時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

歌を掲げよ、剣を紡げ

 次の日の昼休み。
 安綱は手早く妹と合作した弁当を掻きこむと、隣のクラスへ出向いた。自分の体質についてはクラスメイトは了承しているので、自分が通るときには自然と道を避けてくれる。ありがとねー、と声をかけつつ、廊下に出る。
 学校の地理は、入学してから先生に付き添われて歩き周り、把握している。隣の教室の扉を開くのに、なんの手間もかからなかった。
「すいませーん。ちょっとお伺いしたいんですが」
「え、ああ。何?」
 適当な気配に向かって声をかけると、相手は驚いたようだったが素直に答えてくれた。ちょっとホッとして、改めて問う。
「ええと、最近転校してきた、髪の長い女の子、名前が漢字一文字の子」
「ああ、未森さん? 呼ぶ?」
「お願い」
「未森さーん! 奉来君が呼んでるよー」
 名乗らなくとも苗字を出され、わあ俺って有名人、と嘯く間もなく。教室の空気が動き、誰かが立ち上がる音がして――駆け去る足音。
「あれ? 未森さーん!?」
「も、もしかして逃げちゃった?」
「うん。え、どうしたの、何かしたの?」
 訝しげな視線を感じとってしまい、安綱は呻く。嫌われた覚悟はしていたけど、まさかそこまでとは。
 否、これで昨日見た夢か現か解らないものが、半分以上は現実だったこともはっきりした。まずはきちんとミモリさんという相手に謝り、その上で聞かなければなるまい。踵を返して両手を伸ばし、廊下に出る。
「どっち!?」
「え、えっと、左の方に走って行ったけど」
「ありがと!!」
 何も知らない親切な生徒に礼を言い、壁に片手をつきながら走り出した。



 ――なんで追いかけてくるんだ!!
 錫は慌てていた。接触はしないと決めていた相手が、まさか自分から訪ねてくるなんて。昼食を手早く食べて、今日も学校の精査をしようと思っていたのに。
 長い黒髪をなびかせながら、彼女は走る。とにかく撒かなければと思うのだが、相手の足も結構速い。どんなに鍛えても並みより少し上の運動力しかない己の体を恨むしかなかった。
 人通りの少ない北側の階段を一気に駆け降りると、相手の足音が少し緩んだ。理由は解らないが、勝機と思い、階段裏のデッドスペースに走りこむと、息を思い切り吸い――止めた。
 調律師の使う陰行だ。己の周りの空気の動きを完全に止めることで、気配を消す。調律師同士でもこれを使えば、なかなか場所を割り出すことは出来ないはず。
 しかしこれは、呼吸をすると当然だが空気が揺れ、術が破れてしまうという弱点がある。無論調律師は、訓練によって10分程の呼吸停止を可能にするが、当然錫はそれ程優秀ではない。2〜3分が関の山だ。
 とん、とん、という足音が聞こえる。追いかけてきたあの男の足音と、足運びの癖が一致する。
 ぎゅっと体を縮こませ、せめて見つからないようにと、しまわれた荷物の影に固まって動かない。
 ――どうしよう。
 相手は、やはり優秀な調律師なんだろう。自分なんかと比べ物にならないぐらい。それなら、自分の未熟な陰行なんて、あっさり見抜いてしまうかもしれない。
 ――どうしよう。
 そうしたら、どうすればいい? 兄には「接触するな」と言われたのに、接触したらまた兄を失望させてしまう。もうこれ以上、迷惑なんてかけたくないのに。
 すっかり委縮して、ぎゅっと目を瞑る逃避しか出来なくなった彼女の耳に――「自分の足音」が、上の階から聞こえた。



 「――あれっ!?」
 安綱は、心底驚いた。一番苦手な下り階段を、手すりを両手で掴んでどうにか降りていたのだが、下に駆けていったはずの少女の足音が、何故か先刻通ってきた階段を上っていくのだ。
 最初は勿論、聞き間違いだと思った。だが、昼休み中の廊下で彼女の足音を聞き逃さないように必死だったので、それは無いと納得できてしまった。自分の耳にだけは、絶対の自信があるのだから。
 何度も耳を階下と階上に向け、それでも安綱は、己の耳を信じた。
 「おっかしいなぁ……」
 首を捻りつつも、手すりを掴み直し、階段を上り始める。爪先がすぐに次の地面に辿り着くので、上るのは下るよりも得意なのだ。


