時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

010.苦手克服

 共同生活において大切なのは妥協と忍耐、とは誰が言った言葉だったろうか。
「絶ッ対、嫌や」
「ガキかテメェは!」
「ガキやもーん。ぷっぷくぷー」
「きしょい」
 がーん! とわざとらしく両手を胸に当ててうずくまって見せる氷冴を絶対零度の視線で見下ろしながら、チャーリーは溜息を吐いた。
 仕草や言動は子供以外の何者でもないが、相手もチャーリー自身ももう二十歳をとうに越えた男である。
 二人の間にあるのは、出来合いの総菜をほぼ食べ終えた皿の間に置いてある、茄子の漬け物。チャーリーの親がこの季節になると毎年送ってくる代物である。
 実家でも持て余し気味で、処理に使われていることは解っているし、チャーリー自身も決して好物というわけではない。
 だが、狭い家で一緒に暮らすようになってから、一度も氷冴はこれに手をつけたことがない。味が嫌、歯触りが嫌、この色が嫌、とにかく嫌、と駄々をこねまくって。
「別に茄子食えんかて生きてけるもん」
「もんとか言うな。大体あっちじゃどんなもんでも平気で食ってたくせに――目ぇ反らすな!」
 ぴゅひーぴゅひーと吹けない口笛を無理矢理鳴らしてそっぽを向く氷冴には、本当は好き嫌いなど殆どない。というか、切羽詰まればどんな味でも、どんな歯触りでも、どんな見た目でも、もりもり食べられる。そのことを共に魔界で暫く過ごしたチャーリーも知っている。
 指摘すると色々と精神的によろしくないので、したくはないが。
 つまりこの埒も無い我儘は、は、氷冴なりの甘えなのだ。今は別に危険でも切羽詰まってもいないのだから、食べたいものだけ食べても良いだろうと。
 気持ちは解らなくもないのが辛いところだが――何せ彼が未だに過酷な悪魔がらみの仕事をしていることは知っているので――チャーリーとしても普段ならここまでとやかく言わない。しかし今日この茄子の漬け物を始末してしまわなければ、発酵度が限界に達してしまいそうなのだ。親から貰ったものを腐らすのも、食べ物自体を無駄にするのも、小市民なチャーリーには中々出来るものではない。
「いいから食え! 俺は自分のノルマもう食ったからな」
「やーやーぁ」
 ローテーブルに顎を乗せてぐなぐなと嫌がるでかい図体を見降ろし、額に青筋が浮き立つが、このまま言い続けても相手が聞かないことは容易に知れる。寧ろこうやって怒られることを、氷冴は喜んでいる節さえある。
 この変態が、と心の中だけで呟きながら、チャーリーは作戦を練る。口に出したら褒め言葉です! と親指を立てられそうなので。
 実は、このでかい子供に言うことを聞かせる最終手段があることを、チャーリーは知っている。効果は覿面、間違いなく自分の思い通りに事を運ぶことが出来る自信がある。
 だが、その手段は自身にも少なくないダメージを与えることになるだろう。正直言って、出来ることならやりたくない。
 だが――背に腹は代えられぬ。
 未だ皿の真ん中に鎮座している、紫色の物体を見つつ。苦虫を思い切り奥歯で噛み潰して、チャーリーはひとつ息を吐いた。
「……よーく解った。お前がそうまで言うなら、仕方ねぇ」
「ほえ? え、なに、チャーリー?」
 空気が変わったことに気づいたのか、顔を上げた氷冴がおずおずと聞いてくるが、もう遅い。
 覚悟を決めて、チャーリーは口を開いた。
「食わねぇんだったら――……き……嫌いに、なる、ぞ」
 言った瞬間、ぶわっと頬が熱くなった。何を言ってんだ俺は! と床に転げてのたうち回りたい。相手を直視することができず、だらだらと汗が垂れる。
 チャーリーが魂を削って述べた言葉に、氷冴はぱち、と一度目を瞬かせて。
「……っ!!!」
 こちらは逆に、ざーっと青ざめ、泣きそうな顔で箸をひっ掴む。
 わしわしもしもしっ、と何個か残っていた漬け物を一気に口に詰め込み、もぐもぐしながら涙目でチャーリーの方を見てくる。
 ちゃんとしたよ、嫌いになってない? と全力で訴えてくる犬の垂れ目に耐えきれず、今度はチャーリーの方がテーブルに突っ伏した。
 殴りたい。どこまでいっても阿呆なこいつを、世界の果てまで殴り飛ばしたい。
 だが、まだ口の中にものがいっぱいで喋れないであろう、氷冴の視線は全く逸らされていないことも解るので、いよいよ顔が上げられなくなってしまった。