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ヨブ記・第四十章





「見よ、わたしはまことに卑しい者です。
なんとあなたに答えましょうか。
ただ手を口に当てるのみです」









関わらない、つもりだった。必要最小限のこと以外に。
それなのに。
「あーどこ行くんだよ!」
外に出ようとする所を、見咎められた。
「…買い出しですが」
「ズルイ! あたしなんか一歩も外出てないのに! 出ちゃいけないっていったのはそっちじゃん! ズルズルズル―――――!!!」
金切り声を側で上げられて、眉間を長い指で軽く抑える。
「………一緒に、行きますか?」
まぁ彼女の身の回りのものも買うつもりだったし、我慢しましょうか。
そんな彼の心境を知ってか知らずか、ぱああああっと亜輝の顔に満面の笑みが広がる。
「いやったーぁ!」
くるりと空中で一回転して見せる彼女に、留架はこのところ癖になってしまった溜息を吐いた。





すたすたすた。
かほん、かほん、かほん。
「ちょっと待ってよ! 歩くの速い―――!」
海を見下ろす教会から一番近い店まで行くのには、アスファルトの道路の上を暫く歩かなくてはいけない。そこを歩くのに、何故こんなけったいな音を立てているのかと言うと…
「自分の靴を無くしたのは貴方でしょう。我慢しなさい」
「う〜」
自分の履いていた靴を自分で処分してしまったので、留架の靴を借りていたのだ。当然サイズが合うわけが無い。一歩歩くごとに、踵が抜けている。
「ちょっとはいたわってくれてもいーじゃん! ケチ、ズル、童貞神父―」
好き勝手に言ってくる罵詈雑言は全て無視。
「……無視すんな―――!」
がたがたがたっ、どしん!
「っ……」
坂道+合わない靴というハンデをものともせず、全力で走って留架の左腕に体当たりをかました。そのまま腕を絡める。
「何のつもりですか?」
「歩くから、補助!」
体重を思いきりかけて、歩き出す。柔らかい胸に腕が押し当てられていて何とも居心地が悪いのだが、亜輝の方は上機嫌で鼻歌まで歌い出している。
諦めたのか、そのまま端から見たら仲睦まじい恋人同士の様に歩いていった。






百貨店というには小さな店だが、品揃えは豊富だ。養父が健在だった頃から、買いものは全てこの店で行っていた。
「留架、カート使おうカート」
「そんなに荷物は多くしないつもりですが」
「いーじゃん使おうー! ほらほら」
ガラガラと引っ張ってきたそれの押し手を握らされると、籠が乗ったサイド、留架と向かい合う格好で亜輝がカートにしがみつく。子供の頃ふざけてやって、危ないと親に叱られたあの乗り方だ。
「さぁー動かせ!」
「…子供ですか貴方は」
「べー」
可愛げなく舌を出すその仕草に黙考し、諦めたのか少し腰に力を入れてカートを押し始める。
「きゃははは!」
端から見れば見目麗しい少女が、子供のような戯れに笑い声を上げている。周りから不審な視線が集まってくるが、勿論本人は気にしていない。
「亜輝、重いです。そろそろ降りてください」
「やだよーん」
どうしてそんなにテンションが高いんだ、と思いつつ、留架は針の筵となった食品売り場を進む。
籠にセロリを入れると嫌いだからと言って棚に戻し、うっかり菓子売り場に入ると片っ端から籠に入れられる。そんなじゃれ合いを繰り返しながら、ふと留架は、昨日あれだけあった彼女への嫌悪感が随分薄れていることに気がついた。
彼女という人間は相変わらず掴めない。あれだけ人の心を抉るようなことを言うかと思えば、スーパーのカートに乗っかって無邪気な笑い声をあげている。
理解しようとするだけ、無駄なのかもしれないと思い始めていた。
「…か、留架ってば!」
名前が耳に飛び込んできて、はっと我に返る。前を見ると、むうっと口を尖らせた亜輝がじいっとこっちを見ている。
「人が呼んでるってのに無視してんじゃねーよ!」
「あぁ…済みません。何ですか?」
そう聞くと、打って変わった様ににこにこしだして、近くの棚から最近良く宣伝しているらしい新製品のお菓子を取り出す。
「これ食べたい!」
「駄目です」
にべもなく。
「何で! さっきのおやつ全部出しちゃうし、これぐらいいーじゃん! ケチケチ星人――!!」
「教会が貧しいのは貴方が良く知っていると思いますが? これからあなたの身の周りの物も買わなければいけないんです、我慢してください」
「別にいらないからこれ食べたい―――!」
「無茶を言わないでください…」





