時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

016.バイオハンター

 きしり、と僅かにベッドが軋む。夢と現の狭間で、ギーはそれに気づいた。
 精神的には休養を求めていなくても、肉体的には疲労困憊らしく、瞼は持ち上がろうとしてくれない。だから、ベッドに入ってきた存在が誰であるのか、視覚では確認できない。八割がた、予測はついているけれど。
 僅かに甘い匂いが、鼻を擽る。八割の予測が、十割の確信に変わる。
 香水をつけているのかい、と聞いたことがある。答えは否、だった。そんな洒落もの仕事の邪魔、つけちゃいないさ、と黒猫は笑って言った。ならば何故、明け方にもう彼女がいなくなったベッドのシーツにすら、この甘い香りが残っているのか、ギーには解らない。
 静かに、静かに。細心の注意を払っているのだろう、安ベッドの軋みは僅かだ。ギーの眠りを妨げないように、慎重に、こっそりと。
 そして気配と甘い香りが、自分とちょうど拳三つ分ぐらいの間を空けて収まる。見ているわけではない、これも予想。朝目を覚ますと、いつも丁度それぐらいの距離で、左右色の違う瞳がこちらをじっと見ているから。
 僅かに持ち上がった毛布の隙間に、冷えた外気が忍んでくる。皮膚感覚は随分と鈍くなっている筈のギーの背筋が、何故かぞくりと震えた。
 すると、僅かに息を飲む音のあと、おそるおそる、といった体で近づいてくる気配。ギーの体が寒さに震えたことに気づき、温めに来たのだろうか。
 ――触らない方がいい。きっと冷たい。
 体温調整が出来ない己の体をよく知っているギーは、そう言おうとするが、いまだ微睡みに絡め取られた体は言うことを聞いてくれない。やはり三徹しての回診は無茶だったか、と今更ながらに反省する。今度から二徹に減らそう。
 そろり、と音を立てずに、胸元に黒猫の気配が入ってきた。距離はほんの僅かの筈だが、相手の吐息は聞こえない。相手を起こさないように、息を詰めているのだろうか。彼女の気遣いを感じ、ギーの中の一番柔らかいところが、ほろりと砕ける。普段なら堅い殻で覆っておける部分が、眠りによって解されているせいだ。そしてギー自身、解っているのに、止められない。
 鼻先がくすぐったい。目を開けなくても解る、彼女の耳だ。頭の上にぴんと生えた、黒猫の耳。背を丸めた自分の胸元に顔を埋めている彼女の耳が、口と鼻に丁度届く。
 その近さに、ギーの意識はまた溶けはじめる。彼女の気まぐれが心地よくて、手放したくなくなる。これはすべて自分に不相応な暖かさだと、解っている筈なのに。
 僅かに首を傾げると、するりと柔らかな黒毛が頬を撫でてくれる。強い爪と裏腹に、彼女を包む毛皮はとても暖かい。
 もう一度顎を動かすと、ぴるる、と耳が震えた。嫌だったのかもしれない。感覚器官を弄られれば、確かに不快だろう。反省して、そっと身を離そうとする。
 すると、今度は彼女の方から、耳を擦り寄せてくれた。少し驚くが、心地よさに勝てず、ギーはその柔らかさを享受する。
 アティ。気まぐれな、強い黒猫。本人は否定するけれど、お人好しの優しい黒猫。
 彼女に言うべき言葉があることを、ギーは知っている。しかし、その言葉を言うべき資格が無いことも、ギーは知っている。
 知っているのに。こういう夜は、何故だかギーの心に焦燥が走る。言わなければと思う、言ってはならないと思う。
「……アティ……」
 その葛藤は、たった一言、彼女の名を呼ぶことで昇華される。されなければならない。
「……ギー? 起きたの?」
 緊張と不安と喜び、丁度三分割された黒猫の声がする。起きているよと返せばいいのに、今日の口は本当に役立たずだ。
 代わりに、ようやく神経が通り始めたらしい腕が、彼女の背に回った。
「ギ、ギー? え? ちょ、ちょっと?」
 焦った彼女の声がする。そういうこと、をするつもりなのだと思われただろうか。だが腕はそれだけの動きで力つきてしまい、とても彼女を満足させることは出来そうにない。
「……ギー、寝てるの? 寝てるんだよ、ね?」
 囁く黒猫の声。いっそ大声を出してくれれば、きちんと覚醒できるだろう。でも彼女は、顔色の悪すぎるギーを見て、絶対に起こそうとはしないのだろう。
 背中にただ回した手に、するりと柔らかなものが絡み着いてくる。宥めるように、慰めるように。アティの尻尾だ。時には敵を打ち倒す鞭にすらなる強靱な尾は、ギーの手を柔らかく包むだけ。
 ゆるゆると、ギーは安堵の息を吐く。拒絶されなかったことを、喜んでいるから。いつもならば、浅ましい自分に自嘲しか出来なかったが、今日は本当に眠かった。未だに己のいる場所が、夢か現か解らない。
 ただ、明日の朝目が覚めたときに、この夢と同じように黒猫が居てくれれば良い。
 そんな不相応な願いを抱いたまま、ギーの意識は完全に暗闇に溶けた。



「……びっくり、した」
 すー……、と静かすぎる寝息が耳を30回ぐらい擽った時、ようやくアティは安堵の息を吐いた。勿論、すっかり寝入ってしまった医者を起こさないように、細心の注意を払って。
 いつものようにドクターのベッドにお邪魔して、目を覚ましたらちょっとぐらい強請っても良いだろう、そんなつもりで彼のアパルトメントを訪れたのだが、暗闇の中を差し引いても彼の顔色が悪すぎて、とてもそんな気は無くなってしまった。どうせまた、回診をやりすぎて二徹ぐらいしたんだろう。ただでさえ細いのに、口に詰め込まなければ食事は取らないし、本当に困ったものだと嘆息する。とりあえず、明日起きたら徹夜は禁止と言おう。多分聞かないだろうけど。
 肩から背にかけて、遠慮がちに回っている、片腕の重みが心地よい。
 まるで何かを探すようだったから、そっと自分の尻尾を握らせてやった。自惚れじゃなく、そうしたら彼は落ち着いたように寝息を立て始めたのだから、探していてくれたのだろう。多分、きっと。
 彼が自分を求めてくれた。そんな仮定だけで上昇する体温と、跳ね返る心臓が鬱陶しい。
 でも、さっきほんの僅か、寒そうに震えた彼を温めることが出来るのなら、それでも良いかと思い直す。
 彼の胸にそっと頬を寄せ、薬品臭い体臭を思い切り肺に吸い込む。良く利く猫の鼻にいいものではないだろう、と彼は言うけど、アティにとっては何よりも香しい甘さだった。
 夜が明けるまで、あと一時間程度。眠らずにこの甘さをじっくり味わおう、と猫は企む。そして彼が目を覚ましたら、絶対「すまない」と謝るだろうから、それより先に唇に噛みついてやろう。勿論、優しく。
「覚悟してよね、ギー」
 意趣返しのつもりで囁いたのに、意識的にか無意識なのか、耳の先っぽをやんわりと唇で食まれた。思わず悲鳴を上げそうになってすんでで堪える。
「……食欲が出たってこと? 仕方ないから、ご飯は作ってあげる」
 僅かに頬を赤らめて、朝の予定に一項目加えると、アティは前払いだとばかりに、冷たいギーの頬にそっと唇を当てた。