時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

「真なる世界構築の一考察」

 ゆっくりと、慎の意識が覚醒する。瞼を押し上げ、枕元にある時計の針を確認する。昨日と寸分違わぬ時間に目覚めることに対しては、何の感慨も無い。
 一度凝り固まった思考を解き解す為に、睡眠は非常に有用だ。眠っている間に情報の取捨選択が出来る。
 昨日一日の考察、判断、記憶を言語に落とし込み、本日の情報取得を開始する。
 先日購入した書籍を朝食の前に読んでしまおうか。机の上に無造作に放ってある何冊かの学術書に手を伸ばして、階下の部屋から聞こえる僅かな生活音に、その手を止める。
 一瞬同時に止まってしまった思考を再び巡らせ、本をそのままに部屋を出る。慎の部屋は数年前に引っ越したこの一軒家の一室。隣の奥部屋は、慎曰くの赤い子豚――つまり望月市の紅きヒーローの秘密の乙女部屋であり、慎が動く気配を感じると飛び出してくることも多いが、朝はパトロールという名のジョギングに出ているので気取られる心配は無い。慎の部屋の前に当る部屋は、彼の従者ということになっている蒼竜の部屋だが、基本的に昼食までは絶対に起きてこない。
 故に、下の階にいるのは。
「……」
 無言のまま、階段を下りる。別に意識をしているつもりはないのだが、慎の足音は非常に小さいらしい。大抵の相手には、後ろから近づくと気づかず驚かれる。春姫だけは何故か勘で気がつくらしく、こちらの不意打ちも全てかわされることが腹立たしい。
 キッチンに立って朝食の仕込をしている、黒いシャツの後姿も、慎にまだ気づいていない。それが何故か僅かに苛立ちを感じ、スリッパを履いた爪先でぱん、と床を一つ叩くと、「ぅわっ」と小さく驚いて背中が揺れた。
「……あぁ、吃驚した。おはよう、慎」
 振り向いた青年は、僅かな衝撃から立ち直って振り向き、僅かに笑んで朝の挨拶をした。
 きりり、と僅かな頭痛に似たものを感じ、僅かに慎は眉を顰める。
 以前は――彼の元に訪れた時、彼は慎の姿とその魂の形を見て、恐怖のあまり気を失いかけた筈だ。それは慎が、嘗て彼を傷つけて全ての尊厳を奪い去り、屈辱を植えつけた存在の生まれ変わり――正確には「生まれ直し」た存在だったからだ。
 此処に来た直後は、そんな彼の心の機微を認識しても慎は頓着はしなかった。それよりも、己の魂がこの世に残した未練を解明する方が己にとって優先する事項だったからだ。
 それなのに。ほんの僅か数年の時間だけで、彼の中から恐怖が消えた。否、思い出さなくなった、と言った方が良いのか。少なくとも、彼は慎と嘗ての慎を、イコールで結ぶことは無くなった。
 一度そのことを指摘すると、ほんの少し困った顔をして、「それは、そうだろう。お前ももう、高校生になるんだから」と言われたが意味を理解するのに時間がかかった。少なくとも彼にとって、この数年はそれだけの時間だったらしい。慎には認識出来かねたが。
 この頭痛のようなものが、走るようになったのもその時からだと認識している。原因は、不明。情報が足りない。
 だが、彼にこのように声をかけられた時には、こう答えるようにと認識できているから。
「……おはよう」
 静かな声でそれだけ返すと、彼――道明寺斎はまた笑い、また慎の頭には僅かに痛みが走った。




 朝の邂逅から30分ほどで、どたばたという足音が家に駆け込んでくる。
「いっちゃん、ただいまー!! 今日のご飯何!?」
「おかえり、春姫。今日は親子丼だぞ」
「やったー!!」
 食事の準備を普通に手伝っていた慎は、その煩さに眉間へ皺を寄せる。春姫の嗜好により、この家の食事は大概丼ものだ。作る担当にリクエストを入れる者が春姫しかいないので、当然そうなるのだが。慎としても、食事の内容の差異による好悪など感じたことが無いので、何も問題は無い。問題は無い、筈なのだが。
「……」
「うぉ!? 何をするかこの小サムめー!」
