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 夕方、食事時からひと段落ついた芦屋荘の食事休憩室。
「なぁ……これ、なんだけどさ」
「美雪さん、お願いできませんか?」
 如何にも困った顔をした、双子から渡された一枚紙を見せられて、芦屋荘の管理人、芦屋美雪は目を瞬かせた。
「……ふむ。家庭訪問? 学び舎の教師が親宛に話をしに来ると」
「はい……」
 数奇な運命を乗り越えて、人間と半魔の姉弟となった刹那と永久にとって、学校行事に参加出来るような血縁者と言える人はもう居ない。おずおずと顔を見合わせつつこちらを伺ってくる子供二人に、美雪はふう、溜息を一つ吐き。
「早う言わぬか、もてなしの準備も必要であろ。茶と菓子のひとつでもあればいいのかえ?」
「あ、は、はい!」
「いいのか?」
「他に役に立つ店子もおらぬわ、仕方なかろ」
 確かに他の店子たちといえば、人間的か社会的に何某かの問題がある者が殆どの為、美雪以外に頼れる者が居ないとも言えるが、何より身寄りの無かった二人を、家賃は出世払いで良いとこのアパートに住まわせているのも他ならない美雪だ。彼女の懐の深さと情の厚さは、店子皆が良く知っている。
「大丈夫〜? 学校の先生相手に、そんな喋り方してたら引かれるよぉ?」
「黙りや、くゆ。妾とて時と場合はきちんと鑑みるわ。……それならば不安なのは、お前の父親の方では無いかえ」
 その上でからかってくる、食堂で寛いでいたくゆを睨みつつ、永久の隣で食後のお茶を飲んでいたいろはの方へ視線を移す。それに合わせて、食堂に残っていた店子の視線も全部、いろはへ向かう。確かに、刹那と永久と同じクラスであるいろはの所にも、家庭訪問のお知らせは来ている筈で。
 全員の注目を浴びた少女は、くいと湯呑を上品に掲げ、中身を飲み干してから、一言。
「問題はありません。お父様に先日お知らせのプリントをお渡ししましたら、部屋の内部を片付けるべく、全ての仕事用資料を地下の工房へ下ろす作業を本日の昼間中に終わらせました」
「ふむ、ならばまあ」
 同人作家であり人形技師を生業とするいろはの義父・南森一郎の部屋には、公序良俗に反し気味な薄い本や、様々な種類の人形の模型が置いてある。流石にそれを娘の先生に見せるわけにいかないという分別は、あの男にもあるだろう。
「すると今回の締め切りに原稿が間に合わなくなった為、結局資料に塗れた工房にて現在、修羅場中です」
「駄目ではないか!!」
「ついてはお父様の夜食用に、食べやすい小さめのおにぎりを幾つか頂きたいのですが」
「ああもう、こういう時すら娘に苦労をかけおって……! 少し待っておれ!」
 全く表情を動かさず冷静に語るいろはへ、苛立ちつつも面倒見の良い大家は大股で厨房へ入っていき、それを見送った双子は、その温かさにどこか嬉しそうに笑っていた。


 ×××


 随分と古いアパートの門構えに僅かに臆しつつ、今年の春に小学校教員になったばかりの鈴木は、溜息を吐いた。
 新卒一年目の彼女にとって、家庭訪問という行事は中々に緊張するもの。そうでなくても昨今はモンスターペアレントなど、教員の責任を問う相手が増えてきていると聞き、それだけで胃が痛くなってしまう。
 更に加えて、この住所に住む彼女の生徒は、問題児まで行かなくても、何かと心配事を連れてくる子供がいて。
 もう一度吐きたくなる溜息をどうにか飲み込み、一歩踏み出す。「芦屋荘」と古ぼけた看板で飾られた正門は、何も拒むことなく彼女を受け入れた。
 アパートの前には結構広い前庭があり、古ぼけた木組みのベンチの上で大きな猫が眠っている。のどかな光景にちょっと癒されて勇気を貰った鈴木は、改めてハンドバッグから本日の日程表を取り出して確認する。
「17時から、ここの102号室、17時半から201号室」
 よし、と気合を入れ直し、指定された部屋に向かう鈴木の背中を、猫が欠伸をしながら見送った。



「ど、どうも本日はよろしくお願いします、尾上刹那くんと永久さんの担任をしております、鈴木と申します」
「いいえ、こちらこそ」
