時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

Rot Edelstein.

――――無様だ。

それを最初に見つけたとき浮かんだ感情は、どうしようもない程の侮蔑だった。
槍持つ騎士と学校にて対峙し、危うく必殺の一撃を喰らいそうになった時に現れた乱入者。それはあっさりと、青い槍騎士の犠牲となり、暗い廊下のタイルに血溜まりをぶちまけて倒れ伏していた。
当然といえば当然。ただの人間が、サーヴァントという器を手に入れた英霊に敵う筈も無い。
しかしそれが、衛宮士郎という名前の人間であったという事が、限りなく腹立たしい。
何故、と問う余地も無い。この愚者は、何の得にもならない善行をして家にも帰らず学校に留まっていたに違いあるまい。そして好奇心のみで動き、こんな死に様を晒す羽目になったのだ。
カンカンカン、と後ろから軽く早い足音が近づいてくる。見せたくは無かったが、隠す事は彼女に対する無礼になる。黙って僅かに身を脇に逸らせ、自分の主を促した。
彼女はすぐに足を止め、暗がりでも解るほど顔を青褪めさせていた。恐怖ではない。死に体如きで臆するなど魔術師ではない。―――怒りだ。どうしようもないほどの。
「只の一般人」を不可抗力と言えど巻き込み死なせてしまった事実。それは彼女の魔術師としてのルールを粉粉に打ち砕いてしまったのだろう。
「……追って、アーチャー。ランサーはマスターの所に戻るはず。せめて相手の顔ぐらい把握しないと、割が合わない」
驚くほど感情を押し殺した主の命令が響いた。何か言おうとして、何も言う資格が無いことに気付き、黙って身を翻した。



暫く夜の空を飛んでいったものの、相手の痕跡は発見出来なかった。
推測の域を出ないが、あの相手は恐らく最速を誇る半神半人の騎士。本気で逃げられれば、元人間の自分が追いつくことは出来まい。
手近な家の屋根の上に立って一つ息を吐き、踵を返す。恐らくもう、主は家に戻っているだろう。直ぐに戻って報告し、今後の検討をするべきだ。それなのに自分の足は、自然にかの学舎へ向かっていた。
「―――――む」
校舎の近くまで来て、知らず声を漏らした。辺りに漂う強烈な魔力の残滓に。
それは、自分が稼動する為に与えられた魔力と同じ波長―――即ち、主の魔力に相違ない。何か戦いがあったのかと一瞬肝を冷やすが、それにしては少しおかしい。
何故なら―――、いくら自分の主が魔術師として優れているとしても、これほどまで露骨な残滓が残る魔術を彼女が使えるとは思いがたい。
それほどまでにこの残り香は―――出鱈目な程きつかった。
違和感を払拭する為に、恐らく残存する魔力が一番多い場所へ爪先を向かわせ。
「―――――――」
絶句した。
暗い廊下にだらしなく寝転んだ身体も、辺り一面に広がる血溜まりもそのままなのに。
命の灯が消えたはずのその身体は、見間違いかと思えるほど微かにだったが―――胸が上下していた。
何故か、と問う暇も無かった。その男にしては貧弱な胸の上に、酷く不似合いな、シンプルな作りだが大きな石の、首飾りが落ちていた。知らずのうちに、自分の懐を服の上から握り締める。
―――それは。その石、は。
紛れも無く、自分の主が首から下げていた魔術道具。ただそれだけしか認識していなかったそれが、膨大な魔力というベールが剥がれ落ちている事によって、不意に何かを「思い出した」。
震える指で、恐る恐るという形容が似合うほど緩慢な動きで、自分の懐を探る。取り出したのは、今目の前にある石と寸分違わぬ首飾り。唯一の違いは、落ちているものにはほんの僅かだけ魔力が内包されているのに、自分の持っているものは完全に空、一欠片の魔力も残っていない事だけだった。
「―――凛」
震える唇が、自然と言葉を紡いだ。自責と情愛が同じ分量だけ、一気に内心を席巻した。
「君、なのか」
既に自分にとって何の役にも立たなかったそれ。それなのにいつも、自分はこれを持っていた。何の為の物なのか、誰の持ち物だったのか、そんな事すら考える事をしなくなったぐらいに遥か昔から――――只、手放してはいけないと、それだけを思っていた。
嗚呼。彼女のものだから、彼女、だから――――。
「ッ!!」
もどかしげに一度だけ、掌に収まるその石に口付け。
何かを振り切るように、空に飛んだ。今なら積年の自分の願いを叶えられる事も、その願いを一度自分の主が潰してしまった事も、もう省みなかった。
只ひたすら、主の待つ家に急いだ。




