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176.少年の名は

「こんにちは、日高さん。お加減どうですか?」
「えっと……、あのさ」
「検温しますね、失礼します。……はい、平熱です」
「あのね? 明日夢」
「食欲はどうですか? 問題なければ普段通りのメニューにしますけど」
「……怒ってる?」
「どうしました? 日高さん」
「本当にすいませんでした安達先生!!」
 にっこり。と入院患者やお見舞い客、看護師の女性たちにも人気の甘いマスクの笑顔で本名を呼ばれて、ヒビキはベッドの上で心から頭を下げた。足が本調子なら土下座していた。残念ながら、片足がしっかりとギプスに包まれていたため不可能だったが。
「安静にしててくださいねー」
「はい……」
 完全に怒っている。そう理解して、ヒビキは大人しく主治医の言葉に従い、もそもそと白いベッドに寝転がる。
 鬼という職に就いてから20年ばかり、この業種では殆どの同世代は引退していく中、未だ現役として最前線に立っているけれど。それでも寄る年波の衰えには勝てず、全盛期よりは体力も霊力も落ちているので、無茶をしては駄目ですよ――と目の前の少年、と呼ぶには成長しすぎた医者――安達明日夢に釘を刺された矢先のことだった。
 山の中で逃げる魔化魍を追い、ちょっと張り切り過ぎた結果、役目は果たしたものの崖から落ちてしまい、足を骨折。頭も打ってしまい気絶していた為、急いで病院に運び込まれた、というわけである。
「本当ごめん、久々に重ねられた休みなのに」
 忙しい中折角取った休日は、傷病休暇にとって代わられた。有給が減ることは無いが、前述通り忙しい身、改めて手に入れるためにはまたしばらく調整が必要になるだろう。
 同じく多忙な医者である彼と、久しぶりにゆっくりする為の休暇だったのに。そんな思いを込めて両手を合わせて深々と謝意を示すが、返事は無い。恐る恐る顔を上げると、明日夢の凄みのある笑顔は収まり、逆に普段通りの顔に戻っていた。……あまりにもいつも通り過ぎるぐらいに。
 あれ、何か間違ったか、と思った瞬間、備え付けの丸椅子からすくりと明日夢が立ち上がる。
「じゃあ詳しいことは香須実さん達に伝えておきますね。退院の日取り決めるとまた無茶して早く出ようとするでしょうし」
「うぐっ」
 図星を刺されてヒビキが詰まっているうち、他の患者達に会釈をしながらながら病室を出ていこうとするので。
「……少年!」
 思わずその背に、嘗ての呼び方で声をかけると、ほんの少しの苦笑と共に振り向かれ。
「お大事に」
 それだけ言って、ぱたんとドアは閉められた。
「……やばい。完全に怒らせた…….」
 がくり、とベッドの中に沈みこむヒビキ。猛士御用達の病院といえど、一般の患者も来院するところだ。それ故基本は本名で呼ばれているが、昔のように少年、と呼べば、必ずヒビキさん、と返してくれる筈だったのに。
「お兄さん、安達先生と仲がいいのかい?」
「ええ、いや、まあ」
 隣のベッドに座っていた老婦人が、人好きのする笑顔でにこにこと話しかけてくる。見ると衣服は普段着に着替えており、退院の迎えを待っているらしい。荷物の整理をしていたのか、見舞い品の余りだろうリンゴをしゃりしゃりと剥いている。
「良かったらリンゴどうぞ」
「あ、いただきます」
 遠慮なく頂きながら、自然と話は明日夢のことになった。どうやら彼女の主治医も務めていたようだ。
「優しくていい先生だよねぇ、励ましてくれるし。あたしも大変だけど、もうちょっと生きようって気になるよ」
「流石だね。いやあ長い付き合いだけど、努力家で優しいのは本当、知ってるから」
「そうなんだねぇ。この前急患が来た時、物凄く青い顔をしてたらしいから、心配してたんだけど、今日は元気そうでよかったわぁ」
「え……急患ってもしかして……俺?」
 彼が褒められる喜びに綻んでいた顔が、ふと戻る。恐らくこの予感は、自惚れでは無い筈だ。
「あらそうなの? わたしは見なかったんだけど、お見舞いに来てくれた孫がね? 運ばれてくる人に一生懸命呼びかけてたって言うから、てっきり重病人でも来たのかしらと思ったんだけど」
「あー……、そっか……おばあちゃん、ありがとうね」
 今回の怪我自体は、命に関わるものではない。寧ろ、ここに担ぎ込まれたことで彼に会えてラッキーだな、ぐらいにしか思っていなかったけれど。
 どうやら自分の過ちに漸く気付けて、ヒビキは一人溜息を吐き――松葉杖を掴んだ。


