時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

341.ララバイ

 初めて劉が人を殺したのは、12歳の時だ。
 教わった通りに、教わったことをやっただけだ。母親譲りの線の細い顔に油断した男の頸動脈を、隠し持っていた刃で一突き。特に思い悩むことも無く、突き刺した刃先をずらすことも無く。
 つまり、彼にとってこの行為は「向いていた」のだろう。良心の呵責とか、そういう意識は全く無かった。死ぬべき相手が、死ぬ状況になったから死んだ。ただそれだけの話だと、彼は思っていた。
 術を教えたのは母親だった。元々大陸でそういう生業に就いていた女で、生きる術としてそれしか知らなかった。だから、息子に丁寧に、真剣に、己の手練手管を全て教えた。嘗て自分が受けた教育を、一言一句違わずに。
 それで息子が一人前になったと思ったのか、母は劉を連れて――手は引かれていない、物心ついた頃から母親に触れられた記憶は無い――随分と大きな日本家屋の屋敷へ向かった。そこが自分の父親の家であり、今日からここで暮らすのだというのもその時聞いた。
 父親は一応長く続く、とても大きなヤクザの親分という奴だったけれど、親子として接することはまず無かった。最初の挨拶の時に顔を合わせて頭を下げて、それきりだ。
 様々な龍の頭が喰らい合う家の中、正妻として収まった母の気持ちも、今なら少し理解できると劉は思う。仕事柄敵の多い女だ、この家に入ればある程度は守られる。だが代わりに、家の中にも危険が多いので、息子に技を仕込むまでは待ったということなのだろうと。
 そして劉は、母の思いを全て汲んだ。己の手管を、この万魔殿で生きる為に使い続けた。気付けば優秀な暗殺者となり、実の父の前でその腕前を披露した。黒崎会の懐刀である始末人と、ちゃんと制限時間とルールを決めた打ち合いではあったけれど五分に持ち込み、父からは「使えるな」と言われて、それだけだった。
 それからはもっと深く、組織の内外で刃を振うことが増えた。そのことに関しても、劉は何の感慨も無く受け止めた。ちゃんと「仕事」として、誰かの命を奪う事を淡々と行う日々を続けた。
 ただ――劉は、父や九龍の使い易い「道具」には、ならなかった。
 仕事を与えられたら、何故その相手を殺すのか、ちゃんと考えること。考えなくていいのは、相手を殺す一瞬だけ。それが、母親の教えだった。
「誰かに命じられて殺すのは楽だけれど、いつか誰かに命じられて殺される。命令は仕事でしかないのだから、殺す理由は自分で決めなさい」
 そうすれば、自分の命を守ることが出来るのだ、と言いたかったのだろう……と思う。既に母は死んでしまったから、確かめる術は無いけれど。
 だから劉は、殺す相手に理由を付けることにした。例えば、父から殺しを命じられる相手は、金を独り占めしたり、他者を喰い物にしたり、自分の責任から逃れようとしたものばかりで。そういう人間を「屑」のカテゴリに入れてしまうと、ほんの少しだけだが仕事が捗った。いらないものを捨てている、と思えるからだろうか。つまりはやっぱり、生きていくうえで少しは「いい気分」になりたかったのかもしれない。
 二十歳を迎えた日、父は初めて皆の前で「龍人」の御披露目をした。今まで腕はいいが只の若僧と高を括っていた連中の顔が引き攣り、幹部達の視線に別口の警戒が籠るのにも劉は当然気づいていた。
 全く、迷惑な話である。ただでさえ黒崎派と善信派で真っ二つに分かれているこの九龍に、会長の実の息子という爆弾を放り投げたのだ。更に父親は堂々と「この九つの龍の首、どれか一つでも奪って見せろ」と幹部達全員の前でのたまった。
 それが出来れば跡取りと認める、というよりは、それぐらい出来なければ潰れて死ね、ぐらいの言い草だったのだと思う。別に逆らうとまではいかなかった――何せ他の生き方なんて思いつきもしなかったので――が、ただ、面倒だな、と思った。義理の母である後妻が逆に心配そうにしていたのも、却って鬱陶しかった。
 時間が許す限り、家を離れることが増えた。ささやかな反抗、という奴だったのかもしれない。お定まりのように着込んだ黒いスーツはオーダーメイドで動き易かったけれど、どこか息苦しくて。
 ……あの音が、聞こえてくるまでは。


