時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

ラビット・コミュニケーション

 兎追駅からほど近い、古い街並みが残っている住宅街。その中に立つ、真新しげなマンションの目の前で、正木律はちょっと途方に暮れていた。手の中のメモとその建物名を何度も見比べて、咥えた煙草の先をぴこりと動かす。
「……マジでここ? いやー予想以上だわ、ここがUGN支部とか有りえんわー」
 いくら新しいと言っても、何の変哲もない二階建ての小さなマンション。規模としてはアパートと呼んでも差し支えのないレベルだ。いくらこの建物すべてが支部と言われても、あまりにも、しょぼい。田舎っつっても限度があるだろー、と律はしみじみ思う。
 オーヴァードの事件などろくに起こらない、何故此処に支部があるのか解らないとまで言われるUGN兎追市支部への辞令が下ったのはほんの一月前。霧谷雄吾はいろいろと骨を折ってくれたようだが、色々端折ってれっきとした左遷である。
 律がUGNで最も親しくしていた男が、組織を裏切り、支部ひとつ潰して逃亡した。自分には全く関わりの無い――そう事実、あいつは一言も言わずに行動した――事件であったけれど、疑いを晴らすと言うのは難しい。
 別に針の筵に座るのは慣れていたが、不快な事には変わりなかったし、どうすべか、と思っていた矢先にこの辞令。左遷には違いないが、正直有難かった。元々、仕事熱心な方では無かったし。
「いやーそれでも、セキュリティとかいいのこれ」
 マンションの入り口にカメラ付きインターフォンがあるが、世界の真実を秘匿するための組織にしては無防備にもほどが有る。どうすっかなー、と思案しつつも、結局律はぽちっとチャイムを押した。
『……どちら様でしょう?』
 固い女性の声が機械を通して聞こえた。緊張ではなく、警戒のせいによる固さだろう。向こうもこういうの押し付けられたら迷惑だろうしなー、と人ごとのように思いながら、律はマイクに話しかける。
「あーども。今日から此処でお世話になる正木ですー」
 インターフォンの向こうで暫く沈黙が続き、やがて『……入りなさい』と不機嫌が混じった声で許可を頂いた。同時に、部屋の鍵が開く音がする。
 普通の家の玄関にしか見えない入口の扉が開くと、茶髪をアップにした眼鏡の女性が、胡乱げに律を睨んできた。
「……この支部は基本的に禁煙です。煙草を消しなさい」
「え、マジで? 困るんですけどー。一応これ武器でもあるしー」
「緊急事態には許可しますが、それ以外では遠慮してください」
「えー」
 眼鏡の女性は全く譲る気は無いようで、律が煙草を消さない限り玄関からどくつもりもなさそうだ。うわーこの人真面目っこだなぁ、あんまり合いそうに無いなぁ、とこっそりぼやきながら、律は携帯灰皿を取り出し、紙巻きを潰す。それで眼鏡の女性は納得したらしく、どうぞ、と促してきた。
「私はこの支部で支部長のお世話を仰せつかっている、秋波春香と申します。まずは支部長に挨拶を。こちらへどうぞ」
 どう見ても普通の家の廊下を通り、リビングであろう部屋に入ると、そこは意外とちゃんとした事務所っぽくなっていた。
「支部長、お連れしました。今日からこちらに努める正木律さんです」
「御苦労、春香」
 部屋の中には他に人影が見えなかったのに、声が聞こえて律はあれっ、となる。きょろきょろとあたりを見回すと、窓側を向いていた椅子がくるりと反転した。
 恐らくこの部屋で一番上質であろう椅子に深く腰掛けているのは、どう見ても十かそこらの少女だった。
 黒が基調の所謂ゴスロリドレスで身を固め、ご丁寧に黒ウサギのぬいぐるみを抱えている。片目には医療用の眼帯がかけられており、その手の趣味の人から見れば垂涎ものの美少女だ。
 その少女をじっと見て、春香と呼ばれた女性に視線を移してまたじっと見て。
「何ですか、正木さん」
「えーと。あれ。支部長?」
「指をさすんじゃありません!」
 いまいち理解が染み込まず、思わず少女に向けてしまった人差し指をべちんと叩き落とされる。手加減が無かったらしく結構痛い。歯を噛みしめて手をひらひらさせていると、椅子に埋まっているように見える少女が口を開いた。
「ああ、これが支部長だ。こんな僻地まで、ご苦労だった」
 黒い少女は全く表情を動かさず、驚くほど抑揚のない声でそう告げた。
