時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

不思議の国は今日も曇り空

ある日のこと。今より前でも、後でもいい。とにかく、ある日のことだ。
老師イル、とご大層に呼ばれる猫の賢人は、いつも通りに意気揚揚と、釣竿片手に釣りに勤しんでいた。場所は適当な、路地裏の溝川だ。
今日は観客はいない。いつも真剣に手伝ってくれる金の髪と紅い瞳をもった優しい少女も、いつもこの辺りで一緒になって遊んでいる子供達もいない。
一人の釣りも中々乙なものと、イルはやはり喜々として釣り針に餌の適当な虫をつけ、溝に向かって垂らす。
ほどなく、ぐいっと引きが来た。
「おお? おおおおおおおおおおお!? もう掛かった、おお、ニャアー! おお、おおおお、おおー!? これはでかい、これはでかいニャー!」
引きはぐいぐいと力強く、イルの竿を溝泥に引きずり込もうとする。負けてなるかと、イルも腕に力を込める。こんな大物は久々で、イルの心は自然と踊る。
「何が釣れるか楽しみだ、ああ何だろう! 誰が釣れるか楽しみだ、ああ誰だろう? おおお、釣れる! 釣れてしまうぞ! 釣れる、釣られる、釣れる! おおお!」
ぐいぐいぎりぎり大騒ぎ、思いきりしなった竿は、不意に力を抜いて―――


――ポンッ!


「にゃあ!」
「どわっ!」
すっぽ抜かれた声は二つ。猫と、ヒトのものだった。
「おお、おおお! これは見事な猫とヒトが釣れてしまった! これは見事にまるまる太って美味そうな!」
歓喜の声をあげるイルの目の前に、どさりと落ちたのは、大物も大物。素早く両手両足で着地して、口に引っ掛けた釣り針を必死に取ろうとする猫と、その前に尻餅をついた痩躯の男。
「いたたたた! 痛い痛い、痛いよ! ねぇパパ、これ取って!」
「意地汚く虫なんか食うからだ、このドラ猫」
痛みでじたばた暴れる猫を押さえつけ、男はあっさり針を外す。
「おお、おお! 痛かったかい、可哀想に! こんな可愛い子を食うのは忍びない! ―――リリース!」
その瞬間、男の手から針はぴゅっと逃れ、空にたわんですとんと落ちた。当然、猫と男は取り残されたまま。
「おや、帰らなくても良かったのかね? 水から出てきたものは水に帰りたがるものだろう?」
今までの高すぎるテンションを針と一緒にすとんと落とし、不思議そうにイルは首を傾げる。
「何? てことは、引っかかったままなら帰れたのか。失敗したな」
男は自分達を釣り上げたモノが異形であることに一瞬だけ驚いたようだったが、すぐに立ち直り、イルが紡いだ言葉に眉を顰めた。今巻き込まれている状況に気づいていないのか、気づいて既に諦めているのか、諦めきれていないのか、微妙なところだったが――やがて皮肉げに口の端を歪め、猫を見下ろした。
「もう少し針にかかってりゃ良かったのに」
猫でも自分が理不尽に責められているのは解ったらしく、僅かに頬を膨らませて不満げに男を見上げる。
「取ったのはパパじゃないか」
「お前が取ってくれって泣くから仕方なく、な」
「優しいねパパ。惚れ直した」
「やかましい」
何度も口の端を舐める猫と、言い合いというには随分とほのぼのとしたやりとりを繰り返す男。イルはそんな二人の様子を興味深そうに眺め、何がおかしいのかにこにこと笑っている。猫の笑顔などろくなものではない筈なのに、何故か彼のそれは非常に穏やかで心地よいものだった。
「まあまあ、落ち着きたまえそこなご夫婦」
「誰と誰がだ」
「ここで知り合ったも何かの縁、尚且つ奥方に怪我を負わせてしまったのはこの老いぼれの責任だ。せめてもの罪滅ぼしに、腕の良い医者を紹介しよう。ついてきたまえ」
とても良いことを思いついたと言わんばかりに、揚々とイルは路地裏を歩き出す。丸い背中を見送りながら、男と猫は暫し逡巡。
「どうする、パパ?」
「ま、他にアテもないしな」
見上げてくる猫に軽く肩を竦めて応え、連れ立って歩きだす。
狭い路地裏から見える空は、随分と淀んで曇っていた。



