時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

ホワイトシーツ

いつも、冬らしい薄くどんよりした雲に一面を覆われるはずの空は。
この日珍しく、太陽を掲げて輝いていた。






「…よっ!」
小さな気合と共に、ばさぁっと白い敷布が広がる。それは過たず庭先に出された物干し竿に被され、広げた本人の手によって丁寧に皺を伸ばされてゆく。
「よし。これで終わり」
ぱんぱんと手を払って、士郎は両手を腰に当ててうーんっと伸びをした。久々の休日、天気は真っ晴れ、気温も高く風は爽やか。ここまでお膳たてが整って、このマメな男がチャンスを逃すはずはない。最近来客が多かったこともあって、貯まっていたタオルやシーツを全部洗ってしまおうと目論んだのだ。既に全ての洗濯作業は終わり、ありったけの竿に沢山の真白い洗濯物がはためいている。
「シロウ、何してるの?」
と、玄関からチャイムも鳴らさず真っ直ぐ庭に向かってきたらしい客人の声が聞こえた。やや仰け反ったまま士郎が振り向くと、自分よりかなり下の位置に綺麗な白銀の髪があった。
「イリヤ、おはよう。今日はいつもより遅かったな?」
「だって昨日、タイガと一緒にず――――っとゲームやってたんだもん。わたしが勝ってるのに、何回も何回も勝負挑まれるんだから」
士郎の言葉にむうっと唇を尖らせて、イリヤと呼ばれた少女は反論する。
「なるほど。で、藤ねぇの奴はまだ寝てるのか?」
「うん。蹴飛ばしても踏んづけても起きないから置いてきたわ」
普段は藤ねぇと一緒に藤村組で過ごしているイリヤは、しかし藤ねぇ当人に連れられ或いは自主的に、こうやって衛宮邸に遊びに来る。
昨日は土曜日。明日を慮って眠る事なぞない!と嬉々としてサドンデスの勝負を挑んできたかの冬木の虎を、この少女はひたすら返り討ちにし続けていたらしい。
「うむ、賢明な判断だ。イリヤ、飯は?」
「ううん、食べてない。わたしもちょっと前に起きたばっかりだもん」
指摘されて急に空腹を実感したのか、小さな手をお腹に当ててちょっとだけ眉尻を下げた。子供のような仕草に少し笑い、士郎は洗濯籠を縁側に置くと少女に向かって手を伸ばした。
「朝の残りで良かったら用意できるぞ。俺も腹減ったから、一緒に食おう」
「…! うんっ!」
促しにイリヤの顔がぱっと輝き、嬉しそうにその手にしがみ付いた。




残り物といいつつもしっかり一汁三菜を守った昼食が終わると、士郎は徐に立ち上がる。
「どこいくの? シロウ」
言外に遊べ、と言いたげに座ったまま自分を見上げてくる子供に苦笑し、
「ちょっと、洗濯物取り込んでくる」
待ってなさい、との意味をこめて頭をぽふんと掌で叩き、障子を開けて廊下に出た。
と、後ろからとたとたっと軽い足音がついてくる。
「イリヤ?」
「わたしも手伝う。二人でやれば早く終わるでしょ」
心底無邪気にそう言いきり、ごく自然に手を繋いで歩き出す。
「…気持ちは嬉しいけど、イリヤ。届くか?」
直ぐに出た縁側にはためくは沢山の白いシーツ。大きなそれが最大限広げてかけられる物干し竿は、当然、背が高い。
「……引っ張って取っちゃだめ?」
「だめ。地面に落としたら意味ないだろ」
「むぅぅ」
悔しそうに出された折衷案を却下すると、ますます不満げに頬を膨らませる少女がどうにも可愛くて、
「…取り込むのは俺がやるから、畳んどいてくれ」
「うん! わかった」
結局、力を貸してもらうことにした。




