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澄んだ鐘の音が遠くから響いた。
それは確かに清らかであったけれど、静謐な寺の境内にはとんと相応しくない、どう聞いても教会のチャペルにしか聞こえず、キャスターは訝しげに珍しく縁側まで出て来て、先の尖った耳をぴくりと動かした。やはり其処は森深い山の頂上に鎮座する古寺で、それなのに確かに音は響き続けている。
「…………?」
「如何した」
夕日が差し込む境内でこくりと首を傾げるキャスターの背中に、低く抑揚のない声が届いた。彼女の現在のマスターである葛木宗一郎である。マスターと銘打たれていても、実際には有している魔力はゼロに等しく、他のマスターにとっては当たり前の魔力感知すら出来ない。それ故キャスターの行動を、何某かの襲撃があるのかと思い声をかけたのだ。
「いえ、お気を煩わせることではございません。ただ、その…音が―――」
「音?」
不意に低い声が耳元を擽り、キャスターは驚いて肩を竦めた。何時の間にかすぐ後ろに宗一郎が立っている。もう慣れてしまったが、人間であるはずの彼の気配を全く悟れぬという事実にはやはり驚かされる。
「…教会だ」
「え?」
言われた言葉の意味が解らず問い返すキャスターに対し、宗一郎は彼女の横にす、と立ち、腕を伸ばし節くれだった指で空を指した。正確には森を越え、この寺の反対側にある西洋風の町並みの方角を。
「緯度が同じ位のせいか、見えなくても音は聞こえる。結婚式でもやっているのだろう」
「そうなのですか…」
謎が解けたので、キャスターは肩の力を抜き、主が降ろした手で指していた先を、僅かに眉を顰めて見据えた。
結婚なんて、忌まわしい思い出でしかない。彼女にとって結婚とは、騙され、縛られ、貶められた事実に他ならない。祝福であるはずの澄んだ音が、彼女には酷く不快に聞こえた。
そんな彼女の反応をどう思ったのか、宗一郎は僅かに顎を動かして彼女の方を見遣る。ふむ、と小さく鼻を鳴らし、何を思ったか自分の着ていた着流しの結わい紐を一本、何の躊躇いも無くぶつりと引き千切った。
「宗一郎様?」
主の行動が理解できずキャスターが目を瞬かせているうちに、すいと無骨な手が白魚の手を取った。
しゅるり。きゅ。
止める間も無く。
キャスターの左手薬指。濃紺の結わい紐が、しっかりとだがきつくはなく、器用に結び付けられた。
「そ、宗一郎様? これは…」
主の無骨だが暖かい手に自分の手が包まれた事にどぎまぎしつつ、やはり理由が解らない行為にキャスターはおろおろする。
「…やはりきちんと買った方が良いか」
手を伸べたまま、宗一郎はふむと考えこむ。
「あの…?」
「曲がりなりにも夫婦を名乗っているのだから、それぐらい用意すべきだろう」
そこまで言われて、キャスターのどちらかというと青白い顔が、さぁっと紅くなった。
例え紀元前の生まれでも、この時代・この国の基本的な知識は召喚された時に頭の中に入っている。即ち、左手薬指に夫婦がつけるのは、お互いの愛を誓った指輪。
「そ、宗一郎様…」
「? 式も挙げるべきか」
完璧主義の片鱗なのか、顎に指を当てて真剣に考えこむ主に、キャスターは嬉しいのか恥ずかしいのか解らない真っ赤な顔のまま、全力で首を左右に振った。
「い、いえ!! けしてそのような大それたこと…いえ、光栄です!!」
慌てて否定し、それも不敬だと撤回し、動揺の収まらないキャスターに対し、宗一郎は冷静にそうかとだけ頷いた。
と、そこで夕餉の支度を告げる鐘が聞こえた。先刻の澄んだ遠い音では無く、境内全体に重厚に響く寺の鐘だ。
「あ…どうぞ、お先に行って下さい。すぐ参りますから」
「解った」
いつも通り、何事も無かったように宗一郎は部屋を出ていく。ぴしりと障子が閉められたところで、はぁとキャスターは小さく息を吐いた。
―――あの方の心情は、本当に読めない。
指に巻かれ自己主張をする千切れた帯が、酷く熱く感じる。キャスターは理由の解らぬ胸の苦しさを抑えたくて、もどかしげにおずおずとその布に唇を降ろした。
それはきっと情愛というものだった筈なのだが、彼女はずっとそれを忘れた振りをしてきたので理解することが出来なかったのだ。