 通された部屋は、食堂のようだと思ったけれど、実際にここのアパートの共用食事室らしい。そしてがちがちに緊張する鈴木の前で優雅にお辞儀するのは、着物姿の女性。家庭訪問故の余所行きかと思えば、普段から着物の方らしい。彼女のクラスの双子、尾上刹那と尾上永久の保護者であり、このアパートの管理人でもある女性だ。
 何でも、双子の後見人であった祖父がつい一年ほど前に亡くなり、その後身寄りも無い為彼女が面倒を見ているらしい。中々複雑な背景がありそうで、その時点で既に臆していたのだが。
「ええっと、まず勉強についてですが――」
 話自体はスムーズに進んだ。何せこの双子は、転校直後にはどうも排他的というか、思い詰めたような暗さがあったそうだが、進級した今はとても明るく元気に過ごしているし、勉強・スポーツともに問題は無い。
「敢えて言うとするなら、その、刹那くんの言葉遣いが……いえ、大したものではないんですけども!」
「それはこちらも存じております。先生のお手を煩わせて申し訳ありません、厳しく言って聞かせますので」
「いえいえいえ!!」
 失礼だが、安普請なアパートの管理人とは思えない程優雅な微笑みと、穏やかな口調は、まるで貴族の奥様のようで気おくれしてしまう。幸い冷房は効いているのか涼しい部屋のおかげで、汗はかかずに済んだが。
「あと、ええと、交友関係としましては……南いろはさんと大変仲が宜しくて」
 あまり友人関係まで名指しすることは無いのだが、同じアパートに住んでおりこの後彼女の父親に会う身として、ついつい口に出してしまった。何せ彼女の家に向かうのが、鈴木にとって今日一のメインイベントであるので。
「ええ、同じ屋根の下に住んでおりますので、仲良くしております。……先生は、この後南の家へ?」
「あっはい、お邪魔させて頂く予定です」
「成程。それでは――」
 ふと、目の前の女性はゆっくりと目を細めて微笑んだ。やはり優雅ではあるのだが、どこか少し困ったような、僅かに頭痛を堪えるような顔に見えて、鈴木の不安を煽る。そのことに相手のほうも気づいたのか、いえ、と軽く首を横に振ってから答える。
「どうぞ、色々と御辛抱ください。生憎あれは、何とも奇矯な男ではありますが――己の娘に対する愛情だけは本物だと思われますので」
 どうにも、その言葉で不安を払拭するまでは至らなかったが。


 ×××


 一仕事終えつつ、一抹の不安も抱えつつ、鈴木はアパートの階段を昇る。次の目的地は二階。夕方の中途半端な時間の為か、他の部屋は静かなものだ。
 インターホンが無い為、緊張しつつも201号室のドアをノックする。
 と、次の瞬間、どん、ごん、ばん、という何回か鈍い音がして、だだだと走る音と同時に入り口が開いた。
「おおおお待たせしましたぁ!!」
「ひぃ!?」
 鈴木が思わず悲鳴を上げてしまうぐらいの勢いで飛び出して来たのは、見た目は極々普通の、冴えない風体の男性。ちゃんとスーツは来ているのだが、慌てたせいか慣れていないせいかシャツもネクタイもぐしゃぐしゃで、どうにもそぐわない。あまり日に当たっていないのか、顔色もあまり宜しくなく、頬もこけ気味だ。髭も剃っているのだけれど顎の下に剃り残しがあったりと、いまいち決まっていなかった。更に矢継ぎ早に声を張り上げ、鈴木が口を挟めないままどんどん話を進めてしまう。
「すいません! すいません! 昨日まで原稿の締め切りで、いえ正確には今朝まで待ってもらったんですけど、我慢できずにちょっと仮眠を取るつもりだったんですがたっぷり熟睡してしまって! 部屋の片付けとかもどうにかこうにか終わらせまして! それでも宜しければどうヘグッ」
「お父様、落ち着いて下さい」
 そんな男性が不意に悲鳴を上げて、ものの見事に玄関へと昏倒した。いつの間にかその後ろに、自分の生徒である長い黒髪の美少女が佇んでいる。まるでチョップをするように右手の手刀を構えているのは、何故だろうか。
「あ、ああ、南さん。お、お邪魔します」
「大変失礼いたしました、スズキ先生。どうぞお上がりください」
 ぺこり、と子供に不似合いな優雅なお辞儀をする少女の顔は全くの無表情で、担任が家に来たことによる高揚や拒絶は一切ない。それを喜べばいいのか残念がれば良いのか解らず、混乱しつつも鈴木はその促しに従おうとするが、その為には倒れ伏したままの男を跨がねばならない。