ぱたぱた、ぱたぱた。ウサギが走る。



ある日のこと。今より前でも、後でもいい。とにかく、ある日のことだ。
九月周は、ここが森の中で無いことにすぐに気付いた。それほどまでに彼女は森を愛していたし、森でなくてもこの場所が心地よいこともちゃんと理解していた。
「はいはい、ちょっとごめんなさいね〜」
異形、としか見えない人ごみの中をすいすいと通り抜ける、見た目がヒトにしか見えない生き物は却って奇異に映るらしく、こっそりとだが不躾な視線を何本も感じる。勿論それは彼女にとって、喜ぶべきものでしかなかったけれど。長年新宿で生き続けた彼女の勘は、自分を傷つけるものとそうでないものの選別に長けている。
「ちょっと、アンタ!」
「ほぇ?」
だから、人ごみの中で不意に腕を掴まれて、ぐいぐい引っ張られて娼館らしき店の裏手まで連れてこられても全く抵抗しなかった。寧ろ自分の腕を引っ張った相手をじっくり観察する余裕すらあった。彼女が「悪人」ではないことはすぐに解ったし―――その姿がずいぶんと、親しみのあるものだったので。
「うわぁ〜、グリザベラに負けないぐらい美人〜」
「ああ、もうまたお節介しちゃったよ…絶対あの子の影響だわこれ」
同時に発せられた互いの呟きに、九月は満足げににんまり笑い、黒猫は左右色の違う瞳をぱちくりとさせた。
「うーん、綺麗なおめめですねぇ。コンタクトには見えないし、ホンモノのヘテロクロミア?」
人間離れした速さと力を兼ね備える「猫」に向かって微塵の恐れも見せず、寧ろ自ら手を伸ばしその頬を包み込む。まじまじと顔を覗きこまれ、知り合いの数式医には勿論言われたことのないそんなセリフを言われ、アティのペースはすっかり崩されてしまった。
「ちょ、ちょっと! もういいでしょ?」
「照れなくていいのにぃ」
慌てて体を押し返し―――爪を立てないように細心の注意を払って―――、戸惑うアティは一つ咳払いをして、不満げながらもあっさり引いた九月に改めて問いかけた。
「アンタ、何者? 見た目、全く第7層(ここ)に似合わないのに、滅茶苦茶馴染んでるし。お貴族様って風体じゃ勿論ないし、怪しすぎなんだけど」
「確かにここの空気は心地良いですねぇ〜。寧ろあたしのホームグラウンド? 今日からここで金稼げって言われてもよゆーよゆー」
「はは、たくましいね…じゃ、あたしはこれで。何があったか知らないけど、元気でね」
口調はふざけたままなのに、何故か非常に説得力のあるその言葉にアティは溜息を吐き、本気で踵を返した。やっぱりお節介なんてろくなもんじゃない、と心の中でしみじみと思って。
「あ、ストップストップ!」
「きゃ!?」
ぐにん!と思いきり尻尾を引っ張られて、不似合いこの上ない、とアティは思っている可愛らしい悲鳴が漏れてしまう。咄嗟に、引っ掻いてやろうか!と振り向いたその行動は、先刻の笑みを完全に消した九月の表情によって止められた。
「駄目なの、あたし帰らないと」
眼鏡の下の瞳は、まっすぐにアティに向かっている。その言葉に、一寸の嘘偽りもないということを、その輝きで語っている。
「あたしが生きられて、死ねる場所は、あの町しかないから」
静かな声に、逆立っていたアティの毛が自然に撓る。困ったように頬をぽりぽり掻いて、改めて訪ねた。
「…どうやって来たの? アンタ」
どこから、とは問わない。彼女が生まれたのがこの閉じられた異形都市でないことだけは解るから。
「んー、それが解ったら苦労しないって話ですねぇ〜」
たはは、と笑いながらあっさり口調を元に戻した九月に、かくりとアティの肩が落ちる。やっかいなのに捕まっちゃったなぁ、とは思うけれど、もう見捨てるという選択肢は彼女の中から既に消えかけている。
「…はぁ。じゃあ、情報屋の―――」
「アティ?」
「亀爺のところにでも、って、え?」
呼ばれた名前に、一瞬反応することが出来なかった。彼女にしては、彼の声を聞き流すことなどほぼありえないとみていいのに、それをやらかしてしまったのはやはり彼女自身が酷く混乱していたせいだろう。
回診の帰りなのか、いつも通りの白衣を羽織り、いつも通りの無表情で、お人よしの数式医が立っていた。
「ギ、ギー!? なんでここに!?」
「…君が随分露骨な行動をしてるから、珍しいと思って。そっちは?」
「じゃんじゃかずんじゃかじゃーん! ついさっきアティちゃんに助けられた迷子でーす!」
「…そうか」
「うわっ、無表情で流された! アティちゃん、このひとツレなさすぎるんですが!」
「あー…そういうの、このひとに求めても無駄だから、たぶん」
生きる気力というものをほぼ限界まで削り落したような覇気のない反応に、九月は仰け反って叫ぶ。彼のことをよく知っているアティは虚ろに笑うことしか出来ないが、僅かに眉間に皺を寄せただけで、踵を返して歩き出したギーに慌てた。
「あ、ちょっと! どこ行くのさ」
「取り込み中のようだから、帰るよ」
あまりと言えばあんまりな、心の底から本気で言っていると解ってしまう台詞に、アティは鼻白んでしまう。折角会えたのに、とか、端から家に遊びに行こうと思って歩いていたのに、とか、そういうやっぱり自分には似合わないと思ってしまう可愛らしい我儘が唇から洩れそうになる。
そんな黒猫の心の機微を、当然だが九月はあっさり把握した。蓮っ葉な格好だけど、この子絶対お水は似合わない純な子だなぁ、と口に出せば怒られるのを分かっているから心の内だけで呟いて。
「えー、アティちゃんはえーと、ギー?さんに用があったんですよねぇ? アテはないことこの上ないし、旅は道連れ世は情け、あたしもついてっちゃったらダメですかぁ〜?」
「ぇ…何で、えっと、そう! ほら、キーアもお客が来たら喜ぶからさ! いいでしょギー!」
目をぱちくりとさせたのは一瞬、九月のウィンクで悟り、アティも慌てて言葉を重ねる。あの綺麗な少女をダシにしてしまうのは正直心が痛むが、この際目を瞑ってもらおう。
ギーはゆっくりと瞬きをして、二人の顔を順繰りに見て、何かを思考した結果―――小さく息を吐き、「構わない」と言った。
「…最近、きみも僕のことを案内屋か何かと、勘違いしていないか?」
「固いこと言わない! ほら、行こっ!」
一度了承の返事を貰えれば撤回されることは有り得ないので、アティはすっかり機嫌を直して、それこそ猫のように軽やかに、ギーの傍に並んで歩き出した。
その二人の背中を満足げに長月は眺め、後に続こうとして――眼の端にちらりと、見たことのある獣の駆け抜ける姿を捉えた。
勿論長月は微笑むだけで、それを追うことは無かったのだけれど。