「こら、二人とも朝から止めろ。春姫は手を洗って来い」
 無言で春姫の膝裏を狙った蹴りは、背中からいった筈なのにやはりかわされた。露骨に舌打ちをすると、反撃が来る前に斎にいなされる。「解ったー!」と素直に洗面所へ走っていく背中を見送り、斎がやれやれと溜息を吐く。
「慎も、いきなり攻撃は止めてくれ。騒がしいのが苦手なのは解るが……」
「……別に、苦手ではない」
「そうなのか?」
 僅かに驚かれて、慎の眉間の皺が消えずに深くなった。確かに静かなほうが心地よいのが確かだが、別にただ煩いことに関しては不快ではない。唯の雑音ならば、いくらでも無視できる。だが、あれの声は無理だ。聞き流すことが出来ない。何故なら――
『いっちゃああん!! せっけんがもう小さいのしかないー! 泡立たないから大きいの出していいかー!?』
「ああ、いいぞー」
 彼女の声には、彼が必ず答えるから。答えて、しまうから。
 ぎり、と僅かに強くなった痛みに更に眉を顰め、慎は己の米神を気づかれないように、指で押さえた。




 一人だけ賑やかな食卓が終わると、慎は学校へ行く準備をする。最初は行く意味が不明な場所だったが、人間の思考サンプルを収集するには良い場所だということは理解出来たので、別に不快ではない。
「――行って来る」
「ああ、いってらっしゃい」
「おー! いってこい!」
 二人の声に背を押されて家を出ると、同時に隣のアパートからも声が上がる。
「それでは、お父様。いろはは行って参ります」
「いってらっしゃい、いろはちゃん!」
「いってきまーす!」
「いってきます」
「うむ、気をつけて行け」
 父親と大家に見送られ、アパートから出てきたのは、慎と同じ鳴鈴学園高校の制服に身を包んだ女子二人と男子一人。慎の認識では、人間が一人と半魔がふたり。それ以上の情報を挙げるなら、
「あ、慎さん! おはようございます!」
「はよーっす」
 笑顔で答える黒髪の少女と、億劫そうだがちゃんと挨拶をする人形の少年。そして、
「おはようございます、慎」
 ――母と酷く良く似た造形の、母の臓器で稼動する、母と違う笑顔で微笑む自動人形。
「……おはよう」
 眉一つ動かさず挨拶を返すと、三人は笑う。彼らも、嘗ての慎に運命を狂わされた存在に違いないのに。
 極自然に、四人で並んで、駅までの道を歩き出す。いつの間にか、当たり前になってしまった行為。
 一番前をいろはと永久が連れ立って喋りながら、一歩下がってぶらぶらと刹那が、その数歩後ろを慎が歩く。たまに前の二人が話を振ってきて、後ろの二人がそれに答える。
「もうすぐ、父の日ですね。いろははお父様に何か贈り物を差し上げる予定です」
「いいね、南さんきっと喜ぶよ。わたしは……久しぶりにおじい様のお墓参りに行こうかな。刹那はどうする?」
「面倒くせーなぁ……まあ永久が行くなら、行くけど。慎は?」
 刹那が振り向き、問われた内容を暫し思考する。父の日とは、つまり父に当る存在に何某かを行う日なのだろう。いつも首から提げている護符の首飾りを指で弄しながら、慎は思考する。
 慎にとっての父とは、便宜上かの「魔王」になる。しかも生まれ直してからは、厳密に言えば父親にもならない。あくまで母だけで、慎を産み直したのだから。それでも、かの者が己の存在を見守っているのは解る。最早何の繋がりも無い子供に、魔界一の霊験がある護符を贈り、従者まで遣わしている。
 感謝は、ある。だが彼らの言っていることとは、若干異なる気がする。故に、慎は訪ねる。
「お前達の言う『父』の定義とは、何だ?」
 三人は一旦沈黙し、顔を見合わせる。
「血の繋がり……だけじゃないですね。一緒に暮らしている……だけでもないし。改めて考えると、難しいです」
 最初はおずおずと、両親のことを忘れさせられた永久が。
「難しく考えなくても、いいんじゃね? 自分がチチオヤと思った奴が、チチオヤでいいじゃん」
 またこいつは面倒くさいこと言いやがって、と言いたげな、永久以外の家族など居ないという刹那が。