 錫の方も、驚いていた。三階の階段から聞こえてきたのは、間違いなく自分の足音だったからだ。それに合わせて、逡巡する気配の後に、階段を上っていく追跡者の足音が聞こえる。それも消えて――訳が分からないながらも、錫は安堵の溜息を吐く。
「おい、愚図」
「っ!!!」
 不意に、後ろから不機嫌この上ない声をかけられて、錫は飛び上がった。思わず床に両手と両膝をついてしまい、慌てて後ろを振り向く。
「は。豚みてーな恰好してんじゃねえよ、この愚図ッ」
「……っ、し、白銀兄さ、」
「あァ!? てめぇに兄なんざ呼ばれる趣味はねぇって、何回言わせりゃわかんだよ!」
「ごっ、ごめ、なさ……!」
 低く、迫力のある声で怒鳴りつけられ、錫は畏まってほとんど土下座のような体勢になった。それを見下ろして、声の主――二十歳を超えてすぐ辺りの、銀色の短髪を後ろに撫でつけた男は、心底不愉快そうに歯を剥き出して噛み締めた。
「けッ、相変わらず兄貴に甘やかされてんのかよ、この糞餓鬼が。こんなしょっべえ仕事、いつまでちんたらやってんだァ? オイ!!」
「し、白銀様、声をっ、気づかれ、」
「阿呆か! 音払いの結界なんざ、とうに張ってンだよ!」
 そう言われて、漸く錫は気づくことが出来た。錫と男――未森白銀の周り半径2メートルほどの円状に、音を通さない空気の壁が出来上がっている。先刻の錫の術と違い、姿自体を隠すことは出来ないが、音や声が外に漏れることは無い。
「ンで? ピンチを助けてやった俺様に対し、愚図は礼の一つも無しかよ、えぇ?」
「ぁ……」
 やっと、下の兄の――そう呼ばれることを彼は激しく嫌うので、言うのは憚られるけれど――苛立ちが収まったらしく、錫も安堵する。粗暴で短気ではあるが、術式の使用においては上の兄・刃金に勝ると言われる白銀が、恐らく先刻の「錫の足音」を作ったのだろう。
「ぁ、ありがと、ござい、ます」
「ケッ。――しかしあいつ、お前の足音を完璧に聞き分けてやがったな。兄貴に言われた時ァ信じられなかったが……マジでモグリの調律師か?」
「ぇ……」
「てめぇには関係ねぇことだろうがッ! 黙ってろ!」
「す、すみませ……!!」
 ぼそぼそと独り言のように呟いた白銀の声に思わず錫が反応すると、羅刹の顔で怒鳴られた。慌てて俯きながら、彼女はこっそりと考える。
 ――モグリの調律師。確かに、兄はそう言った。
 調律師とは未森の家を本家として、様々な分家が全国各地にあるが、それに属する調律師はすべて未森の当主――すなわち、錫達兄妹の父が監督・把握している。モグリ、というのは、つまり父が知らない調律師であるということだ。大抵は、霊能者紛いのことをして金を稼ぐつまらない者達だ、と上の兄に聞いたことはあるし、下の兄もただその存在が珍しいというだけで、脅威とは見ていないようだった。つまらなそうにフンと鼻を鳴らし、もう一度しゃがみこんだままの妹を見下ろす。
「……よし、あいつの調査はお前に任せる。俺ァさくっとここの親玉を潰したら帰るからよ、後ァてめぇの好きにしな」
「え……っ」
 次兄の唐突な言葉に、驚いて顔を上げると睨まれた。肩を竦めつつも、その命令には非常に困るので、如何にかこうにか言葉を紡ぐ。
「あ、あ、の。刃金に……様、には、お役目の続行を、命じられ、て」
「ああァ!? てめぇ、愚図の分際で俺の命令が聞けねぇってのか!!?」
「ごっ、ごめ、ごめなさ……!!」
「てめぇは大人しく、俺に言われた通りのことやりゃあいいんだよ! ――馬鹿がッ!!」
 最後の捨て台詞と共に、境界が薄れ、同時に白銀の姿もその場所から消えた。恐らく、本人は別のところにいて、声のみの分身を作って接触してきたのだろう。幼い頃はこの術式で、何度も次兄に騙され遊ばれ、長兄には自分だけ怒られた。それでも、嵐が過ぎ去った安堵に、錫は細く長く息を吐く。
 冷たく氷のような長兄と対照的に、苛烈な炎のような次兄。性格も気性も正反対ながら、どちらも調律師としては、父の次に高い地位を得ている。それ故に衝突も多く、どちらが当主の跡目を継ぐかという憶測も飛び交う。全部、錫の頭の上で。
 だからこうやって、二人の兄から全く別の命令を受けることも、珍しくない。
 そうなると、困るのは錫だ。どちらの命を聞けば良いのか、錫には判断できない。そしてどちらを聞いても、確実にどちらかには怒られ、失敗すれば更にもう片方にも怒られる。
 子供の頃から、何度も、何度も繰り返し。すっかり錫は、自分で決めるということが、出来なくなってしまっていた。
 ――どうしよう。
 答えの出ないいつもの煩悶が、ぐるぐると喉の奥に巻く。動かなければならないのは解っているけれど、体を動かす気力が沸かない。
「……どうし、よぅ」
 ぽつり。と、ほんの小さく小さく、呟いた声は、誰にも届くことは無く。