ぱたぱた、ぱたぱた。ウサギが走る。



ある日のこと。今より前でも、後でもいい。とにかく、ある日のことだ。
刈谷真季は、まず今の状況を簡単に分析した。
全く見覚えの無い、スラム街と思しき路地裏に自分は立っていた。辺りには鉄くずがごろごろと転がり、油臭い空気は非常に不快だ。尚且つ、天井―――そう、街の上に天井があるのだ―――は重く分厚く、空が見えない。
何とも気が滅入る世界に降り立ってしまったが、彼女は全く不安や恐怖を抱かなかった。何故ならここには自分だけでなく、誰よりも勇敢なる自分の護り手がいるのだから。
「何とも面妖なところですな、姫。ご油断召されるな」
誇り高きネズミの騎士リーピチープは、針のように細い剣を構えて鼻をひくひくと蠢かせている。何とも愛らしい姿だが、その動きに隙はない。彼が最も力を発揮するのは、王と姫君を護る時であると刈谷は知っているので、優雅に礼をする余裕さえ見せた。
「大丈夫よ、我が騎士様。でも、ここはどこなのかしら。やっぱり森なの?」
「申し訳ありませぬが、私にはとんとさっぱり。何、恐れることはございません。いざや、前へ進めば必ずや道は開けましょうぞ」
勇猛果敢なその言葉に刈谷は微笑んで、騎士の後について歩き出した。
じゃり、じゃり、と鉄くずを踏む自分達の足音だけが響く街。他の生き物の姿が見えないわけは、どうやらそう遠くない昔にこの町を襲った何モノかのせいのようだった。
刈谷は最初、道に開いた穴だと思っていた。しかし近づくうちに、どう見てもそれが二足歩行の生物の足跡であることに気づいてしまった。辺りにはそれとは別に力任せに抉られた地面や、焼け焦げたような跡もある。「何か」がここに住む人々を蹂躙したのであろうことは、容易に想像がついた。流石に刈谷も背筋が寒くなるが、全く怯まずずんずん進む小さな背中を頼もしく見詰めながら、足を進める。
からんっ、がらんがらんがらん!
「「!!!」」
自分達以外が立てたけたたましい音に、刈谷はびくんと飛び上がり、リーピチープも一斉にヒゲを欹てる。音を立てた正体は、瓦礫の山の上からごろんごろんと転がってきた真ん丸い機械だった。
「イタタ、システムチェック開始。オールグリーン、問題ナシデス、ハイ」
「むむ、何奴!」
「喋ってる…ロボットなの? それとも、妖精?」
二人の前に転がってきた機械は、あろうことかぴょこんと短い足らしきもので立ち上がり、喋ってみせた。一人と一匹がそれぞれの反応を返しているうちに、瓦礫の山を足で滑り降りてきた影がもうひとつ。
そちらを見遣り、刈谷はもう一度驚いた。その影が、こんな停止してしまったような街に不似合いな身形を持った、小さな少年だったからだ。
奇妙な少年だった。年の頃は10にいくかいかないかといったところで、癖のある淡紫色の髪を何本ものピンで留めて額を出している。服は子供にしては不似合いな筈なのに、何故か誂えたように似合っている大人びたスーツ。あと十年も経てば女泣かせになるだろう気配が、今から立ち上っている。
しかし一番刈谷の興味を引いたのは、少年の瞳だった。ペリドットのような美しい翠色の瞳であったが、虹彩はまるで発条のように渦を巻いている。
少年は無表情のまま、その場で転がり続ける機械の傍まで歩み寄り―――
がこっ。
「アウッ」
蹴った。思いっきり。ごん、ごろごろごろ、と転がった球形の機械は、痛イデス、痛イデス、とまたその場でぐるぐる回転している。少年は眉ひとつ動かさぬ無表情のまま、再びそこまで近づいて行って足を振り上げ――
「ま、待って!」
咄嗟の刈谷の静止に、ぴたりとそれを止めた。不思議そうに見つめてくる翠色の瞳としっかり目を合わせ、刈谷はゆっくりと少年に言い聞かせるように言葉を紡いだ。
「その子、痛がってるわ。蹴るのはやめてあげて」
「…………」
刈谷の言葉に、少年は不満そうに口を噤む。自分のやっていることが「よくないこと」だということは解っているが従うのは嫌、といったところだろうか。生意気盛りの何とも微笑ましい様に、刈谷の唇は綻んでしまう。
「ハイ、蹴ルノハオ止メクダサイ。『さっかー』デ蹴ルノハゴム製ノ『ぼーる』デシテ、タダ丸イダケデハダメナノデス、フシュー」
「……………」
蹴っていた張本人からも駄目出しを食らい、少年は非常にしぶしぶとだが、転がる「金属製のボール」を抱き上げ、乱暴な手つきで土埃を払ってやっている。もしかしたらこの二人? 一人と一体? はとても仲が良いんじゃないかしら、と内心刈谷は思う。
「うむ、弱い者いじめをしてはならぬぞ、幼子よ。時に、この面妖な街から脱出する術をお主は知っているか?」
リーピチープもそんな少年の機微が解ったのか、うんうんとほこほこしたほっぺを上下させている。少年は胡散臭げにネズミの騎士を睨んでいたが、ぷいと踵を返し、丸い機械を抱えたまますたすたと歩き出した。
「あ、待って!」
刈谷の静止にも今度は止まらず、少年にしては非常に早足で去っていく。折角この世界で初めて出会えた手がかりを逃がすかと、刈谷とリーピチープも慌てて後を追うことになった。