「……」
 最後に、黙考していたいろはが、答える前ににこりと笑う。その笑顔に、慎は不穏なものを感じ、警戒を開始する。その笑顔は、嘗ての兄の一人である夢魔の男が、何かを企んでいる時に見せる笑顔に良く似ていたから。
「あくまでひとつの定義として考えてください。いろはにとってのお父様は、お父様です。いろはを目覚めさせてくれて、いろはに生きるということの指針を与えてくださった。勿論それは、永久も刹那も、斎も春姫も同じですが、一番最初は、お父様です」
 ちょっと照れくさそうに笑う双子に挟まれ、いろはは自動人形らしからぬ顔で笑う。
「それならば、慎・アーヴァレストにとっての『お父様』は、斎なのではないでしょうか? いろははそう結論付けます」
 そう、言われた瞬間。慎の眉間に全力で皺が寄り、危うく魔の力を解放しかけた。たとえどのようなことがあろうと、母に良く似た顔に蹴り等入れられるわけがないので、堪えることが出来たが。
 いろははそんな慎の葛藤を知ってか知らずか――やはり美しい顔で、微笑んでいた。



 学校の授業自体は、慎にとって非常に退屈なものだったが、人間観察を続けていれば何ら支障は無い。昼食はいろは・永久・刹那と弁当を食べる。本来人間と同じ食料を摂取するということ自体が、栄養補給という点から考えれば無意味である筈だが、毎朝斎が弁当を手渡してくるので続けざるを得ない。中身は極々普通の弁当で、一面米と丼の具材、ということはない。その事実は、何故か慎の箸の進みを早くする。朝いろはに言われた言葉が何かの拍子にすぐ思考を邪魔したので、彼女に向ける視線は非常に鋭かったが、相手は軽く受け流すだけで答えた。
 ただ帰り際に、「慎、いろはの言葉が不快だったのなら、何故不快だったのかを考えてみてくださいね」とだけ言って部活動である写真部へ行ってしまった。永久と刹那もそれぞれ部活に行っているので、大抵帰るのは慎ひとりだ。閉館まで図書室で本を読みふけることもあったが、今日は思考を纏めたい気分だった。
 帰り道を歩きながら、慎は黙考する。
 癪な部分はあるが、南いろはという存在を慎は無視することが出来ない。慎の一族にとって、母というもの、そして母の同一異体というものはそれだけ特別の存在なのだ。
「……不快であるという自体の理由と意味か。確かに、そこまで思考を伸ばした事は無かったな」
 思考の道標をつけるために、言語化して声に出す。
 己の感情の発露というものが、非常に乏しいということを慎は理解している。自発的に湧き上がるのはほんの僅かな不快。快というものを明確に意識するのは、思考が統制され結論が出た時だろうか。
 しかし乏しくあるが故に、それを認識した時点で思考が止まってしまっていた。何故不快と思うのか、まで考えたことが無かった。慎自身、この事実に気づかなかったのか業腹であったが、感情が思考を邪魔するのは普通の人間ならば当たり前であることを彼は知らない。
 行く場所が決まれば道筋を見つけられる。それだけの思考力と論理力が慎にはある。己が不快と感じた時のサンプルを全て思い出し、整頓し、結論を――
「……」
 ぴたりと、慎の足が止まった。顎に手を当てたまま、思考に没頭する。
 慎が不快と感じていた大部分は、春姫による小さな諍いが殆ど。たまに己を揶揄する従者や、入れ替わり立ち替わり顔を出して場をかき回す嘗ての兄姉達。それらと――今朝のいろはの発言に対する不快感が、全く異質であることに気づいたのだ。
 他のものならば、原因の存在を排除することで不快は消える。だが、あの言葉によって感じた不快は、その言葉を撤回させるだけでは消えることが無い。
 何故なら、その原因は。道明寺斎が「父親」という存在であることが、不快であると慎が感じてしまったからだ。
 それは何故か? ――慎・アーヴァレストは、道明寺斎のことを、ある一定の定義による「父親」とは認識していない。
