時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

239.離さない、放してあげない

 小太郎が一歩足を踏み出すたび、盆の上の食器がかちゃかちゃと音を立てる。一番大きなスープ皿は深めで蓋もついているものだが、つい零すのが心配になってチャンプは声をかけてしまった。
「吾輩が運ぶか?」
「ううん、大丈夫だよ。ドアだけ開けて」
「うむ、任せろ」
 若干危なっかしいが、彼の心意気を否定するのはチャンプとしても不本意なので、素直に頷く。いつもなら給仕役のスパーダが行うであろう自室への食事デリバリーが、このような状況になっているのには当然意味がある。
 ずらりと並んだ個室の扉、02のナンバーが付けられた扉の前、チャンプが外部コンソールにパスワードを入れてドアのロックが開く。普段は中に声をかけてから開くのを待つものだが、今回は事情がある。
 ちゃんと空調が整えられた薄暗い部屋の中に、小太郎がおずおずと声をかける。
「兄貴、起きてる?」
「……ああ」
 くぐもった声がして、ベッドがもそりと動く。小太郎が僅かに安堵の息をついて近づくうちに、チャンプは部屋の照明の明度を少し上げた。
「大丈夫? 苦しくない?」
「気にするな……少し寝たら、楽になった」
 そう言いながら身を起こす部屋の主――スティンガーの頬は、いつもよりも赤い。発熱しているのだ。
 先日の任務の際、別の惑星に下りた時、どうも土着の病に罹患したらしいのだ。調査の結果、感染力はそれほど強く無く、治療薬も市販のもので問題ないし、数日熱や咳が続く程度のものらしいが、それでも念の為の隔離と治療に専念せよという司令からの厳命も下っている。
 大したことは無いという診断プログラムを使ったラプターの言葉に、全員胸を撫で下ろしつつ、小太郎とチャンプが病人の世話を引き受けた、というわけだ。
「お前こそ、何で来た。うつるぞ」
「マスクしてれば大丈夫ってラプターも言ってたもん。ほら、ご飯持って来たよ」
 僅かな咎めの視線は小太郎にと見せかけて、後ろに立つチャンプの方に向いている。気持ちは解るが、安全は保障されているし何より本人が譲らなかったのだ。この辺り、チャンプも小太郎には甘い。スティンガーは言わずもがなだ、言葉だけなら冷たいが見舞いに来てもらった嬉しさは堪え切れていない。
 ベッドサイドに椅子を引っ張ってきて座り、サイドチェストの上に置いた皿の蓋を開く。ふわりと強すぎない香辛料の匂いが部屋に広がった。
「ほら、スパーダ特製のスープだよ。ちょっと辛いけど、熱が出た時はカジキ座系はこれなんだって」
「ああ、ありが――」
「はい、あーん」
 身を起こし、肩に自作のストールをかけてから、皿とスプーンを受け取ろうとしたスティンガーの手が止まった。それより先に、スープ皿の蓋を開けて一口掬った小太郎が、ちゃんと手を添えてスティンガーの口元に運んできたからだ。スティンガーも驚いたし、それを後ろから見ていたチャンプも驚いた。
「……? どうしたの?」
 対する小太郎の方は、全く気にした風もなく、自分の手を下ろさない。スティンガーの視線がうろうろと彷徨い、チャンプに縋るように向けられ、諦めたように目を伏せて――おずおずと、口を開けた。
「ぁ……んむ」
「どう?」
「……ああ……美味い」
「良かった! 食べられるだけでいいから、ちゃんと食べて薬飲んでね!」
 小太郎には一切他意なく――恐らく弟がいる故に、このような手ずからの看病には慣れたものなのだろう、水も飲んでね、後で汗拭こうか、と手際も良い。スティンガーもその辺りを汲んで、拒否することはあり得ないだろう。その辺はチャンプも承知の上であるし、止める気も無い、筈なのだが。
 何故か、胸部に何かが引っ掛かったような気がして――ゆっくり食事を続ける二人を見ながら、チャンプの電脳は不思議と落ち着かなかった。



