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008.いじわるなハニー

 就業時間のうちで仕事をこなすのが、正しい社会人としての姿と言われても。
「大変だな、先生」
「ジャーナリストは大変じゃないのかよ……」
 家に持ち帰らなければならなかった仕事の山を目の前にして、眉間に皺を寄せる英冶。ローテーブルの向こう側で一人気持ち良さそうにビールを呷る相原に、憎まれ口の一つも叩きたくなるのは当然のことだろう。
「お前だって、原稿の〆切あるって言ってたじゃないか」
「昼間のうちに終らせたよ。もう送ってきた」
「マジかよ」
 がく、と肩を落すと、まぁ頑張れ、と軽い調子で頭をぽんと叩かれた。この野郎、と薮睨みのまま頭を上げると、思ったよりも相手が穏やかな顔をしていたので怒るに怒れなくなった。
 彼が普段どれだけ忙しい時を過ごし、世界中を駆け回っているか良く知っている。たまの休み、とすら言えない僅かな時間の空きを作り、自分に会いにわざわざこの国まで帰ってくることも。
 やっかいな案件を抱えているのか、僅かに顔色が悪い時も。仕事で嫌な物を見たのか、口数がいつもより少ない時も。それでも彼は、此処に来る。英冶の家に。
 無理はするな、と言ったことはある。無理をしなけりゃいけない仕事さ、と笑ってかわされた。
 少しは休め、と言ったこともある。休んでるじゃないか、と実に不思議そうに言われた。
 俺は何をすればいい、と聞いたことすらある。お前がいればそれでいいんだ、と真剣な顔で言われた。
 解ってはいるけど、こいつに勝てない。中学の頃から、勝てた試しがない。
 相原の寛ぎが目に見えて解るので、それ以上悪態もつけず、改めて今日中に作らねばならないテスト問題をやっつけていたのだが。
「……あれ」
「ん?」
 中学、テスト、相原。そのあたりのキーワードが、何故か一本の線に繋がり、ふと思い出した。訝しげな相原の声にいや、とだけ返し、英冶は己の記憶を手繰り寄せる。
 こんな事、前にも無かったか、と。



 そう、まだ自分達が中学生の頃。大人に歯向かう手段を得て、得意になっていた昔の話だ。
 どんなに普段大人たちをきりきり舞いさせていても、毎月のようにあるテストから逃げることなど出来ない。
 相原の家である塾にはいつも仲間が集まって勉強にならないので、逆にテストが近くなると皆塾から足が遠のく。
 そんな中、英冶は相原の部屋で勉強に励んでいた。いつも色々な所謂「悪い遊び」に英冶を誘うのも相原だが、己が不利になるような勉強に関する手の抜き方はしない。尚且つ頭も良いので、解らないところがあったら聞けば良い。家で一人勉強するのは中々辛い英冶にとって、有り難い場所だった。
「くそ、何でテスト一週間前に宿題なんか出すんだよ」
「嫌がらせだよな。……よし、終わり」
「えー。写させてくれよ」
「駄目だ。解き方なら教えてやるから、ほら頑張れ」
 すっかり茹ってしまった頭と、中々減らない宿題にすっかり嫌気が差していた英冶は思わず相原に縋りつくが、そういうことは許してくれる男ではない。あっさりと往なされ、ぶつぶつと不満を漏らしながらも再びノートに向かう。
 ――ふと、視線を感じてちらりと前髪の間から覗く。
 テーブルに頬杖をついて、相原が自分を見ている。
 その顔は、いつも自分に見せるものよりも随分穏やかに見えた。苦しんでいる友人を見ながらにやにや笑っているのではないかと思っていた英冶は、拍子抜ける。
 僅かに頬を緩ませ、眇めた目でじっと英冶を見ている。空気は緩やかに弛緩しているが、その視線は途切れることはない。
 何故か尻の座りが悪くなり、英冶はもぞもぞと座布団の上で腰を動かす。
 居心地が良いわけではない。なのに、悪いわけでもない。何とも落ち着かないのに、離れがたい。
 そんな英冶の緊張に気付いたのか違うのか、「何か飲み物取ってくる」と何事も無かったかのように相原が立ち上がり、部屋を出て行った。
 あっという間に妙な緊張感が解け、英冶は息を吐く。不思議に思いながらも、再びノートへの没頭を開始する事にした。



「……やっぱり、そうか」
「何がだ?」
 過去を反駁し終わり、英冶は納得して呟く。すっかり缶を干した相原が、不思議そうに聞いてきた。
「いやちょっと、中学の時のテスト勉強とか、思い出してたんだけど」
「ああ、なるほど。辛かったなあ」
「お前は余裕だったじゃないか」
「そんなわけあるかよ」
 軽く肩を竦めて笑うその様は、大分大人びた筈なのにあの頃の面影がどこかあって。
「それで、お前の家で勉強したりしたけどさ」
「ああ」
 同じく思い出したのか、微笑む様は、本当にあの頃と変わらなくて。
「……お前、あの頃から、本当に俺のことが好きだったんだなぁって」
 相原の握っていた空のアルミ缶が、ぺきりと音を立てて潰れた。
「おっ前、なにっ」
 普段の余裕がすっかり吹き飛んで慌てる相原に、十数年ぶりの溜飲を下げて、英冶は声を上げて笑った。