 それは何故か? ――慎・アーヴァレストは、道明寺斎を、別の定義に拠って認識している。
 それは何故か? ――慎・アーヴァレストにとって、道明寺斎は、
「おい」
「――!」
 渦を巻こうとしていた思考が、声で切り裂かれた。目の前に立っているのは、平凡な容姿をした大学生ぐらいの青年――にしか見えないが、慎はすぐにそれの異質さに気づいた。その魂の端々から垣間見える、濃厚な「死」の気配を、慎は容易く嗅ぎ取ることが出来る。咄嗟に数歩下がって距離を取り、相手の出方を伺いながら問う。
「……魔王の第三子。<死の如く>フマクト。何用だ」
 魔族の腹を食い破って生まれたとされる、魔王の第三子にして次男坊。「死」という概念が形を成したもの。その名を呼ぶと、目の前の存在は、軽く肩を竦めて実にあっさりと答えた。
「こっちの世界じゃ、渡守仁蔵と名乗ってる。兄貴達に話は聞いてたが、お前――本当に『生まれ直し』たんだな」
 まっすぐ慎を見つめてくる目には、何の熱も無い。嘗ての慎が、己の死を模索していた際、当然だが彼の存在にも気づき、探したが見つけられなかった。そんな記憶が視線に出てしまったのか、「逃げるのは慣れてるんでな」と面倒くさそうに言われてしまった。
 そんな、彼を見て。慎は、過去の己は兎も角として、全く憤りを感じないことに気づいた。己が今、求めているのは、欲しくても叶わなかった永遠の死ではない。今知りたいのは、理解したいと望んだのは、もっと、別の。
「っ、!」
 そう思考した瞬間、ぎりり、と激しい痛みが脳髄に突き刺さる。堪らずぐっと己の米神を押さえた慎に対し、「おい、大丈夫か?」と暢気に声をかけた仁蔵は、無造作に手に持っていた荷物を慎に差し出す。
「うちの末っ子――お前をカウントしたら末っ子一個上かね? まあいいや、そいつがプロデュースした新作の魔界土産だとさ。帰るならついでにこっちへ持ってってくれって」
 あいつ変に律儀だから、奈落堕ちする前の知り合いとは顔合わせられないんだとさ。と慎には今ひとつ飲み込めないことを呟き、二箱の荷物を手渡す。
「一箱はお前んち、もう一箱は隣のアパートな。じゃあ頼んだぜー」
「……待て。お前は一体何を、」
 こんな下らない用事だけで己の前に姿を現したのかと慎が訝ると、歩き去りかけていた背中はくるりと振り向き、
「糞真面目なのもほどほどにしろよ。――こんなもの、そんな良いもんじゃねぇからさ」
 ひらひらと振る手が、一瞬だけじわりと黒い靄に変わる。それが<死>であると気づき、反射的に慎はそれをかわす体勢を取る。それを見て、仁蔵は満足げに笑った。
「俺が言うなら、すげぇ説得力だろ?」
 そんな、何とも言えない言葉を最後に、飄々と嘗ての兄の一人は去っていった。
 言われなくても、理解している、という言葉は、かける理由が見つけられなかったので飲み込んだが。



「……ただいま」
 精神的な疲れを感じたまま、慎は玄関を潜った。一つ目の荷物は既に、アパートの門前で出会った猫又に渡し済みだ。あの食い意地の張った猫のことだ、あっという間に一人で平らげてしまうだろうが、慎にとっては何の問題も無い。
「おや、おかえりなさい」
 ひとりで居間に寛いでいた慎の従者、好事家の竜・ブルーベルが立ち上がりもせず会釈をする。主を主とも思わない礼儀の様だが、慎は別に傅かれたいとも思わないので気にしない。
 いつもなら複数返ってくる迎えの挨拶が、今日はブルーベルだけ。そのことに気づき、自然と周りに視線を泳がせる慎を見て、ブルーベルが口の端で笑みを噛み殺す。
「春姫さんはいつものパトロール中、斎さんは町内会の集まりでお隣の大家さんとお出かけ中ですよ。夕飯の支度までには帰ると仰ってましたから、買い物してくるんじゃないですかね?」
「……そうか」
 お茶でも? と自慢の茶器を振舞おうとする従者を手だけで押さえて、無造作に土産をテーブルに放ると、一人がけのソファに腰を下ろす。普段は全く気にならない大気の息苦しさが不快で、制服のネクタイを僅かに緩めた。
