時計+人形

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His back.

サイジェントの王宮、薄暗い廊下を、真っ直ぐ前を見詰めて去っていく背中を覚えている。
どんなに手を伸ばしても届かず、いくら叫んでも止まらなかった、その背中を。
ああ―――思えば自分はずっと、彼の背中を追っていたのだと、今更ながらに気がついた。





瞼に光の圧力がかかって、レイドは意識を覚醒させた。次に耳に入ってくるのは、朝を祝福する小鳥の鳴き声と僅かな衣擦れの音。
離れがたい両の瞼を無理矢理広げると、ベッドの縁に腰掛けて身支度を整えている、敬愛する先輩の広い背中が見えた。
筋骨隆々、と表記するに相応しいその体躯には、無数の傷がついている。それは彼が数多の戦場を駆け抜けてきた証。…それの合間合間に、自分が夕べつけた情痕を見つけると、気恥ずかしさと同時に優越感が頭を擡げる。
強き肉体と信念を持ち、誰に迎合するでもなく自分の道を歩める男。そんな彼が、自分がその肌に触れることを許していてくれるという事実だけで、舞い上がれてしまう。
無意識に息を殺し身体を持ち上げると、彼の死角である左側の背中から近づいてそっと腰に手を回す。勿論人の気配に聡い彼が気付かない筈は無いのだが、全く抵抗せず弛緩していると解る筋肉の感触が、自分が彼に許されていることを感じさせて嬉しさに顔が綻ぶ。
シャツを羽織りかけていた首筋に顔を埋めると、「こら」と低い声が耳朶を打った。構わずに緩く舌を這わせてから軽く噛むと、ひくりと筋肉が震える。
「…まだ足りないのかお前は。餓鬼ではあるまいし」
「すみません…」
謝るが、行為を止めようとはしない。肩から背中に唇を動かすと、流石に危険を感じたのか無理矢理引き剥がされた。
悔しいが、どう足掻いても力では勝てない。…どんなものでも、勝てたためしなど無いのだが。
いくらここがフラットの自室ではなく、アキュートの元アジトであるラムダの部屋だといっても、いい加減身支度を整えなければ騎士副団長と同軍事顧問としての沽券に関わる。
それでも―――離れがたかった。
腕を解き、物思いに耽ってしまったレイドの意識を、振り向いたラムダの眼光が引き摺り上げた。視力を持つのは片目だけだが、だからこそなのか揺らがぬ光を宿している。どんなに出会ってからの年数が経っても、こんな目で見られると騎士見習い時代、稽古をつけて貰っていた事を思い出してしまい、逆らう事が出来なくなる。
「…如何した。何があった」
言い訳や誤魔化しを許さないと言外に語る低い声に、レイドは大人しく降参した。
「――嫌な夢を見ました」
「本当に餓鬼か」
呆れたように息を吐くラムダに全く、と自嘲しつつ、続ける。
「貴方が去っていく夢と。貴方に俺が剣を向ける夢を」
「――――…」
一度目は、立つ位置の別離。自分を庇った為に彼は、騎士としての地位を失い自分達の元から去っていった。
二度目は、信念の錯綜。守りたいものは同じはずなのに――――如何に守るかという一点において、悲しいほどに擦れ違った。
その決別があったからこそ、今共に在る事ができる。それは理解しているのだから、後悔等していない、するはずもないが―――愛しき相手に守る為の刃を向けてしまったという事実が、未だにレイドの心臓を責め苛んでいた。
そんなレイドの葛藤が、彼の一番の魅力である優しさである事を勿論ラムダは知っていた。なので、俯いたせいで顔にかかったレイドの横髪をするりと掬い上げ、相手が顔を上げた隙に頬に触れるだけの口付けをした。驚きに目を見開き固まってしまった後輩の顔に少し笑い、
「…お前に見せたい訳でも、斬り付けられたいわけでもない…俺の背中は、お前に預ける為に存在する」
無骨ながらも、その言葉は精一杯の愛の告白のようだった。
流石に気恥ずかしかったのか、改めて立ち上がろうとするラムダの腕が、強い力で引き摺られる。完全に隙を突かれたラムダは抵抗できず、寝台の上に思い切り弾んで落ちる。体勢を立て直す前に、しっかりと抱きしめられた。
「…先、輩」
肩口に埋められた唇から、震えた吐息が漏れた。溢れ出そうな歓喜を必死に抑えているその声が、酷く心地良かった。
「…貴方と共に居て、良いですか」
「…今更、聞くな」
「では、訂正します。共に、居させて下さい」
ああ、と漏れた吐息は、肯定か安堵か解らない。それが漏れるか漏れないかのうちに、唇を塞いでしまったから。
「………、こ、ら」
強引ではないが、口の中を思う様蹂躙していく舌をどうにか振りほどくが、背中に回った腕は緩まない。そのままレイドの唇が首筋から喉仏を撫で、ひくりとラムダの腹筋が痙攣する。
「貴様、いい加減、にっ」
「…まだ時間はありますよ」
「最後まで…する気か」
「まさか」
ただ貴方に触れたいだけです。耳元でそう囁かれて、ぞくりと背中が疼いた。触れる指も舌も決して情愛の篭った深いものでなく、ただ触れて安らぎを与える柔らかいもので。その心地良さに張り詰めていた意識がとろとろと緩められてしまう。
不本意この上ない、という思いを眉間の皺に込めながらも、ゆっくりとラムダの太い腕が背に回るのにレイドは微笑み、もう一度深い口付けを交わそうとして――――
だんだんだん。
『うぉーい、ラムダの旦那ぁ。レイドの旦那も、とっとと起きろや。騎士団長様が迎えに来たぜぇー』
「「!」」
どごっ!!
「ぐっ!!」
無遠慮なノックと共に聞こえてきたスタウトの声に、二人の不摂生な騎士は同時に我に返った。間髪居れず、断頭の剣戟を誇る豪腕が、レイドの米神に容赦なく打ち振られた。
「…今、行く」
短く答を返し、気配が遠ざかっていくのを確認しながら、乱されていた着衣を素早く着直す。痛みに呻きながら、必死にリプシーを呼んで傷を癒している後輩の姿を立ったまま見下ろし、
「早く支度をしろ。―――行くぞ」
そう言って踵を返した背中はあの時と同じ広さなのに、ちゃんと自分を待っていてくれる。
その事に気付き、レイドは浮き足立つ心を抑えながら慌てて身支度を始めた。