時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

014.遊戯

 職員室のドアを後ろ手に閉めて、英治は溜息を吐いた。例え後ろめたい理由が無くても、この部屋に呼び出されるのは緊張するし、出来れば早く離れたい。早く帰ろうと、既に西日が射し込んでいる廊下を早足で歩く。
 もう放課後もいい時間な筈なのに、英治のクラスには未だ多数の生徒が残っているようで、なにやら盛り上がっている声がする。友人達の顔を思い出し、英治は自然と顔を綻ばせたまま教室に入った。
「よう、お疲れ」
「ただいま。皆何やってんの?」
 たまたま入り口の近くにいた柿沼が声をかけてきた。問いかけると、気取った風に肩を竦めて、教室の中心を指さす。何人かの生徒が円陣を組んで、騒いでいるようだった。その中でひときわ大きく滑舌のよい声が、英治の耳にもはっきり届く。
「さぁー突如始まりました我がクラス腕相撲勝ち抜き戦、これは大番狂わせとなりました! 無敵の牙城、安永選手に唯一届くだろうと目されていた佐竹選手、突如現れた挑戦者、相原選手にまさかの敗退! これで相原選手は3戦連続勝利です! 勝利の女神はなんという気まぐれでありましょうか!」
「へぇ、凄いな」
 我がクラスが誇る実況者・天野の丁寧な解説に英治も驚く。力には自信のある筈の彼に、腕相撲で勝てる自信は英治に全くない。当の佐竹も予想外だったらしく、頭を抱えて大げさに悔しがっている。
「ちくしょう、まさか相原に負けるとは!」
「こっちもぎりぎりだ。もうやらないぞ」
「なんだ、つまんねぇな」
「お前に勝てるわけないだろ」
 対する相原はいつも通りの冷静な顔で、死闘を繰り広げた様子は微塵も見せない。恐らくクラス最強だろう安永が鼻を鳴らして挑発するが、乗るつもりはなさそうだ。
「さあ続きまして相原選手に挑戦するのは誰だ!? この戦いを勝ち抜いた者のみが、ディフェンディングチャンピオン・安永選手に挑戦する権利を持ちます! 相原選手、今のお気持ちは?」
「だから、もうやらないって」
 マイク代わりの物差しを差し出され、苦笑で答える相原の涼しげな顔に、英治もちょっと対抗心が沸いてくる。身長も体格も、腕の太さもそんなに変わらないのに、力の差がそこまで大きいとはとても思えない。
「じゃあ、俺がやるよ」
 思わず、英治は声をあげていた。クラス中の視線が動き、今まで気づいていなかったらしい相原が驚いた顔をする。
「菊池、戻ってたのか?」
「おおおっと、ここにきて新たなる挑戦者です! サッカー部にて相原選手と双璧をなす、菊池選手の登場だあああっ!!」
 とっさに天野が大声を張り上げ、周りのクラスメートがわっと沸く。逃げ道を潰された相原が渋い顔をして、会場であろう席に座り直す。当然英治も、その目の前の椅子に腰掛けた。
「よし、本気で行くぞ」
「やれやれ」
 もう止めたいんだけど、と目で訴えられかけたような気がするが、菊池としても逃がすつもりはない。相原とは長いつきあいだが、本気でこんな勝負をしたことは今までなく、正直わくわくとしていた。
「では、両者スタンバイ!」
 天野の声に応え、英治は腕まくりをして、机に肘をつく。相原の腕が同じように伸びてきて、英治の手をぐっと掴んだ。連戦してきた疲れからか、その手は少しだけ汗ばんでいる。ぎゅっと力が込められる手指に応えるように、英治も己の手を握りしめると、相原が少しだけ笑ったような気がした。
「レディー……ゴー!」
 天野の手が二人の手の上に置かれ、ぱっと離された瞬間、英治は思い切り手に力を込める。しかし、相手の腕はびくともしなかった。
(くそ、マジで強い!)
 全力を込めているはずなのに、相原の腕は全く動かない。当然、左手で台を掴みたくなるのを堪えながら、耐える。
「く……ぅ」
「っ……」
 必死に力を込めるうち、目を瞑っていたことに気づいて僅かに瞼をあげる。すると、普段の冷静さをかなぐり捨てた、かなり真剣で切羽詰まった相原の顔があった。
(負けてたまるか)
 それを見て、英治の心にもファイトが増した。いつも余裕を崩さない親友のこんな顔を見られて、正直楽しい。こうなるとこちらも意地、ぐっと息を詰めて、限界を堪える。
 天野が何やら皆を盛り上げる実況をしているようだが、正直耳に入ってこない。既に痺れてきた右手を保つだけで精一杯だ。
「んっ……のぉ……!」
 最後の力を振り絞り、必死に相手の手を押し返そうとすると、相原の僅かに息を飲んだ音が聞こえた気がした。
 その瞬間、ふっと相手からの圧力が消え、だん! と相原の手が机に落ちる。英治の腕に、押さえ込まれて。
「おおおおおお!!」
 周りのクラスメートが一斉に声を上げ、「菊池選手の勝利です! 皆様、盛大な拍手を!」と天野に右手を掲げられた時、初めて自分が勝ったことに気づいた。顔を上げると、自分の手をさすっている相原がいて、その顔は悔しさよりも安堵しているように見えた。もともとやる気はあまりなさそうだったから、当然かもしれないが――
「こらーお前等! いつまで遊んでる!」
「やべ!」
 見回りに来た先生の怒声が響き、一同慌てて帰り支度を始める羽目になった。


「……相原、最後わざと負けただろ」
 三々五々、通学路の途中で散っていき、最終的に相原と二人きりになったとき、英治は不満げにぼそりと呟いた。
 隣をいつも通りゆっくりと歩く相原は、一瞬ばつの悪そうな顔をしてから、「もう疲れてたんだよ」と僅かに笑って言う。
 そうなのかな、と納得しつつも、いまいち腑に落ちず、英治は首を捻る。何か違和感があるのだが、その正体に気づけない。
 だが、それは無理もない。英治は勿論、相原にすら自覚は無かったのだから。
 親友である筈の英治の手を握り、その熱を感じながら、相手の苦しげな顔を間近で見るという行為が、相原にとってはなかなかに苦行であったこと。
 更に英治が苦しい息の下から声をあげたことによって、驚き、戸惑いが出た一瞬、手に力を込めることが出来なくなってしまったということ。
 相原自身も、己のそんな心の機微をまだ自覚することが出来ていない。
「悪かったって。何か食って帰るか、奢るぜ」
「マジで?」
 だから、不満そうな親友を宥めるために対案を出し、相手は喜んでそれを受け取り。
 もう互いの違和感を忘れ、まだ中学生である二人は和やかに肩を並べて歩いていった。