時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

Cry for the moon.

―――それは、確かに奇異に見えるかもしれないけれど。
彼らにとっては当たり前の話である。





彼はいつもその座敷の隅で、座っていた。
何も話さなかった。言葉を知らなかった。誰も彼に教えてはくれなかった。
他の者達が自分を忌避していることも知っていた。
それについて何の感慨も起こさなかった。
只、自分はそう言うものなのだとなんとなく理解していた。
他者を羨んだり、憎んだり、そんな感情というものは彼には無かった。
彼は何も変わらないし、変わるわけが無かった。






ある日、初めて自分の前に無遠慮に近づいて来た人影を、彼は反射的に見上げた。
窓から差しこむ月明かりに照らされたからなのか、その瞳は僅かに青みがかって見えた。



衝撃。



それだけが、頭蓋骨に響いた。
音で表記できないほどの、凄まじい絶対的な圧力。
きりきりと弦を引き絞るような音がして、圧力が眼球を圧迫していく。
少年は、自分の右目が潰される音をはっきりと聞いた。
痛みは感じなかった。感じる暇がなかった。それどころではなかった。
彼は残った紅い左眼で、自分を改変させようとしたそれを見やった。
それは、何の変哲も無い鉄の棒だった。少年に知識は無かったが、例えるならば太鼓の撥ほどの長さと太さだった。
それが、自分の右目に突き刺さっていた。
それは、確かに人の手に握られており、それを振るったはずの存在を少年は見た。


僅かに青く輝く、両の瞳を。


少年は何かを感じた。彼の未成熟な情緒で表現すると余りにも稚拙ではあるが、一番近いのは「恐怖」だろうか。
それは恐らく、「ヒトで無いモノ」が「ヒトで無いモノを狩る者」に向ける単純な恐怖であっただろう。彼でなかったらもっと顕著にそれを感じただろう。
バケモノはヒトの天敵と成り得るが、目の前のヒトはバケモノ達の天敵となるべく存在する生物だった。
しかし少年には、初めて自分に与えられた感情という名の衝撃を吟味や理解している暇は無かった。
致命傷の傷は彼からあっさりと意識を奪ってしまったから。


少年は命を取り留めた。否、彼はこの程度では死ななかった。
彼はやがて軋間の当主として申し分ない力を発揮し、殺人鬼として生きることになる。
―――――否。彼にとって、生きることとは別の存在を駆逐することと同義。それ以外の要素は彼の中に存在しないからだ。








森の中を、もう既に青年となった彼はひた走る。
この黒い森の向こう側に、自分が壊すべきモノがいる。
邪魔な木々を握り潰し、彼は走った。その動きに無駄な動作や感情は一切篭らない。
やがて彼は、目的地へ辿り着いた。



僅かに月光が差し込む森の中。
青年は邂逅する。



目の前の存在の空気が、緊張したのが解った。
一瞬、何故か青年は反応を無くした。それは本当に一瞬で、大抵のモノは気づこう筈が無いぐらいのものだったけれど、目の前の男はそれを逃さなかった。
まるで獣のように後ろ向きに飛び、森の木々の中に吸い込まれるように消えていった。
ベキベキベキベキ!!
辺りの樹木が一斉に倒れ、彼に襲い掛かってくる。それを何の躊躇いもなく彼は右腕一本で弾き飛ばし、逃げた跡を追った。



深い暗い森の中、命がけの鬼ごっこは直ぐに決着がついた。
お互いヒトを殺す術しか知らなかった二人だけれど、相手はそれを考えて使い続け、彼は何も考えずにそれを振るった。
決定的な差異。
絶対的な破壊。



ぐしゃり、と鈍い音がした。



ばたばた、と草の葉に血肉が零れて落ちる。
もうそれはひくりとも動かぬ肉塊と成り果て、辺りを真っ赤に染め上げた。
青年は僅かに首を巡らした。あの青い色が、どこに行ったのかが気になった。
勿論、完全に砕かれたそれを見つける事など出来ず。
幼い頃与えられたものと同じ筈の衝動を訴えかける首筋の傷に手をやって、彼は澄み過ぎて泣きそうに見える月を見上げた。
それはあの瞳と同じ色をしていた。
何故か、次にまたこんな目を見る時は―――――壊さずに出来る限り、取っておこうかと、彼は思った。




それは余りにも残酷な、どうしようもない話。
でも彼らにとってはやはり、当たり前の馬鹿な話。