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髑髏月

、その日は―――酷く温い風が吹いていた。
いくら冬が暖かい冬木の街といっても、それは異常だった。
身体に纏わりつくような、じっとりと湿った嫌な風。
それに長い髪を遊ばせながら、竜桐寺の石段の上に立つここの門番であるサーヴァント・アサシンこと佐々木小次郎は、ただ黙って立っている。
今日の風も、はたまた天空に輝く不気味な文様の月も、彼の美的感覚では愛でるに値しないもの。特に感慨も持たず、只黙って門番としての役目を果たす。
こういうところが、彼を他のサーヴァントとは一線を画している理由なのだろう。例え令呪という頚木でその身を繋がれても、こんないつ敵が通るとも解らぬ場所でずっと待機を命じられれば、多かれ少なかれ不満をその面に出すだろう。しかし彼は悠とした余裕を崩すことなく、寧ろ軽く笑んでいるようにさえ見えた。
―――もとよりこの身は仮初に過ぎず。雌狐に使われるもまた一興―――
キャスターが聞いたら怒り出しそうな理由だが、本気でそう思っているようだった。
ほんの少し気だるいことを除けば、いつもの夜だ。
だからこそいつものように只小次郎は空を仰ぎ―――石段をこの場まで這いずって来た影に気付く事が出来なかった。
否、こう言えば彼の卓越した剣士としての矜持を傷つけてしまう。その影は、まさしく完璧に気配を消し去って彼に近づいていた。ここにいたのがもしセイバーであれば、自らの勘を元にする偽の心眼で気付く事が出来たかも知れない。しかし彼の心眼はあくまで自らの技量を高めて手に入れたもの。それ故に―――それ以上の実力を持つ陰行に気付く事が出来なかった。ある意味酷い皮肉である。
たった一瞬の隙だった。
それだけで影には充分だった。


―――ずびゅっ!


「――ふ」
―――――――驚いた事に。彼らしいと言えるかもしれないけれど。
たった一瞬で両の腕を切り落とされ、命より大切な得物を放り出さざるをえなかった彼は。
吐息だけで、笑った。
それは致命的に油断した自分に対する嘲笑なのかもしれないけれど、それでも酷く―――涼やかだった。
こふ、と軽く咳をするが、喉の奥に沸いてきた錆水をどうにかそこで留める。無様に吐いた血と臓物で、自分の羽織を汚すのは真っ平ごめんだった。例え既に大部分が自らの血で赤く染まっていても、だ。
そう、腕の両断と別に、彼の身体に致命傷を与えた腕は、


