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桃色花吹雪〜純情編〜

―――最初は、錯覚だと思おうとした。
でなければ、忌々しくも片方を失ったこの瞳が、ついに有りもせぬ光景を映し出すほど萎びたかと。
そんな夏候惇の切実なる思いも空しく、それは確かに存在した。
桃の花が舞い散る庭園にて、ひらひらと飛び交う――――、毒々しい紫の蝶々、しかも大量。
そしてそれに囲まれて、優雅に舞を踊っている――――、背中に羽を生やした自分よりも背の高い、見目だけは麗しい大男。
そこまで確認して、夏候惇はがくりと膝から崩折れそうになった。そうならなかったのは偏に猛将としての意地のみ。この国に数少ない常識人にとって、目の前の光景は中々に強烈過ぎた。
「おっ、惇兄。何やってんだ、んなとこで?」
「…淵か」
ぐんなりしているところに後ろから従弟に声をかけられ、夏候惇は振り返りもせずに前方の光景に顎をしゃくる。
「あれを何とかしてくれ」
「あれ? …ああ、張コウのヤツか。相変わらず妙なヤツだなー」
わはは、と笑いながら言う夏候淵のその声は、妙と言いながらも訝る様子など欠片も無く、寧ろその妙加減を楽しんでいるようで。夏候惇の眉間に更に露骨に皺が寄った。
「あれを妙な、の一言で済ませられるのかお前は…」
薄紅色の花吹雪の中で舞い踊っているのは、つい先日曹魏の軍に降って来た将、張コウ。連れてきたのは他ならぬ今この場にいる夏候淵であり、自分と互角に戦った腕を買って欲しいと曹操に嘆願した。自分の腕に絶対の自信を持つ従弟がそこまで言うのならば、と実力第一主義の奸雄はその首を縦に振った。「そやつの面倒はお前が見るように」との注釈つきで。
ちょっと考えれば面倒ごとの押し付けであることは容易に知れたが、生憎尊敬する殿である主の言葉への疑いなど、良く言えば純粋無垢悪く言えば単純馬鹿の夏候淵は欠片も持ち合わせていなかった。そして彼自身嫌な顔ひとつせず、張コウに宮の案内をしてやったり、はたまた稽古をつけてみたりと非常にかいがいしく働いている。
…別に、夏候惇の方も降将の謀反など気にしているわけもない。張コウの実力自体は認められるものだったし、その心に二心などあるわけがないと断言できる。
「これはこれは、お二人とも。私の美しい舞に心を奪われてしまわれましたか?」
「誰 が だ」
いつの間にか舞を止め、くるくると回りながら自分達の傍まで近づいてきていた張コウが優雅に一礼してのたまう。その格好がどんなにふざけて見えても、その瞳は到って真剣。―――こんな男に二心などあるものか、と夏候惇は改めて自分の意思を固めた。
「遠慮などしなくて良いのですよ? この庭の美しさに心奪われ、つい赴くままに舞ってしまいました。素晴らしい桃園ですね」
「ああ、確かにここの庭は良いよなぁ。もうちょいすると、美味い桃がどっさりなるんだぜ」
「ふふふ、妙才将軍のお目当ては美しい花よりも果実ですか」
「はははっ、まぁな」
心なしかげっそりしている夏候惇を捨て置いて、夏候淵と張コウは非常になごやかに会話をしている。いまいち意思の疎通が出来ているかどうかは微妙なのだが、二人とも楽しそうなのは間違いない。
「それはそうと、妙才将軍」
「ああ?」
「何かお気づきになりませんか?」
何か含んでいるのにそれもまた美麗な笑みを浮かべつつ、張コウは夏候淵の前でもう一度くるりと回ってみせる。目をぱちくりさせてうーん?と首を傾げていた夏候淵だったが、ようやくぽん!と掌に拳を打ちつけた。
「おお、羽根生えてんな!」
「ええ、先日注文した戦装束がようやっと届きまして、そのお披露目も兼ねて纏ってみたのですよ。真っ先に将軍のお眼鏡に叶い、この装も幸せでしょう!」
気付かれたことが嬉しくて仕方ないらしく、ぴたりと妙な格好のまま静止して見せる張コウ。当然のようにその足元から紫色の蝶の形をした気が湧き出てくる。思わず仰け反ってしまった夏候惇を誰も責める事は出来まい。それと同時に、先程の張コウの最後の言葉が微妙に気にもなったが。