「支部長、そのような言い方は……!」
「春香、お前は少し黙っていろ。話が進みにくくなる」
「は、はい……」
 今まできびきびとしていた、秋波の気迫が一気に萎び、可哀想なぐらいしおしおとしている。笑っちゃ駄目だ、またしばかれると思いつつ、律は必死に唇の端を噛みしめて堪えた。
 そのうちに、黒い少女はぴょんと椅子から飛び降り、ぺたぺたとスリッパで歩きながら律の前に立つ。髪も黒いが、肌は殆ど日焼けしていないかのように白く、一つだけ見える目は赤かった。ウサギみたいだ、とこっそり思った律の心に気付いているのかいないのか、少女はぺこりとひとつ頭を下げた。
「改めて、挨拶しよう。私がUGN兎追市支部長、美墨朋だ。呼び方に拘りは無い、好きに呼べばいい」
「じゃあ美墨」
 反射的にそう応えてしまい、隣の秋波からカッとした殺意を感じたが、幸い堪えてくれたようだった。当の美墨はぱちり、と一度だけ目を瞬かせ、こくりと小さく頷く。
「……そうか」
「あれ、なんか呼び方まずかった?」
「いや……あまり呼ばれ慣れない名前だったから、少し驚いただけだ。別に構わない」
 およそ子供らしくない少女は、それだけ告げて完全に動揺を消した。まるで人形のような、虚ろではないが生気の籠らない視線を受けて、律はほんのちょっとだけ不満に思った。勿論、口に出すつもりは無かったけれど。
 律にとっても此処は、ごたごたのほとぼりが冷めるまでの仮寝宿でしかない。支部長が訳ありの美少女だろうと、そのお付きが色々残念な人であろうと、首を突っ込むつもりは無い。
 美墨の方もそう思っているのか、律の不躾な言葉を咎めるわけでもなく、ただ淡々と説明を続けた。
「お前にやってほしい仕事は、端的にいえば私の護衛だ。見ての通りこの支部に常駐しているのは私と春香の二人だけ。他は皆イリーガルだ」
「ふむふむ」
「そして事務系の仕事は全て春香が担っている。そうできる程度にはうちの仕事は少ないし、春香は優秀だ。しかし、私があまり自由に動けない身である以上、どうしても春香が支部を離れる事態が起きる」
「そういう時の為に、あたしが頑張ると。あいよ、了解」
 支部長に褒められて一気に機嫌の治ったらしい秋波が、軽過ぎる律の答えにまた歯を剥きそうになったが、ちゃんと察知したらしい美墨に、手をかざすだけで止められた。
「んーじゃあ、具体的には誰から身を守れば良いの? そういや此処にも一応FHセルはあるんだっけ、確か」
 記憶をどうにか絞り出して律が問うと、美墨は一度頷いてから、だが、と首を振る。
「FHに関しては、基本的に不干渉で構わない」
「そりゃまたどうして」
「少なくとも現在、私とFHセルリーダーの利害が一致しているからだ」
 どゆこと? と律が視線で訴えると、美墨がすいと視線を横の秋波に滑らす。得たりとばかりに頷いた秋波が、立て板に水の如く喋り出した。
「この兎追市に居を構えるFHセルリーダー、“動かぬ太陽”はFHに席を置くにも関わらず、レネゲイドの急激な散布やオーヴァードの争いに関し、制御と回避を望んでいるようです。それは図らずも、支部長のお考えと一致します。互いの組織による強制が無い限りは、無用な争いは起こりませんし、起こしません」
「へぇー。そんなとこもあるんだねぇ。じゃ、守るのは誰から?」
「それは――」
「私を、他のUGN幹部等の接触から守ってほしい」
 一瞬止まった秋波の隙に、さらりと不穏な言葉を言われてしまった。流石の律も一瞬息を飲み、秋波が「支部長!」と思わず口に出す。
 部屋の中に沈黙が降りる。ぽり、と頬を指先で掻いてから、改めて律が問うた。
「何故って、聞いても良いよね? 仕事だしさ」
「ああ。それが、“リヴァイアサン”から提示された、私がUGNに籍を置く条件だからだ」
「……美墨は、それを納得してんの?」
 お人好しな日本支部長が命じたとはとても思えない、理不尽としか見えない条件に律の眉根も僅かに寄ってしまう。一番噛みつきそうな秋波が、なんとも辛そうな顔で目を逸らしてしまったから、余計に。
 そして黒い少女はあっさりと、首肯と言葉で答えた。
「了承している。私はUGNという組織による保護を求め、“リヴァイアサン”はその条件を提示した。必要条件であると私も納得した。私と言う存在を、出来る限りこの世から消し去る為に、お前に力を貸してほしい」