「随分とお疲れですね。今日の思索はいかがでした?」
 望むものには辿り着けましたが? と言外に問われたので、嫌味か、という意志を込めて睨んでやる。またしても業腹なことだが、慎が現在全霊を傾けて思索している命題の答えを、彼は知っているという素振りをたまにする。それを問うても、これは貴方自身が気づかなければ意味がないことですから、と言ってはぐらかされた。どんな答えでも思考の取り掛かりになるのならば答えろと言い募っても、のらくらとかわされていた。
「拙速は私達の一族にとって愚考ですから、敢えて進言は致しませんが」
 生命一の寿命を持つ竜族の男はそう言って、アンティークの茶器を一口呷る。
「私が不思議なのは、恐らく答えの一部を担っているお相手に対して、何故問わないのか、ということなんですが」
「……奴の中に、答えはない。その結果は、既に出ている」
 嘗ての己がどうしても見つけられなくて、今の自分の至上命題となった、「彼」に対する執着の正体が何であるのか。嘗ての己も今の自分も、何度も彼に問うたのだ。解らない、何故なのか、と。
 しかし、嘗ての己のその問いにより、彼は全てを失って。
 今の自分が何度問うても、彼は困ったように首を傾げるだけで。
 いつの間にか、問うことを止めた。答えが無いのなら、時間の無駄だ。ならば別の観点から、サンプルを採取し、答えを導き出さなければ。
 再び思索に没頭する主をどう思ったのか、竜の従者はあくまで笑みを湛えたまま言う。
「うーん、なるほど。老婆心からもう一つだけ、言わせていただけますか?」
「……問題ない」
 警戒しながらも是を返すと、竜の男はにこりと微笑み。
「貴方は、原因を彼の中から探そうとしていますね。それは不可能と言わざるを得ません、執着の理由は貴方の中にあるのに」
 普段回りくどいことばかり言う男の言葉が、不意にまっすぐ慎に突き立ち、息を呑まざるを得なかった。
「貴方が調べるべきなのは、何故執着するのかではない。貴方は彼に何を望んでいるのか、です」
「それは、」
 同じことだ、と言いかけて、それが違うと理解した。
 反射的に立ち上がろうとして、玄関のドアが開く音に気づく。騒がしい声は聞こえない。必然的に、帰ってきた相手がどちらか解る。
 慎の意識に沸き起こったのは、何故今なのか、だ。この、ぐらついた衝動が皹割れた淵から漏れ出しそうな時に、何故帰ってくる、と。そんな慎の葛藤に恐らく気づいたまま、ブルーベルは笑顔で立ち上がる。
「もう貴方も、十分肌で理解している筈です。――サミュエル・アーヴァレストと慎・アーヴァレストは、魂の形が同じなだけの別存在。故に――貴方は彼の、」
「黙れ!」
 思ったよりも大きな声が出た。そう思考出来ないほど、慎の意識は千々に乱れていた。その先を知ってはいけない。違う、知ってはいるが、理解してはいけない。叫んだ瞬間、体中に、皹が入ったように錯覚する。
「どうした、慎? ブルーベル、一体何が……」
「ああ、お気になさらず。私は少々用事を思い出したので、これで」
 玄関ですれ違ったのだろう二人の声を聞いて、待て、と言わなければならないのに、声が出ない。
 その代わりに全身から溢れ出すのは、衝動。己の欲望から沸き起こるエゴ。
「慎?」
 今に斎が入ってくる。心配そうな、顔で。
 駄目だ。このままでは駄目だ。自分は一度間違った。間違ったと、理解している。だから、駄目だ。
「どうした、頭が痛いのか? まさか風邪でも――」
 両手で米神をぐしゃりと押さえ、蹲ろうとする慎の額に、斎の手が触れ――
「触るなッ!!!」
 ばつん!! と黒い光が、その手を弾いた。
「っ……!」
「――……ぁ、」
 痛みに顔を顰める斎をやっと視界に収め、慎の唯でさえ白い顔から血の気が引く。
「違う、」
「慎」
「違う、私、は、」
 衝動が止まらない。止められない。このままでは、己は彼の全てを暴きたてようとして、その喉笛を食い破ってしまう。――あの時と同じように!!