カチコチ、カチコチ、カチン。
この街の支配者に仕える騎士の持つものほどではないが、それなりに正確な時計の針がカチリと合わさった。
淡紫色の髪の男と、ペリドットの瞳の少女が、同時に見上げてそれを見る。
「…遅いですね」
少女が呟く。男は答えず、動かしてしまった視線自体が不覚とでも言うように、手元の雑誌に目線を戻す。勿論少女の瞳は、その動きを物怖じせずずっと追っている。
「正確には、昼食開始と予定された時間より、既に31分が経過しています。クセルクセスの行き先を仮定すると、91.22%の確率で、第7階層におけるドクター・ギーのアパルトメントへ向かったと思われます」
淡々と続けられる言葉に、やはり男は答えない。ただ不機嫌そうに露骨に眉を顰め、煙草を思い切り吹かしたので、少女は一度口を閉じた。彼の気分を不快にするのは、本意ではない。
後ろを向き、小さな食卓を見る。少女が昼食時間のほんの5分前に完成させた、合成食料を使った簡単な昼食。材料もいまいち、作ったものの腕もまだ発展途上となると、あまり味にも期待は出来ない。そもそも少女は味見が出来ない。
カロリー計算と栄養素のバランスは分析できても、料理の旨みは解らない。
それでも、目の前のこの男は、何の文句も言わず全て平らげる。店屋に入った時は、気に入った味のものでなければ二口と食べないのに。それがルアハの、既に鋼に変わった筈の心臓を物凄く熱く沸き立たせる。
そしてもう一人、何の文句も言わず、そんな料理を全て平らげてくれる相手がいる。今まさに、男と少女が帰りを待ち侘びている、その子供。
男に良く似た髪と、少女に良く似た瞳を持った、そして嘗ては美しき御伽噺だった―――このインガノックに、生まれ直した子供。
がたり、と音を立てて、男が立ち上がった。乱暴に雑誌を放り捨て、大股で家の玄関に向かって歩き出す。
何処へ行く、とも着いて来い、とも言わない。それでも少女は、ちゃんと料理に蓋を被せてから、何も言わずその後に続く。それぐらいこの行為は、二人にとっては当たり前のものだった。
親しい友達と遊ぶのに夢中で、三人揃っての食事をすっぽかした子供を、男にとっては非常にいけ好かない相手の家まで迎えにいくことが。
肩を怒らせて歩く男の斜め後ろにぴったりと寄り添いながら、少女は珍しく―――男にとっては既に珍しいものでは無くなっていたけれど―――桜色の唇をほんのりと緩ませていた。



