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ヨブ記・第四十二章


『無知をもって神の計りごとをおおう
この者はだれか』。
それゆえ、わたしはみずから悟らない事を言い、
みずから知らない、測り難い事を述べました。





留架は彼女より、大分遅く教会に帰った。
いつも通りにポストをチェックしたら、珍しい手紙が入っていた。高校時代の同窓会の知らせだった。
生まれてからずっと教会にいたような留架も、一応学校にはちゃんと通っていたのである。高校卒業と同時に神父見習になってしまったが。
無言のまま、その封筒の封を切らないままテーブルの上に置いた。見る気がしなかった。
足が自然に階段に向かう。しかし屋根裏へ繋がる狭い階段の前まできて、足は止まってしまう。
ちゃんと部屋に帰ったのだとは思う。確かめなければいけない、だが顔を合わせるのは怖い。
逡巡したまま凍らせてしまった留架の足を溶かしたのは。
ジリリリリリン!
はっ、と留架は我に返った。金縛りから解けた様に、音の出所へ向かう。階下の廊下の先にある電話だ。どこか浮世離れしたこの教会に、電話がかかって来る事は滅多にない。しかもこの音は、広げた間口の一つである電話帳に載せている事務用のものではなく、留架の自宅用の電話だった。この電話の番号を知っている者は少ない。おのずと相手は絞られる。
「………もしもし?」
『…おっ、やっと通じた。昼出かけてたのか?』
「……どちら様ですか?」
『あ、冷てぇな。忘れたのかよ』
「………! 志堂ですか!?」
『ピンポーン』
おどけて返って来る返事に、完全に留架は絶句した。



志堂 響。
留架の、唯一と言ってもいいかもしれない、高校時代の悪友だった。
学生の頃から常に浮世離れした風貌と性格の留架は、遠巻きにされる人間だった。憧れる人間はいても、声をかけようと勇気を持つ者はいなかった。
志堂は逆に、所謂不良として一般生徒から敬遠されていた。端から見れば何の共通点もない二人だが、何故か良くつるむ様になった。はぐれ者同士で波長が合ったのかもしれない。しかし彼は、高校卒業と同時に「旅に出る」ときっぱり言い切ってこの街から姿を消したのである。実に、6年ぶりに聞く声だった。
「どうして急に…」
『いやー、今日帰ってきたんだけどさ。お前ンとこ顔出して、飯でも食おうかと思って電話したら繋がんなくてよ。昼はブラブラして、今またかけてみた』
「そうでしたか…すみません」
『別にいいって。それよか、これから寄ってもいいか?』
「今…ですか?」
少し考えた。友人に会いたいのは山々だが、今は…ある意味修羅場である。人が増えたら却って場が混乱するかもしれない。何より、友人とあの少女が意気投合しそうな気がして、寒気が背中を走りぬけた。想像で終わらないことを確信して、軽く頭を振る。
「こちらにも少々、事情がありまして…申し訳ありませんが」
『そっか? じゃ明日、出れるか?』
「えぇ」
こちらから出るのは、寧ろ大歓迎だった。
居心地が良かったはずの自分の領域(テリトリー)が、侵食されているのが解る。抜こうと思ってもそう簡単に抜けない、歪な楔が刺さっている。
少なくとも、暫くここには居たくなかった。
『じゃ、会おうぜ。駅前の「カーリィ」って茶店、覚えてるよな? そこに朝10:00』
出された名前は、学生の頃、二人の御用達だった喫茶店だった。そのことを思いだし、留架の瞳に郷愁が宿る。
「はい。そこで良いんですか? 解りました」
『あぁ。じゃ、明日にな』
ブツン、と何の余韻も無く電話が切れる。自分の言いたいことだけ言って、人の迷惑というのを…いや、他人と言うものを気にかけたことがない志堂にとって、こんなことは当たり前だった。
―――全く、変わっていないと一つ溜息を吐く。
学生の頃から、彼は絶対に人の事を考えず、人の言うことを聞かなかった。反発でなく、そんなことを考える余裕がないと言うのだ。
自分自身を受けとめて守るだけで精一杯だからと。
彼は誰にも縛られず、誰にも干渉されない。その事を、少しだけ羨ましいと思ったことも、ある。
しかしだからこそ、相談したかった。彼になら、この脳味噌の中を渦巻く不快な不安を、和らげることが出来るかもしれない。
留架がそんな時頼れるのはもう、この根無し草の悪友しかいなかった。
迷った時、受け止めてくれた養父はもうこの世にいない。
彼が祈っていた神の声は、自分には聞こえない。
「……私は………」