「お帰りなさい。成果はどう?」
主は、自分の家のソファの上に力なく座っていた。自分の適性とは合わない術を、貯蔵魔力だけで無理矢理使った反動なのか、それとも―――只、落ち込んでいるだけか。
「…すまない、失敗した」
聞きたくなる衝動を押しつぶし、淡々と報告だけをした。主は「そう。ま、そう簡単にはいかないわよね」と軽く頷くだけで、再び何某かの物思いに耽る。
「覇気がないなマスター。いつもの威勢はどうした。まさか先の一戦で怖気づいた、というのはなしだぞ。君が命じるのなら、今すぐにでもランサーとの再戦に赴いてもいい」
鼓舞するつもりの言葉だった。こんな煽る言い方をすれば、きっと彼女は声を荒げ歯向かってくるだろうと思い。
しかし、予想は裏切られた。主は一瞬、ぱちくりと瞳を動かし、ああ違う違う、とでも言う風に首を左右に振って自分の過ちを正した。
「そんな訳ないでしょう。わたしが打って出ないのはね、単に無駄手間をしたくないだけなんだから」
「む? 無駄手間をしたくない…?」
意味が理解できず、鸚鵡返しをした。そんなことも解らないのとばかりに貶されるかと思いきや、主は冷静且つあっさりと答えを返してきた。
「だってまだマスターの数が揃ってないでしょ。今夜のは止むなしだったけど、開戦の合図があるまでは戦わないわ。それが聖杯戦争のルールだって父さんは言ってたし」
「……そうか。君の父親もマスターだったのか」
納得した。何故、魔術師としてはあまりにも年若い彼女がここまで、自分が理想とするほどのマスターとして両足で立てているのかを。
ひたりと自分の従者に視線を合わせ、きっぱりと言い切るその姿には微塵の迷いも無い。過酷で、出鱈目で、無意味なほどに残酷なこの戦争を、彼女は心底から勝ち抜くつもりでいる。
頼もしい、と同時に痛々しい、と感じた。そんなことを悟らせれば、今度は令呪で庭の草むしりでもやらされるかもしれないが。
眉間に皺を寄せた自分をどう思ったのか、彼女は尋ね返してきた。
「なによ。何か言いたいコトでもあるの、アンタ」
「ああ、一つ聞き忘れていた。凛、君は幼い頃からマスターになるべく育てられ、それに従ってきたのだろう? つまり、初めからマスターになる事を予想していた訳だ」
「当たり前じゃない。そりゃあいきなりマスターに任命される魔術師もいるそうだけど、わたしは別よ。遠坂の人間にとって、聖杯戦争は何代も前からの悲願なんだから」
「そうだろう。つまり初めからマスターになるべく育ってきた君ならば、目的がとうにある筈だ」
忘れていた。あって当然の事実を確認することを。
自分の唯一の願いを叶える事は、諦めきれないけれど。
それ以上に自分は、彼女の願いを叶える為に邁進しなければならない。それは勿論、自分が彼女のサーヴァントだからというだけではない。それだけの理由が―――自分にはあるから。
しかし、その期待はまたしてもあっさり裏切られた。
「―――凛。それで、君の願いとは何だ」
「願い? そんなの、別にないけど」
「――――なに?」
恐らく、自分はとんでもない間抜けな顔をしたのだと思う。凛の唇が驚きに僅かに開き、その後堪えきれないというように端が緩んだから。
「そ、そんな筈はあるまい! 聖杯とは願いを叶える万能の杯だ。マスターになるという事は聖杯を手に入れるという事。だというのに、叶える願いがないとはどういう事だ…!」
こちらが慌てるのと対称的に、主はきょとんとした顔でこちらを見ている。滅多に見ることの出来ないそのどこか子供っぽい顔は貴重だと思ったが、今はそれ所ではない。
何故なら、もし願いが無いのなら――――
「よし、よしんば明確な望みがないのであらば、漠然とした願いはどうだ。例えば、世界を手にするといった風な」
また一つ、角度を変えて質問を投げてみる。もし本当にそんな事を望むのなら、大手を振って軽視することも出来た―――そんな事がある筈無いと解っていたし、何より自分はまだ彼女を甘く見ていたことが、すぐその後の返事で明かになったが。
「なんで? 世界なんてとっくにわたしの物じゃない」
「―――――――」
完全に。喉から言葉が出なくなった。
