時計+人形

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迷い子

ゆらゆらと、床が揺れているのが解る。
決して自分が酔っ払っているわけではなく、床自体が本当に揺れているのだ。何故ならここは船の中の一室であり、その船は現在航行中だからだ。
最初は戸惑ったが、今では揺れるランプを頼りに読書が出来るほどに慣れてしまった。
嘗て自分が所属していた派閥から持ち出した難解な書物を紐解きながら、ヤードは眉間に皺を寄せていた。
苛立ち―――否、不安と言い換えても良い。これから自分の行うことは、とても成功するとは思えない。自分が逆らおうとも考えなかった、あの恐ろしき派閥の企てを止めるのだ。
自分は、奴等に一矢報いられるのなら命など要らない。だが、その命を救って貰った海賊達に、更に余計な迷惑をかけてしまっている―――それが誠実なヤードを苦しめていた。
最早文字も追わず、思索に耽っていたヤードは、不意にぎし、と座っていたベッドが軋んで瞠目した。間髪要れず、とさり、と僅かな体重が背中にかかった。
「…スカーレル!」
「やっと気づいた?」
首だけ振り向いて諌めると、背中に頬を預けたまま悪戯っぽい笑顔で返された。夜もふけてきて大声でこれ以上怒鳴るわけにもいかず、ヤードは溜息を吐くことしか出来なかった。
「脅かさないでください…悪趣味な」
「あら、アタシノックはちゃんとしたわよ? アンタが気づかなかっただけじゃない」
「え」
背中に横から寄りかかった妙な体勢の幼馴染からの指摘に、ヤードは目を瞬かせた。…全く記憶にない。そこまで意識を飛ばしていたのかと恥かしくなる。
ばつが悪そうに目を逸らしたヤードに、スカーレルはあははは、と笑い声をあげた。
「ま、気にすることないわよ。足音立てないのも気配消すのも、癖になっちゃってるから」
「スカーレル…」
笑い混じりで淡々と紡がれた事実に、ヤードの眉間にまた皺が寄った。先刻とは違い、今の原因は―――慙愧の念であったけれど。
自分達が、引き離されてから。
たとえ窮屈で、冷たい組織の中で生きてきたとしても、ヤードの生活はそう大変なものでは無かった。幸い自分には召喚術の才能があったらしく、派閥の中枢である召喚師の下につき、それなりに不自由のない生活が送れた。―――その召喚師こそが、自分達の村を滅ぼした張本人だと気づいた時には、そんなのうのうとした自分に唾を吐きかけてやりたくなったけれど。
そして、スカーレルの方は――――
むにゅ。
「っ、スカーレル?」
「眉間のシ・ワ。寄ってるわよ」
綺麗に爪の手入れのされた細い指で、眉毛の間を伸ばされた。その指を見る限り、それが嘗て血に塗れていたなどとはとても信じられないのに。
思わずヤードはその手を取り、握り締めた。
「ヤード?」
僅かに戸惑った相手の声に構わず両手で包み込み、まるで祈りを捧げるかのように額に押し戴いた。
「私が…唯々諾々と生きていた時に―――貴方は」
遣り切れなかった。再会した時に、子供の頃とのあまりの変わり様に驚愕したのは確かだけれど。それは、彼がここまで変わらなければ生きてこれなかったということで。
と、自分の両手の上にそっと、もう一つ手が重ねあわされた。はっと目を開けると、困ったような、それでも優しい笑顔がそこにあった。
「…馬鹿ね。アタシもアンタも、こうしなけりゃ生きられなかった。ただ、それだけでしょう?」
「ですがっ…!」
首を振り、尚も言葉を紡ごうとすると、抱き寄せられた。
「ホント、馬鹿ね…? そういうとこ、子供の頃から変わってないんだから」
思ったより強い力で頭を抱き込まれて振り解けない。焦っていると、本当に子供をあやすように、ゆっくりと頭を撫でられた。
「アンタが気に病む必要なんてない…大丈夫よ、きっと上手くいくから」
耳元で囁かれる言葉が優しすぎて、涙が出そうになった。
「貴方こそ、変わっていない…」
抱きしめられたままそう呟くと、一瞬だけ肩が緊張したように感じた。
「貴方は優し過ぎる…いつも私はそれに甘えてしまう…!」
自分よりも一回り薄い背に手を伸ばし、抱きしめ返した。困ったように捩る身体を許さずに、強く強く。
「………もう。本当に、馬鹿なんだから」
やがて、呆れているのにやはり優しい声がかけられても、ヤードはその身体を抱きしめ続けた。





太陽が昇るまで。
帰る場所を失った迷い子が二人、道を探し続けている。