「ちかづくな、駄目だ、これは、私は、」
「慎!!!」
 今まで聞いたことも無い大声で、名を呼ばれ、反射的に肩を竦めた瞬間。
 カソックに包まれた腕が、目の前一杯に広がって、視界が黒に飲み込まれた。
「っ、何を、」
「落ち着け、慎。大丈夫だ」
 何を馬鹿な、と言う前に、背をゆっくりと撫でられる。何故、何故、と思っているうちに、頭も撫でられて、かくりと膝の力が抜けた。
「俺はもう、お前に」
 耳元で囁く斎の声は、いつもと変わらない柔らかさで。
「傷つけられたりしないから」
 その声が聞こえた瞬間。慎の体から、全ての鬼気が嘘のように抜けて、消えた。
 くたりと力を失った体を、斎はちゃんと支えてくれた。
 そして慎は――彼に再び会えた時、告げなければいけなかった言葉に、今、やっと気づく。
「……道明寺、斎」
「うん」
「……アズラフィル」
「ああ」
「…………すま、ない」
「……!」
「すまな、かっ、た……」
 今の醜態だけではなくて、彼に嘗ての己が与えた傷に対して、全て。心の底からの、謝意を。
 もっと言葉を重ねなければならないのに、それ以上どうしても何も出てこなくて、彼の胸の上で何度も唇を開閉させると、また柔らかく頭を撫でられた。
「……充分だよ、慎」
 優しい声に、首を左右に振ってどうにか答える。足りない、これだけでは、足りない。足りないと、ちゃんと慎は理解している。
「本当だ。お前にもう一度、会えたおかげで。俺も、こんなに強くなれたよ」
 だからもう、その一言だけで、充分なんだ。そんな風に、悲しみも憤りも、何も含まないただ優しい言葉を聴いて。
 慎の紫水晶の瞳から、じわりと雫が一粒滲んだけれど、すぐに斎の服に染みこんで消えたので、ふたりとも気づかなかった。



「……醜態を晒した」
 どれぐらい時間が経ったのか。斎の胸の上で、慎がぽつりと呟き。斎は笑って、そっと腕を解いた。
 それを、「惜しい」と思ってしまう己の思考に、慎は戸惑う。今まで蓋が被さっていた部分が急に開けたような、頭の中をおかしな爽快感が席巻している。
 人間で考えれば、単に思考が煮詰まってしまったことによるストレスを吐き出して解消した、ぐらいのことなのだが。今まで感情を排して理性のみを構築していた慎にとっては、まるで頭の中の霧が晴れたようだ。
 身を離し、まだ自分よりも背の高い彼をじっと見る。どうした? と眼鏡の下の瞳が笑っている。
 何故、彼と赤い子豚が話しているのを聞くのが不快であったのか。
 何故、彼を父親と呼ばれるのが不快であったのか。
 何故、自分はこんなにも、彼に執着しているのか。
 その答えは、明確に言語化出来ない。まだ慎は、その言葉を知らないし、理解してもいない。きっと理解するまでには、また暫く時間がかかるだろう。
 それでも。
 慎は、ひとつの答えが、胸の奥にすとんと落ちてくるような錯覚を覚えた。
 ずっとずっとずっと、考えていた問いの答えが、言語ではなく感情であったことに慎は驚く。そんな曖昧模糊としたものが、己の中には存在し得ないであろうものが、確かに此処に在ると認識できている。
「……やはりお前は……興味深いな」
「はは、またそれか」
 やっと言語化できたのはそれだけだったが、彼が笑ってくれたので、慎はそこで思考を打ち切った。
「さて、夕飯の支度でもするか。慎、手伝ってくれ」
「――問題ない」
 慎・アーヴァレストがその答えを完全に理解したときに、彼はまた涙を流すのかもしれないし、生まれて初めて微笑むのかもしれないけれど。
 今は何も問題は無く、慎は斎の後に続いて歩き出した。