次々と部屋の中に放り込まれる服を、イリヤは鼻歌を歌いながら畳んでいる。士郎から見ればどうにか及第点レベルの畳み方が多く、最悪後でこっそりやり直そうと思ってしまう代物もあったが、彼女が本当に楽しそうなのでさせるに任す事にした。
きっと彼女にとっては、こうやって洗って乱雑に放り出される衣服も、それが全て太陽の匂いがする事も、知らなかったに違いなくて。
この世界全てがこの少女にとっての遊び道具だ。彼女の世界はまだはじまったばかりで、今までは――――あの忌まわしき戦争を、戦い抜く為にしか生きてこなかったのだから。
緩く頭を振って、士郎は重たい思考を払拭する。考える事は山ほどあるけれど、少なくとも今は考えたくない。
今ぐらい。やっと長い冬が終わって、春の入り口に辿り着いた今ぐらいは。
何も考えず、幸せに生きていてくれても、良いのではないかと思うのだ。
最後にシーツを一遍に全部取り込み、両腕で抱えて縁側に戻る。足だけでサンダルを脱いで蹴飛ばすと、畳敷きの部屋の中に一気にそれを放り出した。
「わぁ!」
辺り一面白くなったその姿に歓声を上げ、こっそり指人形代わりに遊んでいた靴下を放り投げて、イリヤはその白い海に飛び込んだ。
「あ、こら!」
『わーい!』
慌てて士郎も膝をつき、捕まえようとするが、小さな身体はあっという間に沢山のシーツの中に潜ってしまった。
「イーリーヤ! 出て来い!」
『いーやー!』
くぐもった声とともにごそごそごそっと移動する塊を捕らえようと、士郎も大人気なくばさりとシーツを翻してその中にもぐりこんだ。
ごそごそばたばた。
どたんばたんどたん。
ばさぁっ。
「…つかまえたっ!」
「きゃあ!」
すったもんだと数分後。ついに狼藉者は捕らえられ、白い海の中の鬼ごっこには決着がついた。ああ、きちんと皺伸ばしなおさなきゃなぁ、と小さい体を抱きこんだまま士郎は一人ごちる。
「えへへ」
と、胸の上から笑い声が聞こえて、士郎は腕の中を覗きこんだ。ちなみに今も二人とも、シーツを頭から被ったままだ。白い暗がりの中で、イリヤはとても嬉しそうに笑っていた。
「イリヤ?」
「あったかーい」
訝しげな士郎の声に構わず、イリヤは猫のように士郎の胸に頬を摺り寄せた。
「最初雪みたいって思ったけど、雪より素敵ね。だって寒くないもん」
素直な感想に、士郎は言葉を詰らせる。そこまで無邪気に笑われると、怒るものも怒れない。
「それに、シロウのにおいがするわ」
「へ? そりゃそうだろ、俺と―――」
「ちがうわ。このシーツも、さっきの服も靴下も、みぃんなシロウとおんなじにおいよ」
ふわふわで、ふかふかで、ぽかぽかで。
月と闇が友の筈の申し子達の中で、太陽を浴び続けていた、どうしようもなく羨ましくて、暖かくていとおしい――――
「いいにおい」
ふんふんと小さく鼻をひくつかせて、イリヤは恥らいなく士郎の喉元に顔を埋めたまま動かない。
士郎は無言だった。何も言えなかった。どれだけの冷たさと孤独しか彼女には無かったのか、窺い知ることは出来ない。
きっと今、出来ることは。
「…シロウ?」
ぽふり、と銀糸の頭に胼胝だらけの手が乗る。そのままゆっくり、真っ直ぐの髪を宥める様に撫でる。不思議そうに胸の上からじっと自分を見つめる少女に、士郎はぎごちなく笑い。
「…どうせ休みだ。このまま、昼寝でもするか」
嬉しそうに、自分の胸を枕にして微笑む少女を柔らかく抱き締めて。
白い繭に包まれたまま、士郎は目を閉じた。
胸に乗っている軽すぎる重さが、とてもいとおしかった。





それから、太陽が大分中天より下がり、赤みを増した頃。
いつものように料理を作りにやってきた桜が、畳の間に放り出された多量の洗濯物と、そのど真ん中に鎮座ましますシーツに包まった青年と少女に、器用に顔を赤らめながら青褪めさせて絶叫するのは、また別の話。
ちなみにその声に驚き慌てて飛び起きた士郎と対称的に、イリヤは芳醇なる安堵と温もりに包まれてずっと深い夢の中で微笑んでいた。