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夢みるレタス

「ご機嫌いかがかな、死神殿?」
不意にかけられた声に、インレの黒ウサギは足を止めた。くるりと赤い瞳を動かすと、思った通り手近なコンクリートという名の樹の上に我が物顔で寝そべり笑う、エル・アライラーの姿があった。
「何の用だ、はぐれ者。私に取られる覚悟を決めたか?」
言外に有り得ないという意識を滲ませて死神が問う。はぐれ者はくくく、と心底可笑しそうに身体を折って笑い、手に持っていた瑞々しい菜をしゃりりと噛み千切った。
「相も変わらずつれない方だ! たまにはいつもと違う、愛の囁きでも交わしてみたいものですが!」
「寝言は寝て言え」
何の感慨も滲ませず、インレの黒ウサギは踵を返し、再び空に舞おうとする。と、逃がさないとでも言うように、くるりと飛び上がったエル・アライラーが彼の前に立ち塞がった。
「折角会えたのだから、急ぐ事もありますまい。お一つ如何ですか?」
そう言って目の前に差し出されたのは、レタスの葉だった。新鮮で柔らかい葉先は、ウサギにとってはご馳走だ。恐らく適当な畑から拝借してきたのだろう。その手の手管に関しては、はぐれ者は折り紙つきだ。
ウサギの死神は、いつも達観した色しか見せないその瞳に、子供のような好奇心を浮かべ、ふんふんと野菜の香りを嗅いだ。僅かに身を乗り出したその姿の可愛らしさに、はぐれ者の顔が普段とは段違いに柔らかく微笑む。いつもなら相手を挑発し、貶めることに悦びを見出す嘲笑しか浮かべないのに。
「レタスはお嫌いですか、死神殿?」
「いや。食べた事が無い」
あっさり言われた言葉に、はぐれ者の方が驚いた。そう言われてみれば、彼がいつも住まうあの冷たい岩屋の国では、このような緑鮮やかな餌など滅多に手に入らないのかもしれない。まさか食べたものまで忘れてしまうのかな、と軽く頬を掻きつつエル・アライラーが思案していると、ついと手を伸ばされた。
レタスの葉を指先で摘み、両手で持ち直す。鼻先を更に近づけ逡巡しているようだが、興味は消えないらしく耳がひくひくと動いている。やがて軽く口を開け、しゃり、と端を噛んだ。
しゃり。
しゃり。
しゃり、しゃり。
しゃり、しゃり、しゃり。
ゆっくり一口ずつだった口の動きがだんだん早くなる。どうやらこの食事は死神殿のお眼鏡に叶ったようだ。一年目の子供が一生懸命餌を咀嚼するのと同じような動きでレタスを食べるその仕草が、どうにも可愛らしくてエル・アライラーはこそりと笑った。全てのウサギが恐れる月たる死神の、こんな姿を見ることが出来るのは自分だけだろうという優越感と共に。
そのまま二匹は暫くその場に座り込み、美味を咀嚼する事のみに精神を集中していた。食事の最中にあまり他の事は考えられない。
しかし、やがて変調が訪れた。
しゃり、しゃり。
しゃり。
しゃ…り…。
「?」
相手の咀嚼音が途切れがちになったことに気付き、エル・アライラーは顔を上げた。そして信じられない光景を目の当たりにし、食べかけの菜をぽろりと落としてしまうほどに動揺した。
いつもきりりと見開かれている死神の赤い瞳が、とろりと蕩けている。瞼がゆっくりと下がり、途中で押し留められ、また下がる。
―――今にも眠ってしまいそうなのだ。全てのウサギに恐れられる死神、インレの黒ウサギが!
確かにレタスには誘眠効果があるが、たった葉一枚で眠気を催してしまうなんて一年目か二年目の子供じゃあるまいし―――とここまで考えてはぐれ者は気付いた。死神の身体はその子供と同じくらいに小さく、尚且つレタスを食べるのは初めてで。
そう考えれば、今の状況も理解出来る。葉を銜えたままうとうとと、死神の頭が下がっていくと、我知らずエル・アライラーも腰をかがめてその顔を覗き込んでしまう。こんな面白いもの見逃してたまるかとばかりに。
途中で我に返るのか、はっとインレの黒ウサギが顔を上げる。と、エル・アライラーもひょいと腰を伸ばして姿勢を正す。とろとろうとうとと何回かそれを繰り返し―――やがて、完全にこくんと死神の頭が落ちた。
「……………参ったな、これは」
相手の意識が無い事を確認してから暫く、漸くエル・アライラーは口を開いた。苦笑としかいえない笑顔で、細心の注意を払って小さな身体を抱き寄せて。
既に食べ切ってしまったレタスを口の中で無意識に咀嚼しながら、死神は眠っている。深遠を思わせる瞳が閉じてしまったその顔はとても幼い子供のようだった。
「全く。どれだけあなたは、わたしを絡め取れば気が済むのですか?」
余裕を崩さず、それでももどかしげに、はぐれ者は死神の柔らかい頬に口付けを落とす。口を吸うことは出来ない―――彼がそうと決めれば命を吸い取られるのは自分の方だから。無論死自体が怖いのではない、それによって彼に忘れ去られることが何より怖い。
まだ死ねない。折角彼が、何の含みも気負いも無く自分と共にいてくれるまでになったのに。
「癪だけれどね、死神殿。ある意味とっくに、わたしはあなたに取られているよ――――」
抱き寄せてそっと耳元で囁いて、相手が僅かに身じろぐだけで歓喜した。