時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

割れ鍋に落し蓋

「綺礼さんは、凛の事が本当に好きよね」
「んっ、ぶ!」
ある日の朝食の席、母から言われたそんな言葉に、凛は思わず口の中に含んでいたトーストを吹きかけた。
「まぁ、何をしてるの。はしたないわよ」
「っ、けほ、ごめんなさい…って、お母様! さっきの、何!?」
「何って…」
魔術師の細君としては似合わない、随分と悪戯っぽい笑顔で葵はくすくすと笑った。
「貴方と居る時の綺礼さんは、普段より子供っぽく見えるから。少なくとも貴方の事を気に入ってるんじゃないの?」
「それ、は…」
むぅ、と眉間に皺を寄せたまま凛は言いよどむ。母の言葉は決して間違いで無いと、この聡い子供はちゃんと気づいていた。
教会の代行者でありながら、魔術師に弟子入りした変り種の男。その実力は折り紙つきで、実父と師匠である凛の父による信頼は絶大だ。それもまた凛にとっては腹の立つ事象ではあるのだが。
真面目一本で、遊興する暇など無いと言いたげに修行に没頭する様は、神に逆らう秘術を手に入れているというのに、正しく敬虔なる神の使徒のようにすら見えた。数年前に細君を亡くしたというのも、それに拍車をかけているのかもしれない。
それでも―――それでも、だ。凛は、言峰綺礼のことが、どうしても好きになれなかった。
遠坂凛という少女は、年に似合わぬ冷静さと頭の回転の速さを持っていた。子供には非常に難しいとされる自己分析を、完璧とまではいかないけれどかなり精密に行う事が出来た。その部分を見ても、彼女は正しく魔術師の娘として、いずれ魔術師になるものとしての素質を備えていると言えた。
綺礼に向ける感情が、赤の他人にも関わらず兄弟子となり父の信頼を得ていることによるつまらない嫉妬が大部分である事もちゃんと気づいている―――癪だけれども。
しかし、それだけではない。それだけではないのだが、ではそれは何なのかと問われると、それは凛にも解らない。直感としか言いようの無いその不快感を、如何しても消す事が出来なかった。
自分があの男に興味、或いは好意を持たれているという事実そのものが、背筋を寒くさせてしまうのだ。
膨れたまま俯いてしまった娘に、苛めすぎたかしらと思い、葵は苦笑しながら言葉を続けた。
「ごめんなさいね。でも、今日も綺礼さんがいらっしゃるんだから、ちゃんとご挨拶しないと駄目よ?」
「ぅ…はい」
潔くないと解っていても、顔を合わせるのが嫌でここ数日逃げ回っていたのをちゃんと母は気づいていたらしい。渋々とだったが、母の言葉に凛は頷いた。




「おや、久しぶりだね凛」
「……いらっしゃいませ」
数刻後、予定の時間に寸分違わずその男はやってきた。開き直って腹を括り、まさしく親の敵を睨みつけるような顔で凛は玄関に立ち、綺礼を待ち構えていた。不機嫌を隠しきれていないその顔に、綺礼の口元が僅かに上向く。それを見て、凛はますます不機嫌になる。
何故なら、この男が笑う姿を、こういう時にしか凛は見たことがないからだ。
「逃亡劇はもう終わりかね? もう少し粘ってくれるかと思ったのだが」
「…っ、うるっさいわね! 逃げも隠れもしないわよ!」
やはりばれていた図星を指され、凛の頬が服に負けないほど真っ赤に染まる。
そう、この男が何より腹が立つのはこんな時だ。凛個人と話す時、普段の静謐さが嘘のように、凛を揶揄の対象として暫く弄るのだ。その時は常に楽しそうに口の端を緩めていて、こいつ絶対猫被ってる!と凛は常々感じていた。
如何なる時にも優雅たれ。如何なる時にも優雅たれ。
家訓を口と心の中で何度も繰り返しながら、凛は足取りだけは淑やかに、綺礼を父の部屋へ案内し始めた。




