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のんべんだらりんごった煮サイト

007.ジュピター

 ひそひそ、ひそひそ。
 決して大きくも小さくもない女官達の声が、リエンの耳にはちゃんと届いている。
 竜と共に生きるこの国で、更に崇められる対象であるセレスチャル種のドラゴン。その幼竜として生を受けたリエンには、生まれる前から豪奢な室と、沢山の宝飾が与えられていた。誰もが期待し、誰もが誕生を待ち望んでいた。リエンも卵の中から、その崇拝が当然であると納得していた。己が父も母も、兄弟達も皆そうだったのだから。
 しかし、彼女が殻を破り外気に触れた瞬間、辺りを囲んでいた人々は一斉にその瞳を恐怖に曇らせることとなった。
 彼女の体色が、死を司る白色であった為だ。
 下らぬ迷信と切り捨てるには、それは人々の心に深く刻み込まれていた。あっという間に傍付きの人間達は離れていき、リエンの部屋には誰も訪れなくなった。
 敬意は忘れられていない。毎日のように豪華な食事は用意されるし、勉学の為の書物は部屋の隅に堆く積み上げられ、心を慰める楽隊の演奏は耳に届く。だが、それだけだ。誰もが扉の前に傅きひざまづくだけで、部屋の中には入ってこない。
 セレスチャル種は貴重なる竜。例え本来有り得ぬ体色を持っていたとしても、乱雑に扱えるわけもない。ただ、皆畏れ、距離を取るだけだ。
 そしてひそひそと囁かれる、死の申し子の如き白いドラゴンに対する埒も無い噂話。ドラゴンの耳の良さを解っていないのか、部屋の外で囁かれてもちゃんと届く。
 曰く、食事を作っていた料理人が体調を崩した。このまま復帰しないのではないか。
 曰く、館を守る兵士が一人亡くなったらしい。流行り病だというが、怪しいものだ。
 曰く、あの白き竜が、死を呼んでいるのではないかと。
 一体何処から聞いてきたのかすら解らない、無責任な噂話。僅かに鼻を鳴らし、リエンはまだ細い首を丸め、体の隙間に鼻先を押し込む。こうすれば、煩い雑音を聞かなくても済む。
 不快さは僅かだ。この国で白が不吉な色だという知識は、生まれる前からちゃんと備えていたし、己が体色が疎まれるのだろうという予測もついていた。人を愚かだと笑いはするが、いちいち付き合う必要も感じない。己は己、人間に何を言われようと鼻先で笑うだけだ。
 ただ、ひとつだけ。気にかかることは。
 遠くから聞こえてきた、優雅な足音に、リエンは冠翼をぴくりと動かす。それは真っ直ぐにリエンの部屋へ向かってきて――遠慮も何も無く、ばたんと扉を開けた。
 豪奢な絹の服の裾を引き摺りながら、近づいてくる少年。この国の第一皇子でありながら、皇位継承権を失った。――他ならぬ、リエンを己が竜とした為に。
 鎌首を擡げたリエンに対し、満足げに笑う美しい少年は、箸より重いものなど持ったことは無いのだろう細い手指で、彼女の白い鱗に触れる。一瞬ぴくりと身を震わせたリエンの機微になど、気付かないかのように。
「今宵は良い夜だ。星が良く見える」
 唐突な主の言葉に、リエンは赤い瞳を瞬かせる。己の言葉が聞かれぬことなど有り得ないと本気で思っている傲慢な少年は、そのまま無造作に、まだ小さな彼女の体を抱き上げた。
「来い、リエン」
 しっかりと抱き締められているのだから、来るも来ないも、黙って運ばれる事しか出来ない。彼の腕を振り解くなど、リエンに出来はしない。
 ただ、顎をするりと守り人の肩に擦りつけるだけで是と答えた。



