時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

この魂に、哀れみを。

びしり、と亀裂が走る音を聞いた瞬間。
彼は、どうしようもない程嬉しそうに―――嗤っていた。















「それ」が砕かれた途端、一瞬の躊躇いも無く黒い泥が溢れた。
「――――ッ、ガ!」
悲鳴を上げる暇も無く、金色のサーヴァントがその泥に飲み込まれる。最強と謡われた古代の英雄王が、何の抵抗も出来ず。
「これで――――…ッ!」
その光景に安堵を口の端から漏らした魔術師も、その泥に飲み込まれる。これで全て終わるのだと、確信を瞳に浮かべて。
「キリツグ、貴方は――――…!!」
自らの剣が齎した暴走に驚き、騎士王であるサーヴァントは自分の主である魔術師を責めようとした。しかし彼女を存在させていた要である聖杯が砕けた為、泥に呑まれる一瞬前にその身体は空気に溶けるように掻き消えた。
まるでマグマのような汚泥はずるずると広がり、悪意と絶望を地に塗れさす。空は溶け、まるで胎児のような黒い影が太陽に成り代わり、正しくこの世の地獄を作り上げた。
そんな光景を、彼は見ることも出来なかった。
何故なら彼は、杯が砕かれた最初の瞬間、その泥に自ら手を伸ばし飲み込まれたのだから。







―――――死ね





それは、呪い。






―――――死ね






それは、悪意。




―――――死ね
――――死ね
―――死ね
――死ね
―死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね




それは、狂気悪罵非業怨嗟呪詛。
狂ってしまった方が楽だと思える程の悪意。
世界の全てを集めたそれは凝固して黒い雫になり、やがて一つのカタチを創り出す。
まるで、今まさに母親の腹から生まれ出でようとする赤子のように見えた。






「――――ああ」
唇を開いて、声を出した。
それだけの動作が酷く緩慢に感じ、言峰は心の奥底で嗤った。
自分の身体は既に黒い汚泥に犯されて、境界すらも解らない。
並の人間ならば、意識すら食い潰されているはずなのに、何故か自分は自分を自分だと認識している。
それはきっと、自分の中身が端から虚ろだったからなのだろうと、彼は理解していた。
神を奉じる身で有りながら、献身に嘲笑し真摯を唾棄する心。その矛盾を埋める為に身体を磨耗させていき、結局は空虚になってしまった。
その隙間に、余すところ無く泥が沈み、埋め立て、満たしていく。
「―――ああ」
満ちていく。喉から手が出るほど欲したものに、身体が満たされていく。
それは何という罪悪か。
それは何という快楽か。
このまま全てを食い潰されるのも悪くないとすら、思ったのに。
ずるずるとその黒い波はその身を引いて消えていく。
拠り所である胎盤を失ったのだから、それは当然のこと。
理解していても諦めきれず、言峰は霧散しかけるそれに手を伸ばした。
「―――まだ。祝福の口付けすらしていない」
その言葉はまるで、つれなき相手に対する恋慕にすら聞こえた。
そして黒き胎児は、元々有るべき場所―――即ち世界へとその身を散り散りにさせていった。












まだ、瓦礫が燻る音が聞こえる。灰色の空はざらざらと雨を吐き出しているが、炎の全てを洗い落とすにはまだ少し時間がかかるだろう。
ぼろぼろになった体を瓦礫に横たえ、言峰は黙って空を見ていた。そこにはもう黒い太陽は無い。
「…せめて」
焼け爛れた唇をどうにか動かす。最早影も形も見えぬ、確かにそこにあるはずの悪夢に向かって手を伸ばす。
「私が女ならば、孕むことも出来ただろうに」
低く掠れた声には、心底惜しいという情感が篭っていた。
しかし後悔は無い。まだ次がある。再生されていく身体を漸く起こしながら、やはり彼は嗤っていた。
「またこの世に生まれ出ずるその時に、再び祝福しよう、<唯一悪アンリマンユ>よ」
その言葉は限りない背徳の筈なのに、誠実なる祈りに聞こえた。