ぱたぱた、ぱたぱた。ウサギが走る。



ある日のこと。今より前でも、後でもいい。とにかく、ある日のことだ。
黛薫は、途方に暮れていた。
呆然と見上げる空は、灰色と赤黒い光で彩られた何とも不気味な代物で。
いくら新宿が自然を忘れて発達してきた大都市といえど、こんな空を拝んだ事は一度もない。
おまけに彼女の立っている路地裏から表通りを見てみれば、あからさまにヒトではない生き物が闊歩している。体の一部、或いは全部、毛むくじゃらの動物みたいな姿になっているモノが、頭の先から足の先まで無骨な防護服に覆われたモノと一緒に歩いている。女郎屋であろう店先に座る女は体半分が蛇だし、酒を周りに振舞って上機嫌な男であろう生物は二本足で歩く鳥にしか見えない。
また、あの腹の立つリドルってやつに巻き込まれたのかな。
心底不機嫌な溜息を吐き、黛はやっぱり途方に暮れた。
何せ今、自分は一人なのだ。
いけすかない言葉の魔術師も、じめじめ暗い不愉快な魔女も、うるさいだけの享楽娼婦も、真面目で面白みのない女店主もいない。
彼らの力なく、自分ひとりでこの状況を打破できないと、黛はとっくに気づいている。それほど馬鹿じゃない、ただ認めたくないだけで。
それよりもまずは、この汚い排水溝にすっぽり嵌ってしまった、自分のお尻を持ち上げるべきなのだということにも、とっくに気づいている。ただ、見たくない。そんな悲惨な状態になった自分の下半身を、ひたすらに。
「ああ、もお! どーしてボクがこんな目にあうんだよっ!!」
実は、こんな目にあった原因も薄々感づいている。それでも巻き込まれたのには、納得いかない。
いつもの、それなりに平和な昼下がり。偶然―――本当に偶然、見てしまったのだ。それを視界に収めた瞬間、黛の背筋が思い切り逆撫でされた。
あの、薄気味悪いウサギと、腹立たしいウサギが。実験動物の分際で、自分を騙して、呪いをかけたあいつらが。
見つけた瞬間、黛は逃げた。逃げようとしたのだ。怒りも情けなさも恐怖が飛び越えた、もう二度と関わるなんてごめんだった。
だからあいつらの走る方向とは反対に走り出して、すぐずるっと足が滑って、あ、と思ったら、そのまますとんと。
落ちて落ちて落ちて、こんなところにお尻を嵌める羽目になったのである。
「ぐっ…この、抜けろ…」
情けない恥ずかしい気持ち悪い、そんなぐるぐる回る怨嗟を堪えて、両手両足で何とか自分の体重を持ち上げようとするが、何の因果か本当にぴったり嵌ったものは中々抜けてくれない。しかも更に、
「あれ、お姉ちゃんなにしてるの?」
「うわーだっせぇ、転んだのかー?」
「だ、だいじょうぶ…?」
最悪だ。黛は天を仰ぎ、信じてもいない神を呪った。この呪詛がもし効果を発揮したら世界が3回滅びるぐらいには。
路地裏の奥からごそごそと顔を覗かせたのは、年の頃は同じくらいの子供達。大人ぶった女の子、生意気盛りの男の子、引っ込み思案そうな蛇の足を持った子。しかし最早どんな容姿でも、今の黛にとっては「ウザい」以外の何者でもない。
「何見てんだガキ。殺すぞ」
「怖ぁ〜! このねーちゃんおっかねー!」
「ルポ、あんたの口の利き方が悪いんでしょ!」
「ご、ごめん、なさい…」
何が可笑しいのか、子供達はきゃあきゃあと騒ぎながらも黛の脅しに臆することなく、遠巻きに見ている。ホント誰かこいつら殺してくれないかな、と思っていると、更にギャラリーの増える気配があった。
「みんな、どうしたの?」
「あっ、ポルシオン!」
「聞いてよ、ルポったらね、レディに対するあつかいがなってないのよ!」
「え、えと、女の子がね…」
3人3様に騒ぐ子供達の前に、別の路地から姿を現したのは、彼らより少しだけ年嵩の、それでもやっぱり少年だった。ああ、更に煩くなるのか、といい加減黛の苛立ちがピークに達した瞬間、
「大丈夫? はいっ」
極自然に、手を差し伸べられて。不覚にも黛は、怒鳴ろうとした叫びを全部喉に飲み込んだ。
綺麗に切り揃えられた黒髪に、透き通った青い瞳。他の3人より身形はきちっとしている…というか、纏まりすぎてややずれている感がある。
しかしそんな容姿の妙よりも黛が驚いたのは、その少年の仕草が、子供にしては余りにも揺ぎ無く、素直な優しさが溢れたものだったからだ。先刻までとは別の羞恥心が何故か沸き起こって、やはりぶっきらぼうに言葉を紡ぐことしか出来なかった。
「い、いいよ、ガキの手なんか借りなくたって起きられる」
「でも、お姉さん、服も汚れちゃってるよ? ぼくの家、すぐ近くなんだ。怪我をしてるんならお父さんが治してくれるし、お母さんとお姉ちゃんの服を借りればいいよ」
差し出された子供の手は、引かない。ぼくの家、と言ったとき、何故か本当に嬉しそうに微笑んで、黛をじっと見詰めている。
その瞳の強さに、黛は臆した。目を逸らす事に慣れてしまうと、こんな瞳に見つめられるのは、却って苦痛だ。
「…しつっこいな、ナマ言ってんじゃねーぞクソガキ! とっととパパとママのいる家に帰りな!!」
苛立ちと焦りが、罵声を生んだ。後ろの子供達はその怒気が本気であると気づいたらしく、怯えた顔で黒髪の少年の後ろに下がる。
少年は。
やはり。
「大丈夫だよ」
微笑んだまま、手を差し伸べ続けていた。
「絶対、離したりなんかしないから」
「…バカじゃねーの、お前」
悔しさに噛んだ歯の間から、そんな呟きが漏れた。悔しい、悔しくて仕方ない。何でこんなガキに、丸め込まれて、乗せられて、本気で罵ってるのに笑われて。…本当は怯えているのすら、簡単に見抜かれて。
揺らがない、子供にしては大きな手に、そっと。黛は、震える自分の手の先を置いた。
当然、それはしっかりと握り締められ、きっちり嵌っていた筈のお尻は、いとも簡単にすぽん、と抜けた。