 その言葉に、律は頷く以外の答えを見いだせなかった。理不尽さに噛みつき、組織に反抗するような若さはもう持っていない。納得のいかない事でも、噛み砕いて腹の腑に飲み込む事が出来る。
「ん……了解」
 そしてそう呟けば、美墨の表情は全く動かなかったけれど、僅かに肩が安堵したように下がったから。
 だから頷いて、手を差し伸べた。ぱちり、と赤い瞳が瞬く様にちょっと笑って。
「これからよろしく、ってことで、握手」
 ひらひらと手を動かして促すと、おずおずと少女の腕は伸ばされ、律の掌にひやりと冷たい小さな手が触れた。
 その後、「気安く支部長に触らないで頂戴!」とまた秋波が盛大に切れた為、色々な事が有耶無耶になってしまったが。




 兎追市での生活は、穏やかの一言に尽きた。
 本来の仕事である支部長の護衛に関しては、美墨が全く家から出ないのだから全く持って暇だ。身の回りの世話は全て秋波が行っており、やることと言えばたまに上がってくるイリーガルの報告書を見て判子をぽんと押すだけ。ちらっと見せて貰ったその報告書も、やれ訓練の成果がちょこっと出たとか、今日も一日異常ありませんでしたとか、実に大した事のないものばかり。支部に顔を出せば好きにしていて構わないと言う有難い言葉を頂いたので、遠慮なく応接室のソファで毎日ごろごろする日々を送っている。
 勿論秋波に見つかると雷を落とされるのだが、初日に見せたあからさまな敵意は大分なりを潜めていた。どんな事情が有ろうと、律の色々どうしようもない怠惰っぷりを見続けて、警戒する気が失せてしまったらしい。押し付けられる事務仕事をのらくらかわしつつ、律はそれなりに、ここの生活へ適応していた。
「それでは、そろそろ参ります……支部長、何かありましたらすぐにご連絡くださいね! 何を置いても駆けつけますから!!」
「解っている。律もいるから、心配するな」
「それが一番心配なんです!」
「うわーひでー」
 玄関先でスーツケースを脇に置いたまま、美墨との束の間の別れを惜しむ秋波に棒読みで抗議するが、当然無視された。
「くっ、いつも通り通信のみの定期報告でも良いでしょうに、どうしてわざわざ本部まで出向かなければならないのか……!」
「本来ならいつもそうすべきところを、報告だけで許して貰えていたんだ。たまには誠意を見せないとな」
「はい……」
 何でも、人員が増えたんだからちゃんと報告に来て下さいね、と霧谷からでかい釘を刺されてしまったらしい。美墨はいつも通りの無表情で、ほぼ倍以上の背丈がある筈の秋波に縋りつかれている。
「春香、そろそろ行け。飛行機の時間に遅れるぞ」
「はい……支部長、少しだけご辛抱下さいね。正木さん! 何があろうと、何を犠牲にしてでも、支部長を守りぬくのよ!?」
「アイヨー」
 やる気のない律の言葉で秋波の米神に青筋が浮くが、本気でそろそろ時間が拙い為に爆発は避けられたようだ。まさに後ろ髪を引かれるように、振り返り振り返り秋波はタクシーへ向かって歩いていく。乗り込んでもずっと窓にへばりついて手を振っていた彼女を見送り、律はやれやれと背筋を伸ばした。
「さーて、これからどうする?」
「どうする、とは?」
「いや、折角煩いお目付け役がいなくなったんだし、どうやって羽根を伸ばしてやろうかと」
 僅かに小首を傾げる雇い主と、腰を屈めて視線を合わせる。ぱちぱちと、長い睫毛が赤い瞳を撫でるのが見えた。
「休暇は残念ながらやれないな……春香がいない以上、お前にはここに詰めて貰わないとならない」
「いやちゃんとお仕事はしますよ? アイアムボディガード。ユーアーマモラレルヒト」
 ぴっ、と少女の鼻先に指を立て、いまいち要領を得ていない彼女に告げる。
「つまりあたしが居れば、ちょっとご近所の散歩ぐらいオッケーなんじゃないですかねぇ?」
「……」
 ぱちぱち、ぱち。大きな赤の瞳が、せわしなく瞬いた。きゅっと結ばれた少女の口端は、上下に動く様子は無い。
「ぶっちゃけワタクシは買い物行きたいです。もっと言うと菓子とかビールとか買いこんできたいです」
 結論を出せないらしい上司を、自分がこうしたいのだと誘導してやる。護衛の重要性を良く理解している彼女が、ならば一人で行ってこいと言うわけもない。
「…………三十分以内に、帰って来れるだろうか」
「余裕。五分で行けるコンビニあるよ」
 僅かな逡巡の後で問われた小さな声に、にやりと笑って答えてやると、少女の肩から僅かに力が抜けたようだった。
