時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

ネクストタイム?

凛は、必死に「目」を凝らしていた。
目の前に翳しているのは、輪郭だけ見れば無骨と取れる一本の剣。否、剣と呼ぶには余りにも刀身が太く、およそ「斬る」為には全く役に立たないのではないかと思われるそれ。
しかしそれが、黒髪の麗しい、顔立ちの整った娘の手の中にあって、少しも彼女自身の美観を損ねることが無いのは、偏にその刀身が美しい宝石で出来ている為であった。
透き通り、或いは虹色の虹彩を湛えるその石は、まるで刀身を巨大な宝石から削り出したというよりも、深い地の底でこの形そのままに形作られたのではないかと思えるほどに超然と、ありのままにそこに在った。
彼女はその中に、ひたすらに何かを探していた。注意深く、神経を集中させて、決して僅かな差異も見逃さないように――――
「――――見つけた」
やがて、彼女はそう呟いた。
イメージは紅い泉。じわり、と石の中に僅かに浮かび上がってくるそれを、決して逃さず、しかし漏らさず、ゆっくりと石を器に見立てて満たしていく。一瞬でも隙を見せれば、それは莫大な奔流となって自分を穿ってしまうだろう。額にじわりと汗が浮かぶが、構わずにその作業を続けた。
やがて万華鏡の如し輝きが、完全に紅い光で満たされるぎりぎりのラインで、彼女は集中を解いた。素早く繋がっていた扉を閉め、全ての接続を切断した。
「―――っはぁ…!」
その瞬間、ぺたんと凛は石造りの床にしゃがみこむ。大きく息を吐き、肩を揺らして蹲り、それでもその口元に満足げな笑みを浮かべて、そのまま長い髪を流してごろんと床に寝そべった。
「満たしたか。こんなにも早くそれを使いこなすとは、流石よの」
気付けば、凛の頭の上、何時の間にか人影が在る。何の誇張表現でもなく、突然現れたのだ。立派な髭を蓄えた口から漏れる言葉はそれなりに彼女を誉めているようなのだが、その声は闇を固めて吐き出したように重い。しかし彼女も目の前の老爺のこういった喋り方には既に慣れていたので、寝そべったままの無作法を先に詫びてからはい、と素直に返事をした。
「…思ってたよりも早く出来ました。これだけあれば充分だと思います」
ゆっくりと身体を起こし、しっかりと握ったままだった宝石の剣を軽く掲げる。その刀身は既に紅い光を失っていたが、その中にはとても一介の魔術師が練り出せるとは思えぬ程の魔力が満ち満ちていた。
「否。あの忌まわしき杯にはまだとても届かぬぞ。逸る気持ちは解らなくも無いが、もう少し我慢せい」
老魔術師はほんの僅かだけ眉間の皺を深くして、まだ年若い唯一の弟子を諌めた。
宝石の剣には沢山の銘があった。或いは万華鏡―カレイドスコープ―、またの名をゼルレッチ。平行世界の垣根を自在に飛び越える唯一の魔術師、キシュア=ゼルレッチ=シュバインオーグ…即ちこの老翁の名を戴いた、空間を超越した魔術武器。
本来人間に扱いは困難とされる空間に満ちた魔力=マナを集積するだけでなく、持ち主と同じように同時間軸にある別の空間からもそれを可能にした、魔術師にとっては殆ど御伽噺のような常識外れのそれを、彼女はなんの躊躇いも無く軽く持ち直して首を横に振った。
「いいえ、これでもう充分です。呼び出したいのはたった一体ですから、単純計算で七分の一はもう貯まってます」
あっさりと言っているが、前述の通り並の魔術師ではとても操れる筈の無い代物なのだ。それをこれだけ操れる彼女の魔術師としての実力が如何程であるか、推して知るべし。
「ふむ。では一つ問おう」
「はい」
自分の遠いご先祖様にして師父の言葉に、凛は立ち上がって居住まいを正した。
「お前がこれから行うことは、全ての理に逆らう事。成功するかせなんだか、それは儂の眼を持ってしても見通せぬ。それでもお前はそれを振るえるか?」
凛は一度だけ手の中の剣に視線を落とし、すぐに顔を持ち上げて―――にっこり、と笑った。
気が遠くなるような年月を生きてきた老魔術師でさえも、一瞬その眼を奪われてしまう程の、それは凄く―――透明な笑顔だった。
「師父。わたしは魔術師です。全く可能性の無いことでしたら、わざわざリスクを犯してまで行うことはしません。ですが、ほんの僅かでも可能性があることなら―――どんなに分の悪い賭けでも、わたしは乗ります」
それは彼女が、全てを合理的に結論できる魔術師としてではなく、独りの人間として結論付けた答えだった。
「剛毅よの」
老魔術師はほんの少しだけ目を細めてそう言った。もしかしたら笑ったのかもしれない。
「この工房は好きにするが良い。後は任せた」
それだけ言って、空間の揺らぎすら起こさず人影は掻き消えた。ふうと息を吐き、凛はまたぺたんと冷たい床の上に腰を降ろした。やはり師父を目の前にすると緊張する。卓越した魔術師の上、不死を手に入れた真祖―――所謂吸血鬼でもある怪翁だ。本来なら自分のような若輩者が、おいそれと口を聞ける存在ではないのだ。
それでも。
彼がどんな思惑を持って自分を弟子に迎えたのか―――恐らく退屈しのぎ以外の何物でもないのだろうとは思うけれど―――凛は、感謝する。自分が生きているうちには不可能ではないかという魔力の収集が、ものの数年で終わってしまったのだから。
床に描かれた流動の魔方陣の真中に寝転び、凛は静かに目を閉じる。
自分の魔力が最も満ちる時間まで、回復を優先させることにした。