ぱたぱた、ぱたぱた。ウサギが走る。



ある日のこと。今より前でも、後でもいい。とにかく、ある日のことだ。
アリスは、一生懸命猫を探していた。自分の飼い猫、黒猫のダイナ。
女の子のくせにお転婆で、ケンカと生傷は絶えなくて、それでも2匹の子猫の母親になった。生意気なところもあるけれど、初めて出来た自分の友達、可愛い、可愛いダイナ。
それなのに、いなくなってしまった。猫が気紛れなのはいつものことだけど、なかなか帰ってこない。とうとうアリスは業を煮やして、この街までやってきた。
心配なのも勿論ある。でもそれ以上に、ダイナが誰かと一緒にいないか、それが問題。
ダイナには、旦那さんがいる。アリス自身は―――或いは、××は、それを認めたくないと思っているけれど。
優しくて、意地悪で、面倒臭がりの癖に面倒見はいい、ヘンな魔法使い。ダイナは彼のことを、旦那さんだと言う。その言葉に込められる意味には大して問題は無い、ただ彼女がそう言って、彼は否定しているけど、目くじらを立てすぎることはない。それが、どうしても、嫌。
決して健康的ではない青白い顔に珍しく朱を乗せて、アリスはぷくりとほっぺたを膨らませる。かつかつ、と踵の高い靴で道を踏みしめながら。
「ダイナったら、帰ってきたらご飯あげないんだから」
ぷりぷりしながら、そんな可愛らしい罰を呟いてみる。
「あら、どうして?」
「だって、わたしにこんなに心配させて。それぐらいのお仕置きは当然だわ」
「でも、お腹が空くのはとっても悲しいことだわ。きっとその子も反省してるから、許してあげて?」
「それは、そうかもしれないけど。でもこれで、丁度10回目の家出なんだもの。もう許せないわ」
「まぁ、そうだったの。それなら、貴方が怒るのも、無理ないわね」
「でしょう? 今度という今度は、許さないんだから――――…!」
其処まで言って、端と気づいた。慌てて足を止めて横を見ると、自分と同じ年頃、に見える少女が、にこにこと笑っていた。先刻から自然と話し合っていたのは、この少女だったようだ。その事に気づいて、アリスは大層驚いた。
自分の存在が、当たり前に認識されていることに。
彼女はアリス、黒いアリス。ガーデンの守護者にして操り人形。
森ではないこの場所で、彼女を認識できるものなど、誰も居ない筈なのに。
それなのに、金色の髪を持ったその少女は、紅玉の瞳を嬉しそうに揺らして微笑んだ。他でもない、アリスに向かって。
「怒ってもいいと思うわ。でも、ちゃんと謝ったらその子にご飯を食べさせてあげてね?」
アリスは驚いた息を飲み込んで、優雅に礼を取った。誰かに認識されたのなら、自分はアリスにならなければならない。
「ご忠告ありがとう、可愛らしいお嬢さん。仕方ないから、あなたに免じて許してあげるわ」
「まぁ、ありがとう。あなたもとっても可愛らしいわ。わたしはキーア。あなたのお名前を教えてくださる?」
多分に皮肉を込めた台詞の筈だったのに、金糸の少女の無邪気な笑顔は全く揺るがなかった。内心の戸惑いを押し殺して、彼女はアリスであり続ける。
「わたしはアリス。森の使い、ガーデンのあるじ。リドルの姫の、黒いアリスよ」
「アリス、とても良いお名前ね。…ねぇアリス、不躾なことを聞いてもいいかしら」
「あら、何? 良いわよ、なんでも仰って。わたしのことは、わたし自身が一番良く知っているわ」
「ええ、そうね。それじゃあ、聞くわね。…アリス、あなたも黒い服を着ているのね」
も、とついたのは、彼女も年齢にしてはシックな黒いドレスを身に付けているからだろうか。大人びたその服をほんの少しだけ羨ましく思いながら、アリスは寧ろ胸を張って答える。
「ええ、そうよ。長い時間が経ったから、手垢に塗れてしまったわ」
「それは嘘だわ」
「…え……?」
きっぱりと。余りにも簡単に言い切られて、アリスは二の句が告げなくなった。キーアと名乗った目の前の少女は、いつの間にか笑顔を潜め、悲しそうにじっとアリスを見詰めて言葉を続ける。
「わたしのこの服は、自分を悼む戒めだもの。―――あなたも、そうでしょう?」
「―――…!!!」
キーアの言葉に、アリスは動けなくなった。
そうだ、これは喪服だ。
もうこの世界のどこにもいない、否、そもそも生まれ出でることすら出来なかった子供の―――
「違うわ!!」
心に浮かんだ恐ろしい事実を、叫び声で打ち消した。そんなもの、アリスには必要ない。それ以上の意味は、アリスには必要ない。ぐるぐると思考が渦を巻き、その中心からじわりとおぞましいものが沸いて出る。
「違う、そんなのわたしにはいらない、わたしじゃない!」
「アリス、落ち着いて」
「違う違う違う、違う! わたしは! わたしはここにいるもの!!」
「アリス!!」
大声で名前を呼ばれて。××は漸く―――アリスであることを思い出した。僅かな時間の錯乱から戻ってくると、紅玉の瞳が間近にあって驚いた。
「ごめんなさい。あなたを悲しませるつもりはなかったの」
「……………わたしは、アリスよ」
「ええ、そうね、そうだわ、アリス。泣かないで」
「泣いてなんか、いないわ。アリスが泣いたら、涙が池になってしまうもの」
「ええ、そうね、そうだわ、アリス。あなたは泣いてなんか、いないわ」
まるで親が小さな子供をあやすように、キーアはそっとアリスの頭を肩口に抱き寄せた。そんなことをされるのは始めてで、アリスは戸惑うが、優しく背を撫でてくれる掌から離れがたく、そこから抜け出すことが出来なかった。
「わたしが言いたかったのはね、アリス。あなたも偶には、そのお洋服を脱いでもいいってことなの」
「…………え?」
もう一度、アリスは絶句した。だってこの服は、アリスがアリスである為のもの。脱いでいい、わけがない。
「わたしも本当は、ずっとこの服を着なきゃいけない。でも、わたしもあなたも、一人前のレディですもの。少しぐらい、お洒落しないといけないわ」
自分の目尻の方に浮かんでいた涙をそっと指で拭って、キーアは微笑んだ。
「だってギーのお手伝いをする時には、看護士さんのお洋服が必要だし、眠る時にはパジャマに着替えないといけないわ。ねぇ、アリス。ほんとうにたまには、そのお洋服を脱いでもいいのよ」
何を言っているの、と言いたかった。そんなの知らない、と切り捨てたかった。そう思ったのに、それなのに。
「………そんなこと、できるの?」
何故自分の唇は、ありもしない希望というものに縋ろうとしているのか。
「ええ、もちろん」
キーアはやはり、優しく微笑み。
「お時間があるなら、うちへ寄って行って。わたし、こう見えても衣装持ちなのよ」
白くて細いその手を、躊躇わずにアリスに伸ばす。
逡巡は僅かで。アリスは、おずおずと、本当におずおずと―――その手に、指先をそっと重ねた。