押し問答の末、日用品を買った後のお金と相談して、結局その菓子だけ買うことになった。
店から出るのを待ちきれないように袋からそれを取り出し封を切る。
「ん〜、美味しー!」
箱の中から一個取りだし、幸せそうに頬張っている。
「良かったですね」
「うん!」
荷物を全部留架が持っているのは当たり前らしい。留架のほうも持たせる気は無かったが。
「あ、留架食べる?」
「要りません」
「遠慮すんなってー。はいあーん」
「…………」
口元に甘そうな匂いのする菓子をつき付けられて…逡巡の末、僅かに口を開けた。
「うりゃ」
無理矢理その隙間にねじ込まれた砂糖の塊を、ゆっくりと咀嚼する。意外と甘さは抑えられており、味も悪くなかった。
「んまい?」
小首を傾げて、聞いてくる。
「……えぇ」
「良かった!」
ほっと息を吐き出したその笑顔が、あまりにも無防備だったので。





留架の体温が、ほんの僅か上昇した。





「…………っ……」
ぱん! と鋭い音を立てて、口元を抑える。
今私に……何があった?
「何? どした?」
俯いた顔を覗きこまれる前に、態勢を立て直した。
「…いえ、大丈夫です」
軽く首を振って、歩き出す。
「…あ、ちょっと、何だよ! 先に行くなってば―――!」
かふかふかふ、と間の抜けた足音を立てて亜輝が追う。






「神父様?」
道端に腰掛けていた老婦人に、声をかけられて留架は立ち止まった。
「あぁ…お久しぶりです」
いつも礼拝に来てくれる女性だと気付き、会釈し合う。
「わぷっ」
ぼす、と勢い余って亜輝が黒い服の背中に激突する。
「急に止まるなよ〜」
「祈って頂けますか」
「えぇ、私で宜しければ」
「ありがとうございます」
「こら! 無視すんなってば!!」
老婦人は耳が遠いのか、顔を近づけて言う留架の台詞しか耳に入っていないようだし、留架は先ほどの出来事からまた亜輝との間に線を引きたいらしい。
「天に召します我等が神よ…」
目を閉じて小さく祈りの言葉を奉げる留架に、苛立ちと寂しさがない混ぜになった不思議な視線を送る。
「Amen.」
小さく十字を切って言葉を切ると、老婦人は深深とお辞儀をしてゆっくりと歩き去っていった。
それを見送り、ふと後ろを振り向くと、険悪な視線とぶつかった。
「……何ですか?」
表情を変えないまま問いかける留架に、一層眦がきつくなる。
「…偽善者」
「……?」
きり、と音がして、亜輝の唇に血が滲む。噛みきるほどにきつく噛んでいるらしい。
「亜輝、何が…」
ぱぁん!
伸ばされた手を、跳ね除ける。
「本当は信じてないくせに! 神様なんて信じてないくせに! この偽善者!」
「………っ!」
叩きつけられた激昂に、留架が拳を握り締める。
「殴るの!? 殴ってみろよ!! 痛くも痒くもないね、馬―鹿!」
眩暈がする。
自分の身を切り刻まれているのか、と錯覚した。
それほどまでに彼女の言葉は激しく、痛かった。
「いもしない、信じてないヤツに縋らないと生きていけないわけ!? わかんないと思ってた!? アンタ全然、さっき祈ってる時、信じてなかったよっ!!」
叩きつけられる言葉が頭の中でグルグル廻る。
何故反論できない? 何故反撃できない? 簡単だ、それは―――――
「アンタ全然本当のこと言ってないッ!! 弱虫! 偽善者! ―――嘘吐きッ!!」
バン!
まだ持っていた―――力を入れすぎて拉げてしまったが―――菓子箱を思いきり叩きつける。眼鏡を庇った留架の足元に菓子がバラバラと落ちる。
「……亜」
「…帰る!!!」
合わない靴を脱ぎ捨て、裸足のまま亜輝は駆け出した。
呆然とそれを見送った。
反論できなかったのは……そう。





『それが真実だったからだ』





―――彼女は怒っていたのだろうか?
では何故、
―――涙を浮かべていたのだろうか?
何故、彼女が怒るのだ?
何故、彼女が泣くのだ?
何故、何故、何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故――――――
「う……ッ……」
ずきずきと痛む頭を抱えて、留架は道の真ん中に膝をついた。
答えが出せない。
頭が痛い。
考えては駄目だ。
答えが出ない。
考えるな。考えるな。
答えが出たらきっと私は、

私では無くなる―――――――

その恐怖が、留架を震えあがらせた。
目を閉じ、耳を塞ぎ、首を振って、全ての疑問を頭から払拭させようとする。
それなのに、彼の脳裏には、ひらめいたワンピースと。
小さく輝いた瞳に浮かんだ涙が、いつまでも消えることが無かった。