 ×××


 歩き慣れた、静かな病院の廊下を歩き、かなり病室から離れたところで明日夢は溜息を吐いた。鬼は耳が良い、きっと近くでしたら聞きとがめられてしまうから。
「……、情けないなぁ」
 息とともに零れる声は自嘲だ。曲がりなりにも医師免許を取り、この病院に勤め始めてから大分時間は過ぎたし、新人から中堅へと呼ばれるぐらいの医者になった筈なのに――子供のような拗ね方をしてしまった。彼を目の前にすると、どうしても自分は出会った頃の、中学生に戻ってしまう気がする。
「明日夢くん?」
「えっ? あ……香須実さん!」
 廊下を歩いて来た、ヒビキの相棒である美しい女性に気付き、慌てて笑顔で礼をする。勿論彼女も笑顔で会釈を返してくれた。
「ごめんなさいね、忙しいのにヒビキさんまで面倒かけちゃって」
「いえ、仕事ですから」
「それもあるけど、あの人ここ数日、終わったら少年とデートだ、って浮かれてたから。お休み、合わせて取っていたんでしょう?」
「……」
 しっかり見抜かれていて、僅かに頬を赤くして俯く。忙しい仕事の合間を縫って、久しぶりに会えると浮かれていたのは、自分もだ。しかしだからといって、それが叶わなくなったこと自体に怒っているのではない。怒っているのは、もっと別の――
「……主治医だからって、そこまで貴方が気に病む必要はないのよ?」
 知らず俯いてしまった旋毛に、宥めるような声が当たる。慌てて顔を上げると、香須実はちょっと困った顔をして笑っていた。
「あ、いえ……そうじゃなくて。慣れなきゃいけないことだとは、思うんですが」
「仕事としては、正しいんでしょうけど。……大切な人が傷つくことに、慣れる必要もないと思うわ」
 見抜かれた気がして、息が一瞬止まった。香須実もすぐそれに気づいたらしく、眉を下げた。
「ごめんなさいね、偉そうなこと言って」
「いいえ。ありがとうございます」
「お礼を言うのはこっちの方よ、明日夢君が刺す釘は誰のよりもヒビキさんに利くんだから。これでしばらくは無茶しないでしょう」
「しばらくは、ってところが辛いですね」
「本当ねぇ」
 彼の本質を良く知っている者同士、困ったように笑い合う。入院用の着替え取ってくるわね、と香須実は最後まで笑顔で去って行った。


 ×××


 明日夢の勤める病院は、山の中腹に立っている。あまり交通の便が良くないところだが、だからこそ身を隠す猛士と提携が取れている。魔化魍と戦った傷は、普通の病院では診られない。
 フェンスに囲まれた屋上まで出ると、遮るものが何も無くて空が綺麗に見えた。
 ――先日運び込まれた急患の名前を見て、全身の血の気が引いた。いつか必ず起こることだと心構えをしていた筈なのに、全部吹き飛んだ。カルテの文字が全部目を滑って行って、上手く認識できなくて。先輩から口頭で命に別条がない、と伝えられたことで漸く呼吸が出来るようになった。
「……はぁ」
 溜息しか出ず、ベンチの背に持たれて天を仰ぐ。高く青い空が、ふと陰った。
「よっ」
「ヒ」
 しゅ、と指を二本振るいつものポーズでヒビキがのぞき込んできた。悲鳴のような声が出そうになって、どうにか堪える。慌てて身を起こすと、松葉杖で屋上までやってきたらしいヒビキが、随分気まずそうな顔をした。
「……ごめんな」
「別に、謝って貰うことは、何も」
 事実だ。鬼という仕事をしている以上、こんなことは当たり前のことで。休日が潰れたことなんて全く気にしていないし、何より自分が選んだ道を彼が後押ししてくれたように、彼の進む道を遮るつもりは全くない。だから詫びを受け取る理由なんて――
「心配かけて、ごめん。明日夢」
「っ……」
 それなのに、労うように頭を撫でられて、真摯な声で名前を呼ばれて。成人した自分の中にいる15歳の少年が、嬉しくて泣きそうになる。
 立ち上がり、随分縮まった背丈の差に助けられて、彼の体を支える。どちらかというと、抱き締めるように。
「……心配しました」
「うん。ごめん」
「もしものことが、あったら、どうしようって」
「うん」
「……本当、無茶、しないでください……」
「うん。うん。ごめんな」
 じわりと浮かんだ涙を必死にこらえていたのに、背をそっとさすられて耐えられなくなる。子供の頃から変わらない温かさと、好きな相手からの慈しみの優しさに。
「ひどい態度取ってごめんなさい……」
「少年が謝る必要ないよ、怒って当然だから」
 肩にうずめたままの顔を必死に横に振る。彼を助けたい、支えたい、ともに歩きたいのにまだこうしないと駄目な自分が悔しくて。
「泣くなよぉ。……退院したら、明日夢の家泊りに行っていい?」
 それなのに、するりと耳に入ってくるそんな甘みの籠った言葉に、心臓が飛び跳ねてしまう。
「……僕、今一人暮らしなんですけど」
「うん、そのへんの期待もコミコミで」
 言われた意味を吟味するまでもなく、じわじわと頬が熱を持つ。
「完治するまでは、駄目ですからね」
「ええー」
「嫌だったら、安静にしてください。本当はまだ寝てた方が良いんですからね」
「はぁい……」
 しゅんとした声は聞こえるものの、自分の背に回った腕は動かない。心地良さに負けて、明日夢ももう少しだけ、と彼の首筋に顔を埋め、体温と匂いを思い切り吸いこんだ。