「え、えっと、この方は」
「お父様はあと30秒後に復活致しますので、ご心配なさらないでください」
「えええ……」
 信じたくは無かったが、この男が生徒の父親に間違いないらしい。呆然としているうちに小さな手に引かれ、鈴木は中に案内された。
 部屋の中はちゃんと片付いており、何も目立ったものは無い。敢えて言うなら本棚に、背表紙のカラフルな本が色々詰まっているが、娘の本棚なのだろうと思ってスルーする。実際は父の本棚なのだが、鈴木には気づけない。その他もっと大物の私物は、押入れの階段から続く地下の工房に全て詰め込んでいることも。
 卓袱台の前に生徒自ら案内され、お茶を注いで貰っているところで、後ろから動く気配がした。鈴木が振り向くよりも先に生徒の方が気づいたらしく、急須を回しながら父親に向けて声をかける。
「お父様、御目覚めでしたらどうぞこちらへ。スズキ先生がお待ちです」
「はっ!? すいませんまた寝落ちしてしまったようで! ありがとういろはたん、先生お待たせいたしました!」
「い、いえ……」
 実の娘をたん呼びする時点で正直どん引きだが、改めて卓袱台を挟んで向かい合う。子供の同席は強制ではないのだが、いろはは席を立つ気は無いらしく、自分の分のお茶も用意して父親の隣にちょこんと正座している。正直この父親と二人きりの方が精神的に辛かったので、心の中で密かに感謝しつつ口を開いた。
「え、ええと、それでは、改めまして。いろはさんの担任の鈴木と申します」
「はい! どうも、いろはたんの父の、南森一郎と申します! ……改めて父って名乗ると照れ臭いねいろはたん!」
「いろはにとって、お父様とお呼びするのはお父様だけです。どうぞご心配なく」
「いろはたああああん!! 僕は世界一の幸せ者だよー!!」
 どうしよう、話が進まない。先刻までは引いていた冷や汗があちこちからじくじくと湧いてくるのを止めることも出来ず、娘をぎゅうぎゅう抱きしめる父と無表情な娘の姿を見ているしかない。
 すると、ずっと戸惑っている担任の姿をどう思ったのか、いろはは少し緩んだ父の腕からするりと抜けだす。
「お父様、いろはは永久達と遊びに行って参りますので、どうぞごゆっくりスズキ先生とお話し下さい」
「えっ」
「うん? そうかい? 解ったよ、気を付けてねいろはたん!」
 鈴木の声が引き攣るが、父の方はさらりと快諾したため、すたすたといろはは外に出ていった。助けを求める鈴木の視線に気づいた風もなく、ぺこりとひとつお辞儀をして玄関を出ていった。
「……。え、ええー、それでは改めまして、まずいろはさんの成績についてなんですが……」
「ああ、どうぞどうぞ! すいません取り乱しまして」
 あ、自覚はあるんだ、と思いつつ、必死に堪えて鈴木は話し出す。
「学業については、全く問題ありません、クラスだけでなく学年でもトップクラスの成績です」
「いやいや、先生の教え方が良いんですよ!」
「運動についても、体育の授業は大変優秀です。休み時間の時は、あまり外で遊んだりはせず、教室で本を読んだり、ペットの蛙のお世話をしていますが」
 その部分を不安に思う教師もいるだろうが、鈴木はそこまで気にしない。個人の個性として、遊び方の好みは千差万別だろう。それよりも、どちらかと言うと、
「ただ……、遊ぶ際に、尾上さん姉弟以外、あまり一緒にいるところを見かけなくて……」
 こちらの方が気にかかる。正確には、あまり他の生徒が積極的に、いろはに話しかけないのだ。決して彼女自身、排他的な性格では無く、物静かではあるが問えば答える性格であることも知っている。問題として考えられるのは、
「その……大変申し上げにくいのですが、いろはさんはあまり、笑顔であることが少なくて……それで、気おくれしてしまう生徒さんもいるようで……」
 言いにくい言葉を濁し濁し、どうにか鈴木は語る。少ない、と評したが、今年の春に彼女の担任になって以来、実は、一度も笑顔を見たことが無い。人間離れしているほどに見目が整っている少女であるが故、不快感までは感じさせないが、冷たいと感じてしまう生徒も決して少なくないのだ。彼女自身があまりそういうことを気にしていないようなのも、それに拍車をかけている。言ってしまえば、クラスの中で、浮いてしまっているのだ。
