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弓の弦のように細く長い三日月が、心細く闇夜を照らす空。
ふらふらとまるで幽霊のように、闇に溶ける暗色にも関わらずはっきりと際立って見える不可思議な外套の裾を緩い風に靡かせ、一つの影が飛んでいる。
それは全く重さというものを感じさせず、乱立するビルの間を潜り抜け、やがて程好く広いキャンパスの広がる大学構内、建物の近くに生えている木の枝葉の上にひらりと降り立つ。
それはそのまま動かず。黙って、待っている。
やがて―――静まったままの建物の窓が、開かぬままにひらりと何かがまろび出た。
白い、ウサギだ。一匹の、ウサギ。
それはまるで草原を走るかのように、ガラスを潜り抜け空を舞い、そのまま上へ、上へと―――行ったところで、ふらりと影が動いた。
行き場所を探すように左右に飛びながら登って行くウサギに外套の下から白い手を伸べ、促すように指をゆっくりと曲げ伸ばしする。それに惹かれるようにウサギは、ひらりと飛び、影に近づいて――
しゅるりと、消えた。
正確には、何の音も無く、黒い外套の中に飲み込まれた。
その影は何事も無かったかのように、またふらりと宙に――――舞おうとして、ひたりと止まった。ざ、と枝葉を揺らし、もう一つの影がその近くに舞い降りたからだ。
その影は芝居がかった仕草で草の葉で編まれた外套を翻し、頭の上に生やした耳をひくりと動かして見せた。
「今宵はとても重たい夜だ。まさにあなたにふさわしい!」
言葉と裏腹な、どう聞いても歓んでいるようにしか聞こえない声音で、その影は高らかに宣言した。
「何の用だ、はぐれ者。今更私に取られに来たか」
もう一つの影が、初めて声を発した。それにより輪郭が彩られ、きらりと紅い瞳が光った。僅かな光で耳に並べられた飾りが輝き、ちりちりと音を立てている。
「用? 用など無いさ、尊き死神殿。何故ならわたしが歩いていたら、あなたにいきなり出くわしたのだからね」
「戯言を」
軽く肩を竦める相手に、死神と呼ばれた影は憤りもせず淡々と言葉を返す。面白く無さそうに、もう一つの影は息を吐いた。
「相も変わらず見えない糸を伝う事しか出来ないと見える! そのくせ糸を切った時、その糸の事などもう忘れてる!」
どこか呆れたようにすら聞こえる影の声は朗々と辺りに響くが、それは他の生き物達を闇の眠りから引き摺り出す事は叶わなかった。辺りは何時の間にかあらん限りに枝葉を伸ばした木々で覆われ、月の光すら見えなくなっている。その中で何故か、二つの影ははっきりとその姿を顕現させていく。
口にその眼と同じ紅い花を咥えたウサギのはぐれ者は、死神と呼ばれたもう一匹のウサギの死神の前に何の躊躇いも無く近づき、黒い外套の中から出したままだったここだけは白い手を取り、その唇を触れ合わせようとした。沢山の花弁がついた赤い花が、白い死神の頬に触れようとし――――
「痴れ者」
とだけ言って、死神はくるりと取られた手を取り返し、一つ離れた枝まで飛び退った。はぐれ者は少しだけ残念そうにひらひらと手を振る。
「全ては運命。何もかも、お前もいつかは、手繰り寄せられる糸に絡め取られるが定め。私は走り疲れ倒れた同胞に、安らぎを与えるだけだ」
「必然かい?」
「必然だとも」
「面白くない! 面白くないねぇ!」
嘆息とともに空を仰ぎ、はぐれウサギは言葉を続ける。
「わたしはてっきり偶然だと思っていたよ! 仲間達が旅を終え倒れるのも、あなたがここにいることも、そして―――」
きらり、と紅い瞳が夜の中で輝いた。ウサギの死神は、一瞬だけ眉根を寄せた。そんな目の輝きを見せた後、大抵この食わせ者は突拍子も無い事を言うから。
その逡巡こそが引っ掛けだったのか、またはぐれ者は宙を飛んだ。ひらりと死神のすぐ側まで辿り着き、再びキスをするぐらいに顔を近づけて―――にぃと歪んだ笑顔のまま、こう囁いた。
「わたしが絶対にあなたに取られないのも、ね」
一瞬、四つ二対の紅い瞳が絡み。閉じられたのは、死神の瞳の方だった。
そして死神は―――ぱくり、と口の前に差し出された花を、含んだ。
「!」
ほんの少しだけはぐれ者は驚くが、動かない。
そのまま、花はじわじわとその美しさを失い、ほろほろと花弁を落とし、しゅるしゅると枯れ縮んで―――
つと、唇が離れた。
「お前も同じだ、エル・アライラー」
色褪せた花弁を吐き出して、死神は本当に珍しくはぐれ者の名前を呼んだ。
「お前は英雄でもなければ神でもない」
「そのつもりだけれど?」
「ならば、私はお前を取るだろう」
「それはいつだい?」
「いつか必ず」
「解らないいつかなんて本当に来るのかい?」
「いつか必ず、だ」
揶揄のような問いに、不動の答えを返し。
最早興味は失せたというように、ひらりと死神は身を翻す。
一瞬視界を黒い外套で奪われた、と思った次の瞬間には、その姿はどこにも存在しなかった。
「――――やれやれ」
一人残されたはぐれ者―――或いはウサギ達の英雄、エル・アライラーは、呆れたような困ったような、それでも不敵な笑顔で今にも消えそうな月を振り仰いだ。
「そうはいかないよ、インレの黒ウサギ殿」
彼も珍しく、かの死神の名前を呼んで。
「だってそうしたら、あなたはわたしのことすら忘れてしまうじゃないか!」
ずっと焦がれるつれなき相手に、届くはずもない愛の告白をした。