「あのね、アーチャー。世界ってのはつまり、自分を中心とした価値観でしょ?そんなものは生まれた時からわたしの物よ。そんな世界を支配しろっていうんなら、わたしはとっくに世界を支配しているわ」
「馬鹿な。聖杯とは望みを叶える力、現実の世界を手に出来る力だぞ。それを求めるというのに何も望まないというのか、君は」
「だって世界征服も面倒くさいし、そんな無駄なことを願っても仕方が無いでしょう。貴方、わりと想像力が貧困ね」
「……」
仮にも投影の魔術を極めた者に対するあんまりな評価だったが、そこは堪える。
「理解に苦しむな。それでは何の為に戦う」
何か明確な目的が欲しい。そうでなければ自分はすぐに、自らの本懐を遂げてしまう。
―――――君を、哀しませることになっても。
浅ましい未練を脳味噌の中でぐるぐると回していると、不意にひたりと視線が合った。
まさしく彼女に相応しい、凛とした輝きがその瞳の奥に灯っていた。
「そこに戦いがあるからよ、アーチャー。ついでに貰える物は貰っておく。聖杯がなんだかは知らないけど、いずれ欲しいものが出来たら使えば良いだけでしょう? 人間、生きていれば欲しい物なんて限りないんだし」
見栄も誤魔化しも無い、素直な答えだった。少なくとも―――彼女が本気でこの台詞を言ったことは、嫌でも理解した。
「―――つまり、君は」
「ええ。ただ勝つ為に戦うの、アーチャー」
肩の力が抜けた。
負けた、と思った。否、それは間違いだ。
最初から勝てる筈が無かったのだ、だって彼女は――――
「……まいった。確かに君は、私のマスターに相応しい」
何と強く、勇ましく、真摯だろうか。
そう、こんな彼女だから。
嘗ての愚かな自分はあんなにも、憧れたのだ。
だからこそ今――――自分はここに存在するのだ。
「…ふん。サーヴァントにマスターを選ぶ権利はないけど、一応訊いとく。何で私が貴方のマスターに相応しいのよ」
どこか拗ねたような早口で主に尋ねられ、自分の口元に酷く自然に笑みが浮かんだのが解った。
「言うまでもない。君は間違いなく最強のマスターだ。仕える相手としてこれ以上の者はない」
「そ、ありがと。貴方に言われるなら世辞って訳じゃなさそうだし」
ぷい、と強い視線が逸らされて、少しだけ残念に思った。その仕草はとても愛しいものだったから、笑みは収まらなかったけれど。
「さて、ならば一息入れようか。七人目のマスターが現れるにせよ、それは今すぐという訳でも……」
言葉が詰まった。彼女の服装に対する僅かな違和感。それに連動し、つい先刻の衝撃を思い出してしまった。
「…と、ちょっと待て凛。君、あの飾りはどうした」
我慢できず、何気ない振りをして、石のことを尋ねた。
「飾りって、ペンダントの事? ……ああ、アレなら忘れてきちゃった。もう何の力もない物だし、別に必要ないでしょう?」
先程の答えと同じように、実にあっさりと言われた。そのあまりの未練のなさに、却って不安になる。
「それはそうだが。……君がそう言うなら良いが」
「ええ。父さんの形見だけど、別に思い出はアレだけって訳じゃない――――」
待て。
「―――よくはない」
聞き捨てならぬ言葉を聞いた。余りにも簡単に、主の唇から滑り出た言葉。
「そこまで強くあることは無いだろう、凛」
そこまで、君が自らを削る必要などない。あいつの為等に―――私の為、等に。
ちゃり、と小さく掌の中で鎖が鳴った。
ハート型の紅い石は、居間の明かりを反射してきらりと輝いた。
「あ……拾いにいってくれたんだ、アーチャー」
違う、とは言えない。そう思っていれば良い。それは、間違いなく凛の物だ。それ以外の理由など持たせる必要はない。
驚きに目を開いたまま、両手でその石をそっと包みこむ凛に、堪らなくなった。
「…もう忘れるな。それは凛にしか似合わない」
万感の思いを込めて、それだけ伝えた。
他に伝えたい言葉は皆、喉の奥に飲み込んで切り刻み、二度と浮かばぬように戒めた。
そんな自分の哀れな心に、当然気づかずに。
「―――そう。じゃ、ありがとう」
まだ戸惑いが残るが、それでもほんの少しだけの笑顔で、彼女はそれを受け取ってくれた。