 告げてから、この非常に娘を溺愛している父親に告げれば、怒るか嘆くかと身構えてしまったが、いつまで経ってもそれは来なかった。ただ、静かに、
「そうですか。それは先生に、ご心配をかけてしまったようで申し訳ないです」
「えっ、あ、いえそんな……! 私の力が至らないせいで!」
 ぺこりと頭を下げられて、鈴木は慌てた。しかし、頭を上げた森一郎は、あくまで穏やかな笑顔のまま、娘の担任教師に向かってはっきり言った。
「ですが、出来る限り、そのままにしておいてあげるわけにはいかないでしょうか?」
「と、申されますと……」
 言葉だけなら、突き放すのと変わりない。しかし、その声はどこまでも優しく聞こえて、戸惑いつつも鈴木は相手の声を促した。
「あの子が、本当に嬉しいと思った時に、笑わせてあげたいんです」
 先刻までのハイテンションが嘘のように、生徒の父はゆっくりと語る。
「いろはたんと出会ったのは、もう随分と前になりまして」
「は、はぁ」
 どうしよう、この人語り出した、と思いつつ、鈴木はその言葉に引っかかる。生まれた頃の事を、出会ったと表現する生みの親がいるだろうか? 以前の学校行事でも、母親の存在はこの家の中に感じ取れなかった。更に彼と彼女は、血が繋がっていない?
 そうすると別方面の事案すら下世話でもつい想像してしまう鈴木だったが、森一郎の言葉は止まらない。
「その頃から、あの子は笑わない子でした。いや……笑うと言う行為が、何の意味を持つのかも解っていなかったようなんです」
 つまり――施設かどこかで、引き取った子供だということだろうか。娘と顔立ちが全く似ていないところも加わって、ほぼ間違いないと思えてしまう。まだ教員としては経験の低い鈴木の想像では限界もあるが、だからこそついつい深読みをしてしまった。
「で、では……それを不憫に思って、お父様はいろはさんを?」
「いえいえ! そんな、おこがましいことは思いませんよ。……僕はただ、」
 おずおずとした促しは、目の前で手を振って否定された。南森一郎は、どこか照れ臭そうに、それでもはっきりと言い切った。
「あの子の笑顔が、ただ、見たかっただけなんです。きっと、普段と比べものにならないぐらいに、可愛いだろうと思いましたから」
「それは――」
 それだけのことで、子供一人を引き取って面倒を見るなど、とても覚悟を決められるものではないと鈴木は思う。しかし目の前の男性は、全く怯むことなく、ただ穏やかに続けてくれた。
「だけど、いえ、だから。笑うと言う行為を、あの子には手段にして欲しくないんです。あの子が本当に、笑いたいと思った時に、笑って欲しいんですよ」
 真っ直ぐな言葉が、鈴木の心に刺さる。笑わない子を、忌避されるからと言って無理に笑わせようとする行為が、果たして教育と言えるだろうか。結局自分も、型にはまらない子供を疎ましいと思っていただけではないのか。恥じ入って身を縮めてしまう鈴木だったが、南森一郎はあくまで優しく、娘の担任に対する願いを告げた。
「ですので、先生にはもう少しだけ、見守っていただきたいんです。……どうでしょうか?」
「……はい。お約束します。決して急かしたりはしませんので、私からも、いろはさんを見守らせてください」
 ほんの僅か滲んだ目尻を慌てて擦り、しっかりと保護者に向けて宣誓した。まだとても未熟な教師である自分が、どれだけ出来るか解らないけれど。
「ありがとうございます!」
「いいえ、こちらこそ……ありがとうございます!」
 ほっとしたように差し出された森一郎の両手を、鈴木は確りと握り返す。
 大部分は食い違っているが、肝心なところはきちんと通じたので、良しとするべきところなのだろうが、当然その事実も鈴木は気づくことはなかった。



 部屋を出ると、随分と話し込んでしまったらしく、日はかなり陰っていた。今日は他に周る家は無いし、問題は無いが。
 前庭では、いろはと尾上姉弟、そしてTシャツにジャージ姿の女性と一緒に縄跳びをしている。
「よーし次は何重跳びできるか勝負だー! いろはちゃん、永久、カウントよろしく!」
「は、はい! 頑張ります!」