『本当は信じてないくせに! 神様なんて信じてないくせに! この偽善者!』



神は、本当にこの世にいるのか?
この世に生を受けてから、
物心ついてから、
その疑問を感じなかった日は、無い。



『いもしない、信じてないヤツに縋らないと生きていけないわけ!? わかんないと思ってた!? アンタ全然、さっき祈ってる時、信じてなかったよっ!!』



自分の口から滑り出る、上面だけのイノリのコトバ。
それが我慢できなくて、探した。
『神』と名のつくものが、一体何なのかと。
そして出された結論に――――私は眼を瞑った。



『アンタ全然本当のこと言ってないッ!! 弱虫! 偽善者! ―――嘘吐きッ!!』



私は、偽善者だ。





天井が回ったような気がした。
のろのろと自分の部屋に入り、着衣のままベッドに倒れこんだ。
眠ってしまおう。眠ってしまおう。
願わくば、悪夢を見ないようにと。
…この祈りすら、誰に祈っているのか解らないまま、意識は闇に沈んでいった。






そっと、シーツの下から顔を出してみる。耳を澄まし、足音が聞こえないことを確かめ、またシーツの中に潜りこんだ。
薄布で外界と隔離され、僅かな安心感が身を包む。しかしその後すぐ襲ってくるどうしようもない孤独感に、亜輝はぶるっと身体を震わせた。
怖かった。一人で居るのは、何より怖かった。
両親と便宜上言わなければならないモノ達は、亜輝のことを腫れ物に触れるように扱った。赤ん坊の頃から癇の強かった下の娘を、二人とも持て余していた。
そんな二人にとって、出来の良い、自分達の言うことを何でも聞く姉は、素晴らしい子供だったのだろう。やがて、家の中で、亜輝の存在は無くなった。
そう、無くなったのだ。姿を見せようが、声をかけようが、無視をした。何をしようと、気に留められなくなった。
その時、始めて、自分の存在が希薄になっていることに気付いたのだ。
自分の存在を知っているのが自分だけ。こんな恐ろしいことが他にあるか?

私が死んでも誰も気付かない。イコール、私はこの世に存在していないのだ!!

そのことに、喩えようのない恐怖を抱いた。それを払拭したくて、夜の街をふらついた。あの家には、もう居ても意味がないと思ったから。
笑いかけてさえやれば、誰かがついてきた。お金を貰った。セックスをした。そのことが、嬉しくて仕方がなかった。
そこが亜輝の世界になった。家や親など、もう必要なかった。
それなのに、彼らは再び干渉してきた。今更と思ったけれど、……嬉しかったのだ。
例えそれが、厄介払いの最後通告に過ぎなくても。寧ろ大歓迎だった。
そして連れてこられた古びた教会に、彼は居た。


自分を見ても何一つ動かない表情。
人形の、硝子玉の目のような瞳。
最初は解らなかった。段々、怖くなった。
『コイツは、あたしの存在を認めてない』
そう思って、腹が立った。事実、何度も彼は自分を無視した。
この教会の中にはたった二人きりで、それなのに彼が自分を認めないということは、また自分は

「……! やだ!」
目を閉じ、耳を塞ぎ、身体を丸める。
怖い。怖い。怖い。
この世界に自分しかいない、恐怖。
この世界に自分がいない、恐怖。
どちらも彼女にとって耐えがたいことだった。
それでも、少しずつ少しずつ、相手の目の中に自分を入れていって、それで満足していたはずなのに……
今日の夕方、自分の存在を無視して祈りを奉げた留架。その祈りには、驚くほど何も篭っていなくて。
彼の存在が、自分と一歩ずれた所にあるのではないか。
彼にとって、この世界の事象は全て意味の無い事ではないか―――
そう考えた瞬間、目の前が真っ赤になるほどの怒りが充満して、爆発した。
それを思う様叩きつけて、今…ここにいる。一人で。
「…っく……」
嗚咽が漏れそうになって、自分の手の甲を血が滲むほど噛んだ。
大丈夫。大丈夫、明日になれば、また何事も無かったかのようにこの扉を開けてくれるはずだ。その前に、自分が逃げ出さない様に鍵を閉めに来る筈だ。
そう思っているのに、階下からは何の物音も聞こえてこない。
がたがたと震えを呼ぶ恐怖を堪えるように、ますます顎の力を強めた。
錆の味がしても、構うことなく。
眠ってしまおう。眠ってしまおう。
明日になれば、この恐怖は消える……きっと。
そう信じて、無理矢理目を閉じたが、眠気はそう簡単に来てくれそうも無かった。