―――――紛れも無く、彼自身の腹から這い出でていた。


闇の凝り固まった階段の途中で、何かが蠢いている。
それはまさしく影としか形容できぬカタチをしていて、ぬめりとした触手を宙に撓ませながら獲物をどこにあるか解らない目で見据えている。
その「影」は彼の腕を食い潰しただけでは飽き足らず、更にその身を食らおうと触手を伸ばしてくる。
キキキ、と耳障りな音がする。草が擦れるような、或いは蟲の鳴き声のような。
「なんと―――よもや、蛇蠍魔蠍の類であったか」
ずるり、ずるり、と少しずつ自分の身から這い出てくる長い腕を見据え、納得したように小次郎は呟く。影に語る言葉は無い。あんなモノに会話を求めるなど愚かなことであると、小次郎は本能的に気づいていた。
だから彼が目を向けるのは、今まさに自分の腹から生まれ出でる異形のみ。
ソレは確実に小次郎の血肉を喰らい、自らのカタチを為していく。
全て喰われる―――皮も肉も骨も臓腑も、意識すら。
只でさえシンプルな意識しか持っていなかった小次郎の精神が更に曖昧さを増す。それに呼応して、只の黒い肉の塊だったそれは、人型を取り声という名の音を、どこからか搾り出し始めた。
ぐにゃりと起き上がったのは、まるで目も鼻も口も耳も、薬剤で溶かして潰してしまったような黒い無貌。普通の人間なら恐れおののき逃げ出してしまうほどのソレを見て―――
「良かろう――いずれ我が腹の内から這い出でるもの、ろくな性根ではなかろうよ―――」
そう、形容して。やはり、涼やかに笑っていた。
口元から僅かに滲んだ血糊と、それと対照的に蒼白になった唇の両端を引き上げて。
「キキ、キ」
僅かに、無貌が声を漏らす。歯が剥き出しの唇の間から、蟲のような鳴き声を出す。ソレは本当に微々たるモノであったけれど、敢えて例えるなら―――戸惑いが、混じっているようだった。
彼にとって今の今まで、小次郎は最初の糧である肉塊でしかなかった。しかし彼を食らうと同時に手に入れた彼の知識が、正しく彼の反応を異常であると認識させてくれた。
体半分、食い潰され持っていかれた状態で、何故笑えるのか、理由が解らなかった。
小次郎はそんな彼の戸惑いに気づいたのか、面白そうに笑って―――流石に、きつい吐息を漏らした。
「っ、く―――」
いつの間にか傍まで這いずってきていた黒い影が、本格的に小次郎に食指を伸ばしてきた。コレは生物ではない。有様はサーヴァントに近いが、在り方は全く違う。只他のものを飲み込む「現象」と言ったほうが正しい存在だ。
それはしかし、両の膝を石畳についたままの小次郎に、海草の様なその身を伸ばして包もうとする。じわりと触れたそこは熱を奪われ、じくじくと溶かされていく。
「ぅ………っ」
僅かに形の良い眉を顰め、小次郎は呻いた。このまま嬲られるように喰われるのは、流石に御免こうむりたい。しかし両の腕と武器を失った自分では自決すら出来ない。どうしようかと逡巡し―――ふと、青褪めたままの顔を緩ませた。
「キキ、キキキ」
目の前の無貌。泣いているのか笑っているのか解らない音。小次郎はどうにか上半身を起こし、自分の体に未だ下半身を埋めている状態の無貌―――その剥き出しになった歯茎に、躊躇いなく自分の唇を寄せた。
かはぁ、と異形の吐息が聞こえた。驚愕か、それとも差し出された餌に喰いつこうとしたのか、僅かに開いた歯の間に、小次郎は自然に自分の血の味にまみれた舌を刺し込む。
「―――食ろうてくれぬか? 貴殿が召せば、まだ有難い」
黒い無貌は、間違いなく驚きによって肉に埋まった目を見開いた。小次郎の本気が、舐りあう舌から通じたからだ。
―――この美しい剣士は紛れもなく、影に飲まれる前に体を食らえと自分に言っている――――
「キシャァアッ!!」
理由など解る筈が無い。しかし確かにこの瞬間、無貌は狂喜した。享楽の叫び声を上げ、その美しい顔にむしゃぶりついた。
「ふっ、う…ん、ぐ、んんぅっ」
「クフゥ…キ、キキ」
皮膚のめくれ上がったような口が小次郎の口腔を蹂躙する。残り少ない臓腑が唇から吸いだされているように小次郎は感じた。
それと同時に、無貌の体が少しずつ出来上がっていく。腰から下、右足が、続いて左足が、最早殆ど血を流し切ってしまった体から抜け落ちた。
黒い影も負けじと、ずぶずぶとその身の中に小次郎の体を啜っていく。無貌は焦りを感じ、尚更がつがつと残った皮膚に食らい尽き、齧り取り、飲み込む。
渡さぬ、と思った。
これは―――自分のモノだ。本来自分であったはずのものが、間違えて自分より先に生まれてしまったものだ。だからこれは全て自分が取り返さなければならない。
おおお、と搾り出すような声で彼は鳴いた。もしかしたら泣いたのかもしれない。涙を流さぬ瞳では、それを確認することは不可能に近かったが。
不意に、黒い影がその身を引いた。コレを作り出した張本人が、まだアサシンという手駒を無くすわけにはいかないと、影に命令をしたらしい。まだ力が弱いので、魔術師の力でもある程度の命令は聞けるようだ。―――最も、それがいつまで続くかは解らないが。
無貌はそれを悦び、更に大胆にその身を喰らっていく。最後に、脳味噌を啜ろうとその額に歯をかけた時。
最早痛みで意識など無くしている筈の彼は、やはり笑っていて。
一瞬動きを止めてしまった無貌に対し、小次郎は最期にこう言った。その瞳は―――うっとりと天を眺めていた。いつものように、夜半の月を愛でるが如く―――
「その貌、悪くはないが少々見苦しい―――、しゃれこうべが良い。あの、月のような、白き貌が―――」
良く似合う、と吐息だけで紡ぎ、意識が完全に途切れた瞬間。
天に届く程長き腕が、その頭蓋をぐしゃぐしゃに押し潰した。





辺りに飛び散った脳髄を啜りきり、アサシン―――ハサンは立ち上がった。
何故あれほどまで自分が歓喜の渦に飲まれたのか、今はもう解らない。
ただ、殺すことが存在意義である自分が、求められたことが嬉しかったのかもしれない。
闇に溶ける身を呆と晒し、ハサンは空を仰ぎ―――白い月にそっくりの髑髏の面を編み上げると、それをすいと貌に被せた。
その途端彼の体は闇夜に掻き消えてしまい、後に残るのは血痕すら無く。
月が独りで、幾ばくかの闇を払拭させんと、輝いているだけだった。