ぱたぱた、ぱたぱた――――。



ある日のこと。さっきまでよりは確実に後。とにかく、ある日のことには違いない。
「おいおい、マジか」
灰流は、目の前の光景に思わずそんな呪詛を吐き。
「うっひょ〜! 全員集合ー! ってカンジ?」
九月は、心底嬉しそうに飛び跳ねて。
「うわぁ…ちょ、いつまで握ってるんだよ! 早く離せってば!」
黛は、ずっと少年と繋いだままだった手を慌てて振り解き。
「何はともあれ…皆無事で、良かったわ」
刈谷は心の底から、安堵の息を吐いた。
アパルトメントの目の前の狭苦しい路地は、四方八方から集まってきた人で一気に賑やかになる。
「…キーア。そちらは?」
「お客様よ、ギー。少しだけ、お家に上げてあげて?」
「あ―――、ダイナ!!」
「ママ!」
ギーが深く深く溜息を吐き、とりあえず同居人の少女に話を振ると、彼女と一緒に居た少女の方が大声をあげた。痩躯の男に連れられていた猫が、嬉しそうに駆け寄ってきて少女の手に頬を擦り付ける。
「もう、どこへ行ってたの! 心配したのよ!」
「ごめんね、ママ! パパがボクのこと、離してくれなかったんだ!」
「速攻で誤解を招く説明を止めろそこのクソガキ」
「灰流ぅ〜、男の言い訳はみっともないですよん?」
「最ッ低」
「何と嘆かわしい…騎士の風上にも置けぬ」
「はい、お前らもあっさり鵜呑みしない!」
「すぐ謝った方が、身の為だと思うわ…」
「刈谷さんまで…」
女性人に囲まれて喧々諤々、がくりと肩を落す男をイルは面白そうに眺め、ヒゲを揺らす。
「これはまったく、賑やかなことだ。たまにはこんなのも悪くない。どうかね、ドクター?」
「………………」
「そうよ、ギー。お客様がいっぱいで、楽しいわ。クセルクセスも、来てくれたのね」
追随するキーアが覗き込むのは、刈谷達を図らずもここまで案内した淡紫色の髪の少年。機関精霊を抱えたまま、ふいと顔を逸らし、無言で他の子供達の群れに近づくと、ポルシオンがぱっと顔を輝かせて自分から駆け寄った。
「クセル! 遊びに来てくれたんだ」
「…ひまだったからな」
「よーし! 今日こそみんなでいっしょに、サッカーやろうぜ!」
「え、わ、わたし出来ないから、いいよ…」
「ポルンは『しんぱん』をやればいいわ。ルポがズルしたら、すぐにダメっていうのよ」
「う、うん…!」
「おれ、ズルなんかしないぞ!」
「パル、ルポ、ケンカしないで。クセル、どうする?」
「…れんしゅう、してきた」
「! じゃあ、やろう!」
きゃあきゃあとはしゃぐ子供達を見遣り、再びギーは嘆息する。
生まれていない筈の子供達。そのうちの一人を迎えに来て、今まさに踵を返そうとしている黒衣の男と、その腕を取って逃がすまいとする自動人形の如き少女。キーアが笑い、アティがいて、乱入者達はこちらに構わずはしゃいでいて。
有り得ない光景。有り得ない時間。仰いだ空は今日も変わらず、天蓋と分厚い雲で覆われている。青い空など見えない。そう、こんなのは―――夢でしかない。
と、そんな物思いに耽るギーの側に、するりと黒猫が寄り添った。見上げてくるのは、左右色の違う美しい瞳。その目に見詰められると、僅かにささくれていたギーの意識が自然に凪いでいく。
「いいじゃない、老師の言うとおり、たまにはさ。肩の力抜いてよ、ドクター」
きゅっと口の両端を持ち上げて笑う美しい猫に、ほんの少しだけギーの頬も緩んだ。勿論アティとキーアぐらいにしか気づかれない、本当に僅かなものだったけれど。
「………そうだね。たまには、悪くない」
君が側にいてくれるのなら。そんな心の中の素直な言葉に気づかないギーは、当然口に出すことは出来なかったけれど。
「あれ〜、そういえば。アマモリちゃんはいないんですかねぇ?」
「確かに、そうね。どこかで迷子になってるのかしら…」
「あの人のことだから、どこに行ったって無事でしょう? 考えるだけ無駄ですよ」
ここにいない「最後のひとり」の事を思い出し口々に話す女性達から上手く距離を取りつつ、灰流も嘆息して空を仰ぐ。その顔に浮かぶのはやはり、ギーとは違う、全てを見透かしたような皮肉な笑みだったけれど。
「―――さて、今回はどういう風の吹き回しなんだ? アマモリ」
小さく呟いた声は、誰にも聞き取られることは無かった。