夏候淵はもう慣れてしまったのか、無害だが毒々しい気を目と鼻の先に沸かされても嫌な顔一つせず、人懐っこく笑って見せた。
「そっか、良く解らんけどお前が嬉しいんならそれで良いや。何かかわいいしな、それ」
「淵ッ!!?」
流石に聞き捨てならずに振り返り夏候惇が叫ぶ。それはいくらなんでもお前目が悪くないか、という意味合いをこめて名を呼んだのだが、意味が解らなかったらしくきょとんとした目で返される。
「どーした、惇兄? かわいいじゃねえか、蝶々みたいで」
「何だ服のことか…いやそれにしてもその形容は…」
確かに背中に生えた羽根の部分だけ見れば、どうにかその形容詞で収まるような気がしないでもないが、それを着けている男をひっくるめて考えると「異様」の一言しか夏候惇には思いつかない。自分の従兄の思考が紫色に毒されてきているのではないかと不安で、自然に張コウの方を咎めようと夏候惇は視線を前に戻した。
そして。
「……………………」
物凄く珍しいものを見た。恐らく魏軍の誰も―――自分達より付き合いが長いであろう甄姫ですら見たことなどないのではないだろうか。
いつもの気取った様子が完全になりを潜め、目を大きく見開き僅かに顔を紅潮させ、「ぽかんとしている」張コウの姿など。
「……お…「嗚呼ッ…! 美しい…!!」
思わず声をかけようとした夏候惇だったが、彼の復活は素早かった。自分の両腕で体を抱きしめながら身悶え、耐え切れないように震えてみせる。そして目の前に立っている夏候惇を完全に無視し、夏候淵の前まで来ると自分のそれよりかなり大きく無骨な手を両手で掴み、しっかりと握り締めた。
「妙才将軍ッ! やはり貴方は私の見込んだとおりの美しいお方…! 貴方に出会えた事を心より感謝いたします!」
「お? おお、そうか?」
「ええッ!!」
流石に相手の勢いに仰け反りつつも、自分が褒められている事は解ったらしく夏候淵は照れ臭そうに空いている手の方で頬を掻く。対する張コウも相手の手を握ったままうっとりとしている。これは俺が何か突っ込むべきなのか、と一人置いてきぼりの夏候惇は自問する。
「あ、そうだ。今表宮の方に旅商人が来てんだよ。結構珍しい武具とか服とかもあっからさ、お前一緒に見にいかねぇか?」
「喜んで、ご一緒させて頂きます。…もしかして将軍、その為に私を探していらっしゃったのですか?」
「おお、お前そういうの好きだろ? 俺良くわかんねぇからさ、ちっと教えてくれよ」
「将軍…! 貴方はどれだけ私に喜びを与えてくださるのです…!? お任せください、この張儁乂、必ずやご期待に答えて見せましょう!!」
今思い出した、というように提案する夏候淵に、諸手を挙げて追随する張コウ。仲睦まじく歩き出す二人の背中を見送り、やはり夏候惇は呆然としていた。
「ふむ、張コウは『美しい』と言われる事は当然でも、『可愛い』と称された事は滅多になかったのであろうな。面白いものを見せてもらったわ」
「ッ!? 孟徳ッ!? いつからそこに…!」
とその夏候惇の後ろから不意に顔を出したのはこの魏国の王である曹操その人。ちなみに夏候惇の肩口から顔を出しているように見せられるのは、夏候惇が寄りかかっていた渡り廊下の手摺から身を乗り出しているからである。
「さっきからおったわ。何だかんだ言ってあの二人、上手くやっているようではないか。やはりワシの目に狂いは無かったな」
「ぬかせ孟徳…面倒だから厄介払いをしただけだろうがあの采配は!」
「うむ、そうとも言うな」
「孟徳ーッ!!」
後ろで始まった主従漫才に気付くことなく、夏候淵と張コウの二人はのんびりと庭を横切っていく。
「そろそろ新しい兜欲しいんだよなぁ」
「宜しければ私がお見立て致しますよ?」
「そりゃありがてぇけど、お前の着るような奴は俺にゃ似合わないだろうしなぁ」
「何をおっしゃいます。その方に本当にお似合いのものを選ぶ事こそが見立てと言うのです。お任せください」
「そっか? じゃ、頼むかな」
「喜んで!」
「って待て淵―――!! それだけは止めろおおお―――ッ!!」
二人の会話を聞き及んだ夏候惇が絶叫し、それに曹操の笑い声が重なった。