前を戴いている妹にとっては、シンプルな名前には憧れがあるのだろう。唇を尖らせて言うちょっと不満げな声が可愛くて、思わず空いている方の手で頭を撫でてしまった。すぐにうざい、と言いたげに頭をぶんぶん振られたが。
 否、それよりも確認しなければならないことがある。
「そうだ、すーこ。ええーっと、その人って」
「うん?」
 妹の愛称を呼びながら確認しようとして、言葉に詰まった。何せ、自分が「見た」ものを説明するスキルが安綱には全く無い。
「……め、目が二つで鼻と口は一つずつ?」
「……うん、大概はそうじゃないかなぁ」
「ですよね! えーと、他には、後は、そうだ! 髪!」
「髪?」
「髪の長さ! どれぐらいだった? 肩ぐらいとか、肩より長いとか」
「んー……長かったね。多分腰ぐらいまであったと思う。あと、目の色が――あー、色が薄いの。黒より大分。透きとおってるみたい」
 菫子の方も、兄が色の説明を上手く解せないことはよく解っているので、何とか解りやすいように絞り出してくれた。
 腰まである髪と、色が薄い――つまり、「明るい」瞳。それは夢の中で安綱が見た少女の姿に合致する。
 まさか、という思いがじわりと浮かび、安綱の身に緊張が走ったのが解ったのか、菫子の手指が宥めるように、安綱の手の甲を撫でてくる。
「……すーこ」
「うん」
「あれが夢じゃないとしたら、俺の怪我は間違いなくそのお嬢さんの手によるものです」
「……原因は?」
「……せ、セクハラ……」
「うわ、最低」
 素で責められた。妹に蔑まれるのはとても辛いものがあるので、慌てて訂正する。
「いや! 故意ではなくたまたまで! 夢! 夢だよね! ねえ!」
「……見えたのが夢で、セクハラを働いたのは現実だと思った方が自然だよね。話聞く限り」
「うわああああああ」
 罪悪感に耐え切れずしゃがみこんでしまった兄を不憫に思ったのか、ほんのちょっとの躊躇いの後、頭頂をぽふぽふと撫でてくれる妹の手のひらの感触がある。言葉尻はきついものの、誰かを傷つけることは本意ではない優しい子なのだ、とシスコンぶりを発揮してみる。
「……明日謝った方がいいかなぁ……」
「セクハラが確実ならね」
「うん……」
 はい立つ、と言われて両肩を引っ張られたので、何とか立ち上がる。ゆっくりと二人で歩き出すと、今度は菫子の方から口を開いた。
「……けど、殴るまでしなくてもいいのに」
「いやあ、あれはでも殴られても仕方ないというか」
 中々素敵な感触ではありましたし。と言うといよいよ妹に心底軽蔑されると思ったので口には出さなかった。しかし相手の不機嫌はまだ収まらないらしく、ぼそりと呟く。
「だって、兄貴は」
 その後は続かない。言わなくても、安綱にも十分理解できるし、それをみだりに言うのを菫子は避けている。
 安綱に足りないものと、それ故に現代社会で味わう苦労を、菫子は良く知っている。幼い頃から、それに一番巻き込まれてきたのは、他でもないこの二つ下の妹なのだから。
「……もし俺の目が見えないって解ってても、セクハラしたら殴られるでしょ」
「それは、そうだけど」
 当然の事だからと、あくまで軽く言った声に、不満げながらも妹はそれ以上言葉を紡がない。全くこの子は結局、俺に対して過保護なのだ、と安綱はちょっと己を情けなく思う。本来なら妹を護るのが、兄の役目であるはずなのに。
「ありがとね、すーこ。でも大丈夫だよ」
「……うん」
 だから礼を言って、話を打ち切る。これ以上この話題で会話を続けるのは、二人にとって得策ではないと解っているから。妹がこくりと顎を揺らすのを確かめてから、二人は再びゆっくりと歩き出した。