文様を書く画材はやはり、宝石を溶かしたもの。これも殆ど師父に借りてしまった。更に以前自分が使ったものより格段上質のものばかり。これで向こう一生師父の小間使いに命じられそうだが、それでも後悔は無かった。
急ぎたかった、出来るだけ。感傷ではない、記憶が磨耗してしまうことを恐れたのだ。自分と、彼との。
ようやく完成した魔方陣の上に立ち、ゼルレッチを掲げる。
「素に銀と鉄。 礎に石と契約の大公。 祖には我が大師シュバインオーグ。 降り立つ風には壁を。 四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ」
呪文に深い意味は無い。只自分自身を納得させ、集中を高める暗示のようなもの。
「閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。 繰り返すつどに五度。 ただ、満たされる刻を破却する―――――――――Anfang(セット)」
ぴん、と空気が弾けたような音がする。目を閉じ、身体を改変させて行く。
「――――告げる。汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。万華鏡の寄るべに従い、この意、この理に従え」
以前より、若干呪文をアレンジ。拠り所も違えば在り様も違うこの地に、無理矢理彼を顕現させる為。
「誓いを此処に」
ぢくりと腕が痛む。浮かび上がってくるその聖痕を押さえつける。
「我は抑止の円環に抗いしもの」
これは必要ない。彼を縛ってはいけない。
「我は天秤を覆しもの」
きっと師父にばれれば怒られる前に呆れられるだろうが、構わない。
「汝三大の言霊を纏う七天」
自分の為に、唯一の望みすら捨てて、その片腕を失った英霊よ。
「抑止の輪より来たれ」
さぁ、早く、早く、早く。
「天秤の守り手よ―――!」
ここに来て―――――――――――――――――――――!!








扉が開いた。
と思った瞬間、物凄い圧力が自分に襲い掛かってきた。
根源に触れたものを処罰する為の、死刑執行人がやってくる。
凛は――――なんの躊躇いも無く、構えていた宝石剣を降ろし、眼を閉じた。




ガギンッ!!




床に叩きつけられて、一瞬息が出来なくなったけれど、それでも凛は笑っていた。
何故なら―――――


自分の顔の横、ぎりぎりに突き刺さっていたのは陰陽剣の片割れ。


「駄目じゃない。それ、一本だけ振るっても何の威力も無いわ」


片腕だけの姿を忠実に再現したのは自分の癖に、そんな意地悪を言ってみる。
勝算はあった。
出来得る限り、磨耗していない在りし日の彼の姿をここに顕現させれば。
「り、ん」
引き攣れるような音と共に、ぽたりと頬に水が落ちてきた。

―――ほら、やっぱり。

頚木など何も無く、自分をまた絶望に顕現させた忌まわしき召喚者を殺しに来たとしても。
「何故、君が――――」
掠れた声は、最後の時と寸分違わぬ音をしていて、危うくこちらの涙腺も緩くなりかけたけれど。

―――わたしのアーチャーが、わたしを殺す筈が無い。

どれだけ無茶な手段だったとしても、どれだけ勝算が無かったとしても。
彼を全ての檻から解放させるには、これしか方法が無かったのだから。
顔を見られるのは少し癪だったので、自分に覆い被さったまま動けずにいる不届き者の頭を腕を伸ばして抱き締めた。
「―――野暮な挨拶は止めましょう。ねぇ、アーチャー?」
耳元で囁くと、初めて聞く嗚咽が返って来たので聞かない振りをした。




「――――――今度はどうする?」