×××



 結局スープ一杯平らげたスティンガーは薬を飲み、小太郎の頭を撫でてから少し休む、と眠りに着いた。
「大分元気になって良かったね」
「ああ。……小太郎ももう休んでおけ、疲労が溜まると病気にかかり易くなるんだろう?」
「でも……」
「吾輩にはヒューマノイドの病気はほぼかからん、任せておけ」
「……うん、じゃあよろしくねチャンプ。何かあったら教えて」
「おう」
 就寝時間近くになっても小太郎は心配そうだったが、チャンプの促しには素直に従った。子供らしくない聞き分けの良さを不憫に思うも、チャンプにもどこか譲れぬと思う焦燥があった。その感情に名前をつけるのは、ナーガほどではないがあまり細かい感情の機微を意識してこなかったチャンプにとっては難しいものであったが。
 スパーダから夕飯用の米を煮込んだもの――チキュウの病人食でありオカユというらしい――を盆に乗せ、チャンプはゆっくりと廊下を進む。数時間前と変わらず、同じ扉を開いた。
 部屋の中は変わらず薄暗く、ふー、ふー、と荒い息が聞こえる。自分に表情筋が付けられていたら多分眉を顰めているのだろうと思いながら、チャンプは足音を出来る限り殺しながら中に入る。
「やっぱり無理してやがったな、ったく」
 小太郎の兄貴分を自負するスティンガーが、迂闊に弱っているところを見せるわけがない。昼間はかなり、気を張っていたのだろう。薄暗がりでも解るぐらい、普段白い頬が昼よりも酷く赤く上気しており、額に汗を掻いている。
「おい。……起きれるか?」
 そっと――自分としては細心の注意を払いながら、そっと指の甲で頬を撫でる。伝わってくる熱は、やはり普段よりも高い。
 無理に起こさない方が良いか、と思った時に、ゆるゆると瞼が開いた。僅かに潤んだ瞳が揺れて、やがて像を結んだらしく、眇められた。
「ぁ……いぼ、う……?」
「おう。痩せ我慢するんなら、せめて悪化させるんじゃねえよ」
「こたろ、は、」
「心配すんな、もう寝たさ」
 そこで漸く、強張っていた体が僅かに寝台に沈む。全く、相棒が努力の方向音痴をしがちなことはチャンプも良く知っていたが、頑張るところが違う。下手に長引かせたら尚更小太郎は心配するだろうに。
「ほれ、飯だぞ。薬を飲むには何か食わなきゃならんのだろう?」
「ん……」
 体を横向きにして、どうやら身を起こそうとしているらしいが、体に力が入らないらしい。じわりと浮かぶ心配を、ラプターの診断を思い出して打ち消しながら、スティンガーの背を支える。抵抗はされなかった。する元気も無いのかもしれないが。
「どれ、スパーダが作ってくれたんだ、一口でもいいから食え――」
「んぁ」
 ぎしり、とチャンプのボディが硬直した。己の腕に寄りかかって上半身を起こした相棒が、まるで餌を求める雛鳥のようにぱかりと口を開けている。自分の両手を全く動かすことは無く。とても信じがたいが、これは、つまり。
 昼間の小太郎の時は羞恥から抵抗していた筈なのに、チャンプに対しては全く照れも怒りも無く、まるで当然だと言わんばかりに、ただ待っている。
「……あー……」
「……?」
 どうしたものか、どう行動するのが正解なのか、といつになく判断を迷っているうち、口を開けたままのスティンガーが僅かに首を傾げて見せた。チャンプが動かない事を心底不思議だ、と思っている顔で。
「お、おう。ちょっと待ってろ」
 その顔に後押しされて、チャンプのもう片腕がぎくしゃく動く。正直、ヒューマノイドの食器など使ったことは無いし、大きな自分の手ではとても扱いにくいが、どうにかスプーンを指先で抓む。程よく冷めた米を一掬いして、そっと口元に持って行ってやると。
「ん」
 ぱくん、と実に素直に口を閉じた。柔らかい米を静かに咀嚼している感触に戸惑う間もなく、ぱかりとまた口が開く。もう既にスプーンの上のものは飲み込んでしまったらしい。
「……もっと食うか」
 小さく頷いたので、もう一回。更に二度、三度。スティンガーは全く抵抗なく食事を続けている。口を開けるのを止めないスティンガーに従いつつ、チャンプは思考をぐるぐる回す。
 これはつまり、小太郎が世話を焼くことに慣れているのと同じように、スティンガーも、世話を焼かれるのに慣れている、ということだろうか。子供の頃は、兄にこうやって看病されていたのかもしれない。熱に浮かされて、その辺りが曖昧になっているのかもしれない。
 そう思うと、また胸部の中身がぎりりと変な音を立てた気がする。そんな機能は付属していない筈なのだが、違和感が付きまとう。
「ちゃんぷ、」
「ん、おお。もう良いか?」
 気が付くと、腕の中の相棒はふるふると首を横に振っていた。水分も取った方が良いと聞いたのでストロー付きのボトルを差し出してやると、美味そうに喉を鳴らして飲む。薬も随分と苦いものらしいが、チャンプが手に乗せてやると素直に口に含んで飲み込んだ。
「よし。これで寝れば、明日には治ってるだろう。ほら」
「ん……」
 そっと体を横たわらせてやると、スティンガーは僅かに冷えたらしい体を掛布の中に潜り込ませた。やれやれと一仕事終わった解放感にチャンプは立ち上がろうとして、
「む」
 ぐい、と腕を引っ張られた。何事かと思いきや、スティンガーは既に枕に埋まって寝息を立てている。引っ張ったのは、布団の端からするりと伸びて来た彼の尻尾だった。しっかりと腕に巻き付いて来て、解けそうもない。
 またぐい、と引かれるままに手を伸ばすと、自然にチャンプの手はスティンガーの頬近くまで連れて来られた。どうするのかと思っているうちに、今度はシーツの隙間から彼の胼胝だらけの手が伸びてきて、
「んぅ」
 チャンプの手を取り、まるで涼を取るように金属製の手を己の頬にくっつけた。冷たさが心地良いのか、目を閉じたままほんのりと微笑んで。
「……チャンプ」
 その冷たさの持ち主を解っていると言いたげに、満足げに名を呼び――先刻よりも安らかな寝息を立て出した。
「……お前なぁ……」
 マジかよ、と思わずぼやきが出る。この素直じゃない相棒がここまで甘えてくるなんて、頭を抱えたくなる。
 しかし同時に先刻からの違和感が、じわじわと高揚に変わっていくのがまた解せない。
「あー、モウ、しゃあねえなぁ……!」
 眠りを妨げないように、あくまで小声で叫び、チャンプは寝台の横にどかりと腰を下ろす。明日熱が下がっていたら思い切りからかってやろうと嘯きながらも、手と尾でしっかりと握られた手を振り解くことはなく、柔らかい頬を一晩中撫でてやることに決めた。