「どうして、こんな事をしたんだい? 遠い国の魔女さん」
天に張り出した鉄塔の上で踊る、道化師が一人。もう一本の鉄塔の上に腰掛けている魔女に語りかける。
「こんな世界を欲しがってる人なんて、どこにもいやしないのに」
悲しむように、嘲るように。道化師は舞を続ける。人の不安を煽るその姿を一瞥し、しかし魔女は嫣然とその唇を歪めてみせた。
「あなたが気に入らないからよ、グリム・グリム。絶望を司る道化師さん」
「おや、これはこれは。魔女さんはどうやら、僕のことがお嫌いらしい。それは何故?」
「気づかないの? 教えてあげる。この世界は―――わたしのものだからよ」
おやおや、と道化師は肩を竦めるが、魔女は怯まない。一層胸を張り、宣言をする。
「わたしが世界を作るのは、わたしが望む世界だからよ。それ以外なんて何も無い、わたしの意のままに出来る世界」
すくりと立ち上がり、青のストライプドレスに風を孕ませ、歌うように魔女は告げた。
「あなたみたいに、自分のためにしか世界を作っていないのに、誰かのためと嘯いている。そんなひとが、一番嫌いよ。だから、思い知らせてやりたかったの。これで満足?」
ぱち、ぱち、ぱち。道化師が拍手を送る。僅かに顎を引き、礼を取る。幻の道化師が、敗北を認めた瞬間だった。
「なるほど。確かにあなたに、僕は必要ないようだ」
「わたしから全てを奪えるのは、たった一人だけ。それはあなたじゃないわ」
答えは無い。人の目の端に映り続ける絶望は、彼女の視界に入らない。
魔女は勝利を誇るように、鉄塔の上で道化師の代わりに、踊った。まるで、真珠の腕と真鍮の足を持った、人形のように。





それを更に、ほんの少し高いところにある公園から、見下ろす小さな影が二つ。
「全く、あなたも困った方だ。まさかわたしがだしに使われるなんて、とんだ誤算だったよ」
頭の上の耳をふいふいと左右に振って、影の一つであるウサギは肩を竦めた。もう一つの影であるもう一回り小さなウサギは、三白眼できろりとそちらを睨む。
「あの娘の呼びかけに、どうして我等が逆らえようか。大口を叩くな、はぐれ者」
追われるウサギと追うウサギ。物語のハジマリには御誂え向きの合図として、まんまとこの二匹は捕まってしまったらしい。今は漸く足を止め、柔らかい青草を食べて人心地ついたところだ。
「確かに、確かに。だからといってあなたに追われて―――このわたしが大人しくしているとでも?」
にやりとウサギの癖に笑い、はぐれ者―――エル・アライラーは顔をもう一匹のウサギに近づけるが、露骨にぴょんと飛び退られ、流石に不満げな顔を隠さない。
「相も変わらず、つれないお方だ。いつになったらわたしの想いを、受け止めてくださるのか」
「訂正をしろ」
「?」
嘆くウサギを尻目にばさりと外套を翻し、もう一匹のウサギ―――死を司るインレの黒ウサギはあくまで淡々と言葉を紡いだ。
「身の程知らずにも、追って来たのはお前だ、エル・アライラー」
「……………」
死神のその言葉に、エル・アライラーは不覚にも―――本当に不覚にも、何も言うことが出来なかった。仲間だろうが敵だろうが、甘言を弄し陥れてきた、かのエル・アライラーが、自ら沈黙を作り出してしまったのだ。インレの黒ウサギも、それなりに驚いたらしく、静寂の中僅かに目を見開いている。
「―――ハ。ハハ、ハハハハハハハハハ!!」
突如、哄笑。ああ、いつもの狂いウサギに戻ったかと、インレの黒ウサギは安堵して―――安堵して? 視線を再び逸らす。エル・アライラーの笑いの爆発は暫く収まらず、ごろごろと芝の上を転がる。まだ、何も言わない。今は、先刻とは違い、喋れないのではない―――喋らないのだ。
―――全てのものを追い続け、取り続ける死が! わたしから逃げていたと!? そしてそのおかしさに、貴方自身が気づいておられない!
だから、言わない。言えば、気づけば、彼は否定するべく、あっという間に自分を取ってしまうだろう。だから言わない、だから言えない、ああだけど―――
「ああ、もう。あなたに夢中だ」
むくりと起き上がり、ずりずりと四つん這いでインレの黒ウサギに近づくと、その唇の前に自分の咥えていた花を差し出す。それが彼に捧げられる、唯一の愛の証であるから。
僅かな躊躇の後、しゃくりと聞こえた咀嚼音に、エル・アライラーは喜んでその両耳を震わせた。