時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

宵闇

いつも自分より数歩先を歩んでいた兄。
自分はいつもその背中を追っていた。
近づきたくて、隣に並びたくて、ただ必死で、必死で、必死で、
夢中になって閉じていた瞳を開けた時、
そこには既に、誰も、





「ッ―――ぅあァ!!」
悲鳴を上げて、孫権は飛び起きた。荒く息を何度も吐き、気を落ち着けようとする。寝巻きの下はぐっしょりと、嫌な寝汗で濡れていた。
「…兄、上」
破竹の勢いで江東を平らげた兄・小覇王孫策が刺客の忌まわしき呪いによって命を奪われてから早数ヶ月。混乱し錯綜する国の重臣達を諌め纏める為に孫権は奔走していた。
幸いにも、兄と断金の契りを交わした周喩が自らの前で進んで膝を折ったことにより、文官・武官共に殆どは孫権を大将と認めた。僅かに残った不穏分子を抑え、賊を討ち取りに出向き、来る天下分け目の戦いに向けて国力を増強させる。やらなければいけないことはいくらでもあった。
「…何をしている。こんなことでは…」
夢の中で見つけた兄の面影。それに必死になって追いつき、すがり付こうとしていた夢の中の自分を嫌悪した。無様に逃げを取ろうとする自分の心に嫌悪した。
なおも浮かび上がる兄への思慕を切って捨て、寝台に潜り込む前に寝巻きを替えようかと起き上がって、
「…孫権様……」
「…!!!」
闇の中から地を這うような低い声が聞こえて、肩を飛び上がらせた。しかし緊張感はすぐに雲散霧消し、孫権は一つ息を吐いて闇の向こうに語りかけた。
「周泰か」
「…はい」
「何事か?」
「……お声が聞こえたもので、何か…と」
部屋の外で寝ずの番をしていた周泰が、いつの間にか部屋に入り込んでいた。勿論孫権が全幅の信頼をおいている護衛である彼は、君主の部屋に入る許可を得ている。寝台に腰掛けている孫権の傍に膝を折って頭を下げた。
「すまない、心配をかけたようだな」
「…いえ……」
傅いたまま僅かに俯くが、部屋を出ようとする様子が無い。
「気にするな、少し夢見が悪かっただけ―――」
そんな彼に苦笑して、言いかけようとした口を手で塞いだ。しまった、と思った。この台詞は心配してくれと言っているのも同じだった。事実周泰は訝しげに顔を上げ、頭巾の下から孫権の方をじっと見ている。
「…夢見、ですか」
「いや、本当に大したことでは―――」
「………孫策殿の、夢…ですか」
「―――――」
ぐ、と喉が鳴った。動揺を隠し切れない。周泰の目はやはり逸らされない。駄目だ、と思った。
いつも心の蓋の下に押し込めてある感情が、溢れ出ようとしている。兄が死んでからそこは今にも溢れそうになっていたけれど、何とか堪えることが出来ていた。しかしその最後の蓋を、目の前の男があっけなく取り払ってしまった。
「…周泰。これより私の言葉に疾く答えよ」
「御意…」
「…私は。君主として…この国に相応しいか」
ぴくりと周泰の肩が反応し、頭巾の下の目が見開かれた。どうやら思いもしなかった問だったらしく、何度か瞬きを繰り返す。しかし彼が主の言葉に背く筈もなく、すぐに口は開いた。
「…孫権様は…孫呉の君主です…」
簡潔すぎる答え。しかしそれはだからこそ真っ直ぐに、孫権の胸に響いた。
彼は不必要に言葉を飾ることをしない。それゆえに口からでた言葉は全て真実であると、孫権は知っている。
「…ありがとう、周泰。お前には助けられてばかりだな…」
「いえ…」
僅かに語尾を濁し、不敬であると知りつつも目を逸らしてしまう。照れているのだ。その仕草に孫権は思わず笑い――――夢の中の恐怖を思い出した。
兄は、自分の誇りだった。兄は天下を獲れる器だったと今でも思っている。共にこの国を盛り立てようと誓った。それなのに、兄は。
「―――周泰」
「はい」
あの兄ですら、命を落とした。それが乱世。恨みを買い、それを晴らされる。天下の大道を歩む限り当然の報い。自分とてその覚悟ぐらい出来ている。しかし、彼は。
身体に出来た無数の傷は、誇りなのだと言っていた。命を危うくした傷すら、その勘定に入れていた。…自分が今の道を歩んでいく限り、その傷を増やすことしか出来ない。
何故なら彼は―――必ず、自分を、守ってくれる、から。
「お前は―――死ぬな」
「―――!」
僅かに、息を呑む気配がした。馬鹿なことを言っていると解っていたけれど、止められなかった。
「お前に、命ずる。死ぬな。守ってくれる事はとても嬉しい、だが死ぬな。…兄上のように……私を、」
視界が僅かに歪んだ。咄嗟に手で覆って乱暴に拭ったが、多分気付かれた。
「置いていかないでくれ――――…」
声が掠れていないのがせめてもの救いだった。どうにか息を吐き喉の震えをやり過ごすと、言葉を取り消そうと口を開き―――
「―――孫権様」
「っ!? 周、泰?」
不意に周泰が立ち上がる。つかつかと孫権の目の前まで近づき、また膝を折る。更に頭を下げ、床に額づいた。寝台の外に放り出されたままの孫権の足先に、躊躇うことなく、口付けを落とした。
「周泰ッ…!!」
永遠の忠誠を誓う伏礼。ここまでされた事は今まで無く、思わず声を裏返らせてしまう孫権に、周泰は確りと言葉を送った。
「御意…。俺は、死にません…」
「…………っ…!」
何と無謀な命だっただろうか。何と頼りない言葉だっただろうか。
それなのにか、だからこそか、その答がどうしようも無く嬉しくて―――
「…周泰。面を上げよ」
「は………。…!?」
上げた顔に両手を伸ばし、寝台からずり降りて、広い肩を掻き抱いた。動揺して硬直している周泰の気配が可笑しくて、ほんの少し笑った。笑ったら、涙が出てきた。
「…周泰。これが、最後だ。もう、二度と―――…」
肩に落ちた雫に気付いたのか、周泰も我に返る。躊躇いがちに、だが静かに主の背中に腕を回し、そっと力を込めた。
「…御意」
いつもと同じ是の台詞なのに、促されたような気がして。
孫権は周泰の着物の端を噛み、誰にも聞かれないように嗚咽を漏らし始めた。