―――推測と現実の差異は、ほんの僅かなものだった。
確かに綺礼は、猫を被っていたのかもしれない。しかし彼自身が、自分が猫を被っているという事実にまだ気づいていなかった。
ただこの、今目の前を歩いている少女を揶揄うと覗く年相応の癇癪が、非常に綺礼の心の琴線を刺激した。数少ない、自分の空虚な心を揺らしてくれるこの存在を、好ましく思っていた。
例えば。無意識下で綺礼は思考する。
例えば。魔術の腕前の差を、あからさまに見せ付けてみせれば。
例えば。彼女の大好物である母親の手作りパイを、隠してしまえば。
例えば。肝心な時にしくじってしまうその致命的な遺伝子的欠陥を笑ってみせれば。
例えば。―――彼女が誰よりも敬愛する師父を、裏切ってしまえ ば。
彼女は怒るだろう、悲しむだろう、そして絶望するだろう。
快活な生命力に満ち溢れた少女が、そんな有様になる光景を夢想して――――
ふ、と綺礼は思考を閉じた。それ以上考える気が起きなくなった。何故ならそんな行為を実行に移しても、何の意味も無いからだ。
何かが変わるわけでも、何かを残すわけでもない酷く非生産的な思考だ。厭うわけではないが、時間の無駄とも言えた。
何より、いつの間にか足を止めた少女が、胡乱気にこちらを睨みつけていたからだ。
「…何か?」
「………いいえ、別に。何か良からぬ事でも、企んでるんじゃないかと思って」
「ふむ、酷い言い草だな」
ふん、と唇を尖らせ、ツインテールを翻して再び歩いていく凛を追いながら、勘の良い事だ、と内心綺礼は舌を巻いていた。
綺礼も凛の事はしっかりと分析している。自己の目的が己の内に無い彼にとって、他人を分析解体することは何よりの臨床実験になった。凛が彼に向ける感情は、嫉妬と警戒。前者の方が無論比率が多いが、注意すべきは後者だ。
即ち彼女は、綺礼を異質なものとして認識している。理解が出来ない故の警戒だ。それは逆説的に、彼の事を理解していると言えた。
――――言峰綺礼という人間は、人間としてはあまりにも異質なモノであると。
彼の実父も、師父も、誰も気づかないその事実にこの少女は気づいてしまっている。
その事実は―――如何にも、面映いものだった。
「…〜〜〜ちょっと! さっきから何なのよ!」
「うん?」
いい加減堪忍袋の緒が切れた、とばかりに少女は叫んだ。普段なら両親に怒られるところだが、ここは既に工房に向かう廊下の中であり、上階にいる母にも奥に篭っている父にも声は聞こえまい。猫が毛を逆立ててふーっ、と威嚇するように睨みつける凛に、綺礼は笑みを浮べ直して問いかけた。
「さて、何か気に障ったかね? コンパスの差なら気にしなくて良い、私がきちんと合わせている」
「〜〜〜あ・ん・たは〜っ……はぁ」
ぎりぎりと小さな拳を握り締めていた凛だったが、不意に力を抜いてそれを解いた。僅かに詰まらなそうな顔をした綺礼に気づいたらしく、瞳だけは未だ剣呑に睨みつける。
「それよ、それ」
「凛。物事を説明する際には主語と述語を略さないようにしたまえ」
「あーんーたーのー顔よ!」
うがー!と淑女の仮面を自ら木っ端微塵に踏み躙り、ついに凛は吼えた。流石の綺礼も面食らい、僅かに目を瞬かせる。
「顔、とは?」
「さっきからずーっとニヤニヤしっぱなしなのよ! 言いたい事があるんならはっきり言いなさいよね! 人の神経逆撫でするのがそんなに楽しいの!?」
両腕を振り回しながら、悔しさのあまり涙までうっすら浮べている少女を見て―――綺礼は呆然としていた。彼にしては本当に珍しく、思考が一瞬完全に停止した。
さっきからずっと、と彼女は言った。聡明なこの少女は、如何に激昂していたとしても嘘は吐かない。
それは、つまり。


――――あの非生産的な、おぞましい想像をしていた時も、自分は、


「…すまなかった」
「………へ?」
ぽつり、と呟かれた言葉に、今度は凛の方が呆然とした。そうしている間に、大きな男の手がずいっと目の前に伸びてきて、我知らず凛は臆して縮こまる。
予想に反し、その手は少女を傷つけることなく、黒髪の頭にぽふりと乗せられ、そしてすぐ離れた。
「以後注意しよう」
その声は酷く静かで、却って凛の背筋をぞくりとさせた。
自分の何が綺礼の変調を齎したのかそれは解らないが、それを齎したのは自分だというのは理解できた。
そうすると、根本的なところでどうしようもないお人好しの少女は、理由の解らない罪悪感に苛まれてしまう。
先に立って歩き出した男の背中をじっと見詰め、二歩、三歩。
「―――てい!」
「っ」
見事、兄弟子譲りの蹴打が、綺礼の膝裏に炸裂した。すっかり油断していたらしく、見事に決まって綺礼の膝が傾ぐ。流石に倒れるような無様な真似はしなかったが、胡乱気に振り向く。
「…凛。少々お転婆が過ぎないか」
「か、勝手に一人でしょんぼりしないでよ! 却って気持ち悪いわ!」
今度は羞恥で顔を赤らめながら、「それと勝手に先に行かないでよね!」と言い捨てて凛はずいずいと歩いていく。
やれやれ、と息を吐いて綺礼もそれに続く。先刻の自らの内心の揺らぎは、随分と小さくなっていた。
まだ彼は、自分の中のパンドラの箱を開けることは出来ない。それを無意識のうちに躊躇う程には、彼はまだ人間だった。





――――結局のところ。遠坂凛は、最後の最後まで、言峰綺礼の本質に気づく事が出来なかった。
信用していなかったし、信頼もしていなかった。それなのに、肝心なところで彼を信じてしまう甘さを、凛が決して失う事が無かったからだ。
彼が異質である事に誰より先に気づいていながら、それでも彼を「ヒト」として認識していたが故の油断。
あの時不器用ながらも優しく触れてくれた筈の腕が、自らの胸を貫くまで、彼女は。