時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

Lumiere du phare

 藤丸立香は子供の頃から、眠るのが苦手だった。
 自分の意識が消える、ということがどうにも怖くて仕方なかったのだ。そしてどんなに堪えていても、いずれは眠気に負けてしまう。
 嫌なのに避けられない、確実に訪れるそれを、死と同等に連想してしまうせいかもしれない。
 だから、今日も、電力節約の為すっかり暗くなったカルデアの、自室のベッドの上でごろごろと埒も無い寝返りを何度も繰り返している。訓練を兼ねたレイシフトを繰り返し、体はすっかり疲れ切っているが、眠気は吃驚するぐらいやってこない。
 体を休めるのもマスターとしての仕事だと解っているのに、どうしようも無くて――、一つ溜息を吐き、身を起こす。枕元のチェストを探り、随分と前時代的なランプを取り出した。
 このカルデアでは似合わないレトロな様相だが、休憩時間の節電用にダ・ヴィンチに用意して貰ったものだ。不便には違いないが、英霊達には火の明かりの方が馴染み深い者が多いらしく好評で、他の部屋にも備え付けられるようになった。
 煤避けを外し、芯にそっと指先を添えて“発火”の魔術を行使する。この程度の魔術なら自分にも出来るようになった。逆を言うならこれ以上はカルデア特製の礼装が無いと難しいのだが。小さな火種が揺らめく炎になって、オレンジ色の光を放つ姿に、立香は満足げに頷く。
 ランプをそっとサイドチェストに置いて、再び寝転がる。ゆらゆらと揺れる炎と共に、光と影が壁の上で踊る。まるでそれは黒い炎が逆に光を侵食していくようにも見えて、
「――巌窟王」
 名を呼んだ。誰に聞こえることもないぐらいの、小さな声だったが、その持ち主は応えた。そこには信頼というよりは、確かな確信がある。――彼が、自分の声に応えぬ筈が無いと。
 ゆらりと、闇がとぐろを巻く。影は炎となってずるりと広がり、縮まり、形を成す。闇より黒い外套と帽子が切り取られたように浮き上がり、その中に金色の瞳がひとつ。まるで小さな満月のように輝いて、こちらを睨めつけてくる。
「俺を呼んだか、マスター」
 闇の中から声がする。お定まりの呼びかけだったけれど、その声音は戦闘時の激しいものではなく、随分と落ち着いていた。呆れているのかもしれない。何せこうやって、一人の寝室で彼のことを呼ぶのは初めてではないのだ。
「寝れないんだ。何か話してよ」
「またか。余程俺が齎す悪夢がお好みだと見える」
 闇の中でもはっきりと、影の唇が歪むのが見えた。呆れなのか揶揄なのかは解らないが、彼が自分を無視する気は無いと知っているので、笑いを堪えて布団に潜る。
 色々な事情を鑑みて、このカルデアに現界しているサーヴァント達には、ロマニとダ・ヴィンチの好意で居住スペースが与えられているが、それを利用しているのは半分ほどだ。理由は様々だが、普段は霊体化して滅多に姿を見せない者もいる。彼は後者の方だった。
 その代わり、まるで立香の影に潜んでいるかのように、彼が呼べば必ず何処でも姿を現す。マスターとの過度の接触禁止令が出ている清姫や静謐のハサンが悔しがっているが、巌窟王の方は何処吹く風だ。
 ぎしりと寝台が軋む。彼のかりそめの肉体が、縁に腰かけたからだ。そろりと目だけ布団から出すと、巌窟王は自分の懐から取り出した紙巻を口に咥えていた。
「カルデアは寝煙草禁止だぞ」
「お前に吸わせる気は無いさ」
 静止は聞かない、と言いたげに口元を歪める男に不満を持ちながらも、シーツの隙間からするりと手を伸ばす。巌窟王も何も言わぬまま、体を傾がせる。
 紙巻の先に、そっと指を翳す。赤い灯がじわりと小さく灯り、すぐに大きくなる。巌窟王は満足げに笑い、美味そうに煙を吐き出した。空調のある天井に向けて吹かれたのは解りにくいが気遣いだろう。故郷では未成年として扱われ、未だ酒も煙草も味を知らない己にとっては、どうもその有難味が解らないものだけれど――この香りは嫌いでは無い。姿が見えなくても、闇の中に溶け込んでしまっても、この匂いがあれば彼の事を探し出せるから。
 二つの小さな灯りが闇の中で揺れる。それと煙草の匂いは随分と立香に安らぎを齎してくれたけれど、とろりとした眠気が来た瞬間背筋が寒くなって首を振ってしまう。今日は特に、眠れない日のようだった。
「なぁ、何か話」
「……煉獄を覗く趣味が無いのなら止めておけ。また囚われたいとでも?」
 強請ると、不満げな声で詰られた。確かに無理な話かもしれない。彼をこの部屋に呼ぶたびに、こうやって何度も断られているのだから。
 何故なら彼は、船乗りエドモン・ダンテスにして、エデの愛を受け取り憎悪から解放された男、では無い。稀代の復讐者としてこの世界に縛られた巌窟王。その身は怨嗟の黒炎に焼かれ続け、その魂は救われることはない。彼が語る言葉は確かに、他者を恩讐の深淵に落とすだけなのだと、誰より彼自身が思っているのだろう。