「おう、やってやる!」
「頑張ってください、ハルキ、セツナ」
 夕焼けの中、遊んでいる子供達が凄く眩しくて、鈴木は思わず目を細めた。思えば、こういう光景が好きで、それを育む手伝いがしたくて、自分は教師を目指したのだ。そのことを、思い出した。階段を下りながら、その光景を眺めていく。
「はい! 刹那、4重いったよ!」
「ハルキは7重ですね」
「うそだろお前!」
「ふははは、わたしはまだ半分の力しか出していないぞー!」
 あ、と気づく。大騒ぎする子供達の中で、ほんの僅か、ほんの僅かだけれど。
 桜貝のような、いろはの小さな唇が、綻んでいるのを鈴木は見た。
 思わずその光景に目を奪われた瞬間、いろはがくるりとこちらの方を向く。もう既に、その顔はいつもの感情を見せない無表情に戻っていたけれど。
「スズキ先生、お帰りですか?」
「え、ええ! 南さん、刹那くん、永久さん、また明日学校でね?」
「はい、お疲れ様です先生」
「おー、じゃあなー」
「はーい! 先生さよーならー!」
 何故か一番大きな声で背の高い女性に答えられ、我慢できずに鈴木も笑ってしまった。そして、丁寧にぺこりと頭を下げるいろはに手を振りながら、鈴木は満足感を持ってその場を後にするのだった。


 ×××


 散々縄跳びで遊んだあと、「お腹減ったから帰る!」と春姫が駆け去っていき、夕飯前に宿題を済ませようかと刹那と永久が一度部屋に帰り。階段を軽やかに昇って、いろはも部屋に戻ると――卓袱台の上に、ぐたりと父親が突っ伏していた。
 いろはは慌てず騒がず、すたすたとその屍に近づいてそっと肩を揺らす。
「お父様、お疲れ様でした。家庭訪問は無事終了しました」
 その声に、ぎぎぎ、と音を立てそうな鈍さでゆっくりと森一郎の顔が持ち上がり――とても安らかな顔で、笑って言った。
「うん……いろはたん、僕はやったよ……! もう、ゴールしても、いいよね……?」
「はい、ごゆっくりお休みください、お父様」
 本日の明け方まで部屋の片付けと原稿に追われていた哀れな男は、僅かな仮眠では回復できない程の肉体及び精神ダメージを負っていたらしく、最早最後には普段のテンションすら保てなくなっていた。まあ却ってそれが担任教師にとっては幸いしたのだが、今一番睡眠を欲している男にとってはそれどころではない。
 いろはの言葉に安堵したのか、今度こそ森一郎の意識はふっと途切れた。完全に寝息を立てて動かないことを確認してから、いろはは細腕で彼の体を軽々と支え、手早く敷いた布団の上に転がし寝かしつけた。
 しかしその後、普段なら気にせず階下に降りて、食事室で刹那達と一緒に宿題をやるところを、動かず黙ってその姿を見つめている。
「……お父様。いろははいつか、お父様を喜ばせるぐらいの笑顔を、見せることが出来るでしょうか」
 先刻は先生の事を鑑みて席を外したが、ブルカ電子工業から追われている身として、父親の身辺の警戒を怠ることもいろはは決してしていないので。立ち聞きは行儀が悪いと解っていても、玄関の前に陣取った為、聞かずにはいられなかった。――決して自分に直接告げることは無いのであろう、父の望みを。
「まだ、難しいですが。きっといつか、出来るようになったら、お父様に喜んでいただけるでしょうか」
 自分には「感情」というものが存在することを、彼女は既に知っている。しかしそれを表に出すのは、まだどうにも難しい。ただきっとそうすれば、周りのひとたちはとても喜んでくれる筈だと、確信が何故か持てるので。
 僅かな焦燥が心臓替わりの宝石を動かし、ほんの少し、いろはの体が傾ぐと。さらりと流れた黒髪が森一郎の顔をくすぐったのか、ほんの僅か彼は覚醒し。
 ゆっくり伸ばされた森一郎の腕が、目算誤らずいろはの頭をぽん、ぽん、と優しく撫でた。
 ぱち、と目を瞬かせるいろはに対し、森一郎は再び眠りの底に沈んでしまったようだが。
「……だいじょうぶだよ、いろはたん……」
 とだけ呟いて、また僅かな寝息。暫くそれを見つめ、いろはは一つ頷く。
「やはり、いろはのお父様は、お父様しか有り得ません、お父様」
 父の睡眠を邪魔しないぐらいの小さな声だった筈だが、森一郎の寝顔はとても満足げに微笑んでいた。