 しんと静まり返った庭から、確かに空は良く見えた。月は三日月でそれほど明るくなく、その分星が目に付きやすい。
 きらきらと輝く宝石の欠片が、宵闇のビロードの上に散っているようで、リエンは思わず目を奪われた。美しいものに竜が惹かれるのは、もはや習性のようなものだ。
「欲しいか」
 揶揄するように、笑われた。竜の皮膚に血が通っていたら、リエンの白い頬はあっという間に赤らんだかもしれない。 
「お戯れを」
「あれよりも良いものだ。くれてやる」
 星を見にと誘ったのは己なのに、その瞳が己以外を見るのは気に食わないのか。庭に設えられた椅子に腰掛け、リエンを膝に乗せたまま、ヨンシンは彼女の眦をついと撫でる。僅かに彼女が首を竦めているうちに、懐から取り出した竜用の耳飾を翳して見せた。
 まるで彼女の瞳のような紅玉と、金をあしらった美しい鎖細工は、星よりもすぐにリエンの瞳を奪う。満足げにヨンシンは微笑み、その冠翼を飾り立ててやった。しゃりり、と鳴る金鎖の音が心地良く、リエンはゆるゆると首を振って楽しむ。
「有難う御座います」
「ふん」
 甘えるように鼻先をヨンシンの頬に擦り付けると、唇が僅かに牙の隙間に触れる。まるで恋人同士の戯れのように、幼竜と少年の静かなじゃれ合いは続いた。
 ひとしきり愛しい守り人の温もりを堪能してから、リエンの心にはまた僅かな――そう、罪悪感と言ってもいい想いが沸く。
 自分を己が竜とした為に、彼は手に入れる筈だった栄光を全て失った。未だにヨンシンの命を心配する者達の声も限りなくリエンの耳に届く。同時に、愚かな決断をしたものだと、ヨンシンを嘲笑う声すらも。
 それを聞き、彼女の心を支配するのは怒りや悲しみではない。
 今の己が、幸福であればあるほど。
 愛しき守り人の幸福を、己が全て奪ってしまっているのではないかという恐れだった。
 くるる、と小さく喉を鳴らし、リエンは堪らず口を開いた。
「ヨンシン、貴方は――」
「見よ、リエン」
 まるで全てお見通しであるかのように、言葉は遮られた。片手を伸ばして天を指す指の先を、自然とリエンも視線で追う。
 一見只の星に見えるが、僅かに黄色く輝く星が見える。人の目でもはっきりと捉えられるだろうそれを見ながら、ヨンシンは淡々と語る。
「あの星の名を知っているか」
「いえ、浅学ながら」
 いくら勉強熱心なリエンといえど、まだまだ生まれたばかりの竜。学習能力が優れていても、流石に知識量では、同じく王家の者として英才教育を受けてきたヨンシンには叶わない。
「歳星だ。天の黄道を十二年かけて巡る、最も尊い星とされている」
「それは……とても貴方に相応しい星かと」
 阿りでも何も無く、本気の声音でリエンが言うと、ヨンシンはさも可笑しそうにくつくつと笑う。
「だが、道教では全く逆の解釈となる。天形星と呼ばれる、牛頭天王さえ喰らう凶神だ」
「まあ」
「なんとも奇矯な話ではないか。只の星に過ぎぬと言うのに」
 くく、と笑いながら、ヨンシンの指は愛しげに白い鱗を撫でる。その心地良さを受け入れながら、リエンは――喉から溢れそうになる激情を、如何にか堪えた。
 古き慣習も戒めも、彼にとっては只の迷信に過ぎぬ。この忌まわしき鱗の色さえ、彼は認め、傍に置き、美しいと撫でてくれる。
 この方のお気持ちを疑うなど、何と無様で愚かなことか。
「ヨンシン、嗚呼、ヨンシン――」
「何だ? 甘えため。父母が恋しくなったか、神の竜よ」
「まさか。貴方だけです、私には、貴方だけ――」
 詩作もろくに出来ず、只己の心を吐き出すことしか出来ぬ己をリエンは恥じたが、その言葉を止めることも叶わなかった。美しい己の守り人が、誇らしくて、愛しくて。
 竜は神など知らない。だから、何に祈れば良いのかも解らない。
 ただ、そうただ、誰もこのひとを私から奪わないでと、それだけを願った。