「良かった。それ以上離れていると、春香が異常に気付くかもしれないからな」
「え、なにそれこわい。盗聴とか盗撮とかしちゃってるの?」
「いや、勘で解るらしいぞ」
「なお怖い!」




 コンビニまでゆっくり、美墨の足に合わせても十分かからない。それなりの品ぞろえがある店内で、適当に缶と乾物を籠に放りこんで行く律の後ろを、とことこと黒い少女がついていく。
「何か欲しいもんある?」
「いや、特には」
 そう言いながらも、籠の中に増えて行くものを興味深げに見ている少女に、律も悪い気はしない。飲み物の隣にあるアイスボックスに、季節外れの梨アイスを見つけたので、二本手に取る。手早く会計を済まし、店を出た所で、「ほい」と無造作に一本美墨に手渡した。
「これは?」
「ガリガリ様。美味いよ?」
「……どうやって食べる?」
 安っぽいイラストのパッケージを引っ張り、首を傾げている少女に笑いを堪えつつ、袋を開けてやった。同じように自分も封を開け、がぶりと齧る。歩きながら久々の冷たさと甘さを遠慮なく味わっていると、漸く美墨も意を決したらしく、端っこの角をかじ、と口に含んだ。
「! 冷たいな」
「そりゃアイスだからね」
「はじめて食べた」
「マジでか」
「私が食べた事のあるアイスは、春香が買ってきてくれる、これぐらいのカップに入っている物だ」
「もしかしてはーげんとかぼーげんとかその辺?」
「? ああ、確かにそんな単語が書いてあったな」
「うわーいブルジョアだー、このひとたちブルジョアだー」 
 律の嘆きに小さく首を傾げながらも、安アイスの角を少しずつ、ちまちまと齧っている様は本当に子兎のようで。いつも静かな、宝石のような瞳が、好奇心を抑えきれないような輝きを奥底に見せているから。
「あー。んー。ごめんちょっとお節介言っていい?」
「何だ?」
「もうちょい、やりたい事とか欲しいものとか、言ってもいいんじゃね?」
 我ながら、らしくないなぁー、と思いながら、律はぼそぼそと言う。面倒事に首を突っ込むなんて、どう足掻いてもご遠慮したいのが信条なのに。彼女自身が納得して今の立ち位置にいるのなら、口を出す事なんて何もない筈なのに。
「……お節介、では無いだろう。私の事を気にかけてくれたんだろう、感謝する」
「あっ止めて普段全く使ってない良心がイタイ。眩しい」
 歩きながら、真っ直ぐ自分を見上げてこられてそんな台詞を言われ、律は思わず胸を押さえてがくりと肩を落とす。己の感情がそんなお綺麗なものではない事を十分承知しているのに、そんな疑う事を知らぬ眼で言われたら心臓が痛くなる。
 ふ、と小さく息を漏らす音が聞こえた。あれ、もしかして今笑ったのかな、と改めて視線を美墨の顔に戻すと、こちらを見続けていた瞳が僅かに眇められていた。これがどうやら、彼女に出来る精一杯の笑顔であるのかもしれない。
「そもそも……何かをしたいとか、欲しいとか、あまり考えた事が無くてな。少しでも希望を告げると、春香が何でも用意してしまうし」
「あーそれは解るけど」
「多分、私が本気で、今この場から逃げたいと告げれば、春香は何を捨ててでもそれを叶えるだろう。例えば、自分の命とか」
「……」
 律も全く同意見なので、沈黙することしか出来なかった。彼女の支部長に対する凄まじい愛は、それぐらいやっても全くおかしくない。
「そして私は、そこまでしたいと、欲しいと望む事が無いんだ。今の生活も気に入っている。地べたに這いずらなくても、己の両足で歩ける今の生活が」
「……そっか」
 てくてくと歩きながら、抑揚のない声で告げられる美墨の独白。彼女がどんな環境に生まれ、どんな生活を送って此処にいるのか、律は知らないし、知ろうともしない。そんなものをわざわざ引き摺りだして聞く趣味も無い。
「んじゃさ」
「うん?」
 僅かに日が陰ってきた、田舎の住宅街を並んで歩きながら。
「またあたしが仕事中に出かけたくなったら、付き合ってよ。秋波のいない時に」
 だったら良いでしょ? という気持ちを込めて、片目をぱちりと瞑って見せると、美墨は僅かに目を眇めた後、俯いた。
「……そうだな。その時には、付き合おう」
 彼女の声はいつも通り、抑揚のないものだったけれど。
 もしかしたらその顔は、笑っていたり泣いていたりするのかもしれなかったが、勿論律は覗き込もうとはしなかった。