 それでも、だ。
「それでも、いいよ」
 もそもそとまた手を伸ばして、シーツの上の巌窟王の手に触れる。僅かに震えたが、抵抗はされなかったので、遠慮なくぎゅっと握ってやる。
「俺、子供の頃から、眠るの駄目だったんだよね」
「ふん?」
「何ていうか、自分の意識がなくなるのが、怖いんだと思う。オバケとか、災害より、それが一番怖かった」
 何より恐ろしいのは、自分がどこにもいなくなること。自分の存在すら感じ取れなくなること。
 部屋の中の暗闇も、その恐ろしさを煽ってくるけれど。ランプの明かりと煙草の火と、何より触れた温もりが恐怖を忘れさせてくれる。
「何も無いよりかは、悪夢の方がよっぽどマシなんだ」
「ほう、剛毅な事だな。無謀とも言うが」
「だって意識があるなら、悪夢をハッピーエンドにすることだってできるだろ?」
 そもそも、まだ自分が生きているのに「もう終わりだ」と何度も言われるのが納得できなかったのだ。もう終わり、になるのは自分の命が途切れた時だ。諦めが悪いと言うよりは、諦める気が起きない。それだけの理由で人理を守るという無茶をやろうとしているのは、まぁ我ながら呆れてしまうけれど――
 そんな思いを込めて、やせ我慢含めて勝ち誇ったように笑ってやると、暗闇の中に輝く金色の目は、驚いたように見開かれて。
「ク、ハ、クハハハハハハハ!!」
「ちょ、声でかいでかい! 夜!」
「クク、許せよ、これが笑わずにいられるか! 全く、お前は――!」
 いつものテンションで思い切り笑われたので慌てて諌める。彼も夜闇に高笑いを響かせて近所迷惑になるのは不本意なのか、目元を抑えてくつくつと笑い続けている。こうなると長いぞ、と半ば諦めてベッドの上で丸まっていると、巌窟王は握られた手の方を解いて、何かと思う前に立香の頭をぐしゃりと撫でて来た。
「嗚呼――お前は。そうだ、そうなのだろうな」
 彼らしからぬ行動に吃驚して固まると、ぽつりと呟く独白を聞いた。普段随分と回りくどい言い方をするくせに、一人で納得した時には何も言ってくれない。初めて出会ったときからそうだった。もどかしいが、撫でてくる手は心地良いので文句は言えなくなる。
 大人しくなった立香を褒めるように、今度は僅かに笑って巌窟王は囁く。
「……そろそろ眠れ。あのお人好しの後輩に無駄な苦労をかけるぞ」
「う、解ってはいるけどさぁ」
 自分とてマシュやロマニ達に心配をかけるのは本意では無いが、仕方ないじゃないか。そう言いたげな立香に気付いたのか、巌窟王は咥えていた煙草をそっと外し、ぐしゃりと自分の手の中で握り潰す。小さな灯は黒い炎で、一瞬のうちに焼き尽くされた。
 そして、ぞわりと辺りの闇が蠢く。彼の体から伸びる影のような揺らめく炎が、まるで怪物の顎のように――それにしては随分と優しく、ベッドに寝転がったままの立香の体を包んだ。そのまま彼の姿も闇に溶けて、見えなくなる。
「巌窟王……?」
『目を閉じろ』
 おぞましい炎である筈なのに、触り心地はとても柔らかいベルベットのようだった。声と同時に、その柔らかい何かが瞼に触れる感触。従ってそっと目を閉じると、褒めるように今度は頭を撫でられる。
『寝物語など出来ん、子守唄も諦めろ。だが――お前が眠っている間、オレが起きていることぐらいはしてやるさ』
 随分と傲慢な、どうしようもなく優しいその声に、笑ってしまった。
 誰よりも人の悪性を憎み、絶望し続けている筈の男の優しさと強さを、自分は知っている。何故なら、絶望し続ける為には信じ続けることが、どうしても必要なのだから。
 異形の腕に抱かれようと、恩讐の彼方に連れ去られようと、怖いことなど何もない。きっと彼は眠りこけた自分を、あのイフ城の時のように、必ず起こしてくれるだろうから。
 そう思ったら、眠りと言うのも決して悪くなくて。意識が融けて、ぷつぷつと途切れてしまっても、もう恐怖は無かった。





 小さな寝息が聞こえて来て、巌窟王はゆっくりとその体を寝台に横たえる。既に輪郭は人の形を留めていない。――まるで、彼に観測されなければ姿など要らぬと言いたげに。
 闇に包まれる部屋の中、輝きはか細いランプと、それを受け止める黄金の瞳が一つ。
『ふん。……今宵は夢も見ずに眠ると良い。灯台の光も、今は要らん』
 そんな悪態と共に、そっとランプの灯が吹き消されて、完全な暗闇が訪れる。
『目が覚めたのなら、また俺を呼べ。そうすれば必ず、オレは――』
 声すらも闇に消えていく。本来あり得ぬ存在は、世界に勝てずに吹き散らされていく。
 それでも、満足げな笑顔で眠る少年が見ている夢は、決して悪夢では無いことに気づいたのだろうか。その闇は、太陽の蹂躙が始まるその時まで消えることは無く其処に居た。