×××


「どんな音楽が好きなんだ?」
 無造作にかけられた声に、思わず目を瞬かせた。自分よりも僅かに背は低い筈なのに、随分と体格の良い、寡黙そうな男に。
 この辺りのスラム街で、最近有名になってきた連中だった。喧嘩はしこたま強い癖に、毎晩焚火を囲んで歌い踊っている暢気な奴ら。
「……不知道」
 咄嗟に母譲りの台湾語で答えた。この街に居る間はヤクザの一人息子では無く、台湾から流れて来た男として振る舞ってきたので。
「知らない? 何か一つはあるだろう」
 心底意外そうに肩を竦めて続ける相手に、面倒だなと僅かに眉を顰める。言葉が解らず引いてくれたら御の字だったのだが、どうやら意外と学識はあるらしい。失礼な事を思いながら、少しだけ素直に答えてやることにした。
「ちゃんと聞いたことはないんだ。家が厳しくて」
 事実だった。音楽を聴く習慣なんてそもそも無いし、興味もない。テレビやラジオすら禁じられていたので、家の中に音楽が流れていることなど、一度も無かった。素直に答えたのに、何故だか相手は「Oh……」と心底劉のことを可哀想にと言いたげな顔で首を振ってきたので、正直むかついた。
 どう反論してやろうかと考えているうちに、無造作に拳で肩をとん、と叩かれた。反応できなかった自分に驚き、咄嗟に後退ろうとしている内に、その男は両手を広げて歩いて行ってしまう。焚火を炊いた中心、恐らく彼らの仲間がいる一番騒がしい場所へ。
「Ok,Listen carefully.」
 一度だけ振り向いてそう言った男は、不愛想な顔から一転、まるで悪戯を堪えている子供の様な顔で笑って。
「Hey!」
 ぱちりと指を鳴らし、天を指して――歌を歌った。
 その日初めて劉は、音楽というものをちゃんと認識して聞いた。
 所謂、良さというものはさっぱり解らなかったけれど――悪くない、と思った。
 すっかり歌いきって満足した後、劉に乾杯用のビールを差し出して、「理想郷を造りたいんだ」と大真面目に言い切ったその男の夢に、笑ってしまった時点で、きっと自分の負けなのだろう。
 何せ、音楽どころか。笑った記憶すら、物心ついてから一度も無かったのだから。


×××


「おい」
 無造作に声をかけられて、ふと目を開けた。
「……何か?」
 寄り掛かっていた渡り廊下の柵から身を持ち上げることなく聞くと、相手――確か家村会の誰かだったか――はいらいらと眦を吊り上げながら怒鳴る。
「その耳の、何だ? まさか今オヤジ達のやってる会合、盗聴でもしてるんじゃねえだろうな」
 言われて、劉は切れ長の目をゆっくり一回瞬かせて――片耳にはめ込んでいたイヤホンを外した。そして相手が驚く前に一歩前に出て、
「っ、ぎゃ!?」
 それを相手の耳に突っ込んだ。思わず悲鳴をあげるが、仕方ないだろう――中々の爆音で聞いていたから。
「や、めろ! なんだこりゃ!?」
 すぐに振り解かれたのでちゃんとイヤホンを回収し、ハンカチで綺麗に拭いてから自分の耳に戻す。強く響くビートと、それに紛れずちゃんと届くボーカル。自然と唇が綻ぶのが解った。
「良い歌でしょう? 新曲なんです」
「……邪魔したな!」
 当てが外れたのか、それとも今更劉が会長の息子であることを思い出したのか、鼻息荒く去っていく男の背を見ることも無く、劉はもう一度目を閉じて音楽に集中する。そうしていれば、この家の中でも随分と息がしやすいから。
 今日の仕事はもう終わったし、久々にアジトに顔を出そうと思った。あいつらは、「お前本当付き合い悪いよな!」と言いながら、笑って歓迎してくれることを知っている。
 いつか必ず、彼らと同じ道を歩くことが出来なくなるとしても、それが今日で無ければいい、と思いながら。