時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

Don't cry.

この世で一番大切な女性を失った時、自分は泣いた。
不覚にもその姿をあいつに見られた。
別に意趣返しをするわけではなかったけれど。





「…お前は泣かないのか」
果ても当ても無く広がる草原を歩く二人の剣士のうち、青い外套を羽織った青年が相手に不意に問うた。反帝国の狼煙を上げ、自分達の砦が見事に落とされて、現在絶賛放浪亡中の男達は、しかしそんな追い詰められた風など全く見せず、のどかに歩を進めていた。
「あん? …あー」
鼻歌交じりに歩いていて唐突にそう問われた、青い外套の青年よりも二回りぐらい筋骨隆々な男は、最初その思惑が判らなかったらしく首を傾げてから、漸く思い至ったのか溜息ともつかない声を上げて、軽く笑った。
「まぁ確かに、腹が立たないっちゃあ嘘になるが。あいつがあの道を進んでいった結果だ、俺がとやかく言うことじゃあるまい」
逃亡の途中で、風の噂が耳に飛び込んだ。曰く、ミューズ市長アナベルが、何者かに暗殺されたと。
巨大な剣を軽々と肩に担ぎ自分の少し前を歩いていく彼とその女性が、浅からぬ関係であったことをフリックは知っている。
「そうだけど、いや、そういうんじゃなくって―――」
あまり感情の揺らぎを見せない相手の声が腹立たしくて、フリックは言葉を探しあぐねる。何だよ、とビクトールは振り向いてまた笑った。
「ほれ、急ごうぜ。今日中にどうにか国境までは辿り着きたいな」
勢いに任せて餓鬼臭くなった物言いを更にからかわれるかと思ったら、意外にもあっさりと相手は踵を返して引いた。それにより、フリックの中の違和感が大きくなる。いつもならもっと自分に絡んできて、愚痴と嫌味のやり合いになるのに。
本当に、何事も無かったかのように振舞っているけれど。やはり―――――
考えを巡らせて、フリックの形の良い眉の間に谷が出来た。ビクトールは単純で開けっ広げに見えて、その実自分の本音を隠すのが頗る上手い。だから今もきっと、我慢している。そのことに気づいてしまった。
「っ………ビクトールっ!!」
考える前に、強くその名を呼んでいた。同時に自分の外套の留め金に手をかけてそれを外す。
「どうした、フリッ…ぶぉあ!?」
ばさぁっ!!という音と共に、ビクトールの視界が青一色に染まる。相棒フリックの通り名「青雷」に相応しい、彼の真っ青な外套が自分の頭を覆っていたのだ。
「ぐわぁー! 汗臭ぇえ!!!」
「お前のよりは数百倍マシだ! 少し被ってろ!!」
「冗談じゃねぇ、なんで―――」
前にうっかり着たきり雀のビクトールのシャツをいい加減洗えと剥いで、その何ともいえぬ体臭に危うく気をやりかけた経験のあるフリックは本気で叫ぶ。結構質量のあるマントからどうにか抜け出そうとビクトールはじたばたもがいている。その様を見て、フリックはすうっと息を吸い直す。
「…違うだろう! 少なくともお前はあの時そう言った!」
「…………?」
青い幕に包まれたまま暴れていた体が止まった。フリックは気まずげにそこから視線を外して、それでも言葉を紡ぐ。
「…オデッサが死んだ時! …お前は俺に、違うって言っただろう…!」
「…!」
僅かに、息を呑むような音が聞こえた。





フリックが、憧れであり恋人であり同志である彼女を喪った時。彼は泣くまいと決めた。そんな女々しいことをオデッサが望むわけが無いし、そんなことをしている暇があるのなら彼女の理想を貫くべきだと。
感情を押し殺して必死に胸を張ろうとするフリックに、ビクトールは半ば脅すようにそれを諌めた。
『馬鹿野郎。その前にお前がどうしたいか考えろよ。どう動くかはその後でいい』
必死に喉の奥から浮き上がるものを飲み込んでいたフリックの頭を、まるで子供相手のようにぽんぽんと叩いて。
『泣きたいときは思いっきり泣いとけ。その間ぐらいだったら俺が、誰にも邪魔させねぇ』
そんなことを言って、後は後ろを向いて一度もフリックの顔を見なかった。
きっと、後ろから聞こえる微かな嗚咽が完全に収まるまで。





だから、今。
フリックは自分の外套の上から、自分より僅かに上にある頭であろう場所を平手で結構強く叩き、同じ言葉を伝えた。
「俺はお前に守られっぱなしでいるつもりは無い。借りを返させろ、こんな時ぐらいは頼れ!」
存外あたりに響いたその声が、空気の中に散っていったその時。
「…………悪いな」
本当に小さく、ビクトールの声が聞こえた。
その語尾がほんの僅か震えた事に気づき、自分で促しておきながらフリックはどぎまぎとして慌てて背を向ける。
小さな声が、後ろから聞こえてくる。小川のせせらぎかもしれないし、草原の草葉の音かもしれない。
―――もしかしたら、彼の嗚咽かもしれなかったけれど、勿論それを確かめるつもりはなかった。
だから黙ったまま、背中でその音を聞いていた。
もう二度と思い出してはいけないだろうけれど、忘れないと誓った。





音が完全に聞こえなくなった後。急になにやら気恥ずかしくなり、ふ、と小さく息を吐いてゆっくり歩き出そうとしたその時、
ばふっ。
「う、わ!?」
いきなり上から青い幕が降ってきて、慌てた拍子に耳元で声が聞こえた。
「ありがとよ」
ほんの小さな言葉だったけれど、心臓がどくりと音を返した。
「ほれ、何ぼさっとしてんだ! どんどん行くぞ!」
我に返った時には、ビクトールはいつも通り拳を振り上げ、早足でフリックを追い抜いていってしまう。
「っ待てこら、お前が先行するといつもロクなことがない…!」
慌てて外套を羽織り直し、フリックも駆け足で後に続く。
3年前、ひょんなことから始まった腐れ縁が、どこまで続くのかは果たして判らないけれど。
「…冗談じゃない」
我知らず呟いて、フリックはビクトールの背中を追う。
こんな付き合いが何十年続こうと構わないが、いつまでも背中しか見えないのは腹が立って仕方ない。
仮にも相棒を名乗るのなら、横に立って歩くべきだろう。
だからフリックは足を速めて、その背中に追いついた。