時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

NEW-WORLD

時は三月、春。
出会い、そして別れの季節。



望月東高校の教室に、もうほとんど生徒は残っていなかった。在校生は春休み中だし、卒業生ももう殆どが家路につき、別れを惜しむ者達も三々五々散っていった。先生たちももう殆ど帰ってしまったのか、校舎内はしんと静まりかえっている。
そんな三年生の教室に、人影が二つ残っていた。クラス名は、D組。
自他共に認めるお祭り好きのこのクラスは、式が終わってすぐに担任と共に二次会だー!とばかりに街へ繰り出したので、わざわざそれから戻ってきたことになる。
何となく、「終わる」のはここでなければならないような気がしたのだ、お互いに。
野暮ったい学生服の上で、卒業生の証である桃色の花が揺れている。空いた窓から人気のないグラウンドを見下ろし、二人で黙っている。いつもは、こんな沈黙なんて起こらないのに。どちらかが馬鹿なことを言って、もう片方がそれに返す。ずっと、そうしてきたのに。
何故だか今、息をするより自然に出来ていた会話が、出来ない。
「…桜」
ぽつ、と呟いたのは、知の方が先だった。
「うん」
ぽつ、と漁太も返す。また、沈黙。
「まだ咲かない、な」
「まだ無理だろ」
「うん」
北の大地の最南端とはいえ、三月の初めにはまだ花は咲かない。学校の周りや、近場の公園に山ほどある桜の木も、今は新芽をどうにか増やしている程度だ。
「…向こうってさ」
また、知が呟くと、僅かに空気が緊張した。お互いここ暫く避け続けてきた単語を、舌の上に乗せてしまったからだ。向こう、という他者に言っても意味が掴めない、しかし二人の間では一つの場所しか指さないその単語を。
「まだ、雪あるんだって」
「おぅ…聞いた」
「うん」
望月からかなり北にある、庁所在地の街。この春から、漁太はそこの大学へ通う。美術部でもない癖に絵の上手いその技術が買われたらしく、特待生の話が舞い込んだのだ。漁太としては、いずれは実家の魚屋を継ぐことをぼんやりとでも視野に入れてきた身で、能天気な性格の彼も悩んだ。後押ししてくれたのは、他ならぬ知の言葉だった。
「折角やりたいこと出来るチャンスなのに尻込みしてどうするんだ、行きたいんなら行けよ!」と背中を押してくれた。
嬉しかった。しかしそれと同時に、寂しくもあった。
市外に進学や就職の為に出ていくのはここでは決して珍しくないし、事実半数近くの生徒が弦月市へ出ていく。そんな中で、対する知はこの街に残ることを選んだ。
表向きは、家の仕事を手伝う為。しかし実際には、どうしても動けない理由があるのだと、漁太も何も言われなかったけど何となく気づいている。
別にその理由を話してくれなくてもいい、ただ、自分が一時でも柵を振り解いて旅立とうとしているのに、彼だけがここに残ってしまうのが、申し訳なくて、寂しい。
きっと言葉に出したらまた「馬鹿じゃないのお前」と言われるだろうから、言わないけれど。
沈黙が続く。
考えているのは同じ事だ。
明日から自分達は、全く別の場所で過ごすことになる。
傍から見れば、大したことのない話の筈だ。高校で知り合って、友人として過ごしたのはたったの三年。今までの人生の中でも、これからの人生の中でも、大した長さではない時間にカウントされるであろうこの三年。
それなのに、そのたったそれだけの時間が、どうしてこんなに重いのか。離れがたいと思ってしまうのか。
答えは何となく、お互いの心のうちにある。
でもその答えを出してしまえば、避けられない別れが辛くなり過ぎる。

キーンコーンカーンコーン…

びく、と二人の肩が震えた。最後の下校の鐘だ。録音のアナウンスが校内に響く。これが鳴ったら、生徒は校舎から出ないといけない。
「………帰ろっか」
「………ん」
何も言わないまま、ゆっくりとドアまで足を進めて。
どちらが先にくぐるかと考えた時に、足が止まった。
漁太は知を見た。
知も漁太を見た。
一歩踏み出したら、終わってしまう。そう思ったら―――我慢できなかった。
ぎごちなく、だけれど二人の顔が近づく。目を閉じるタイミングが解らなくて、ぶつかる寸前で同時にぎゅっと瞑った。





「………っ!」
そこまで読んで、菜穂は耐えきれずに本を閉じてしまった。顔は真っ赤だ。そこに浮かぶ感情は、戸惑いもショックもあれど、何故か嫌悪は存在しない。
UGNの任務として弦月市まで出張したとき、現地のイリーガルである同い年の少女と行動を共にした。自分よりもずっと実力のあるその少女は、菜穂の顔を見るや否や眼鏡の奥の瞳をきらりと輝かせ、堂々とこうのたまった。
『君には、素質がある』
意味が解らずぽかんとしていた菜穂だったが、任務が無事に終了した後、彼女からこの本を渡されたのだ。気にいったのなら是非連絡してくれたまえ、と付け加えて。
市販されていないらしい、その不思議な薄い本を、どうしようかと迷いつつも結局帰ってきてから読むことにした。そこに書かれていたのは、自分が良く知っている人とその親友であるはずの人をモデルにしたとしか思えない、何とも面妖な小説だった。
最初は意味が解らなくて、だんだんと理解して、最終的にパニックを起こした。菜穂にとって知は、恩人であり、また憎からず思っている異性なのである。たとえ根も葉もない創作だとしても、こんな姿を見させられてしまうと、どうしていいか解らない。
解らない、にも関わらず―――菜穂はまた恐る恐るとだが、指を挟んだままにしていた本を再び開いてしまった。





触れ合っていたのは、ほんの一瞬だと思う。寧ろ、触れた瞬間驚いて、ぱっと離れてしまった。
羞恥と後悔が、一気に漁太の頬に昇る。勿論知も一緒だ。夕日に負けないほどに頬を赤くして、二人で黙りこむ。
「え…と、あの、うー」
普段他人に忌避されるぐらいに回る舌が全然動かない。
「その、そういうんじゃ、ないんだ」
「ん、うん」
主語の無い言い方だったが、知は頷く。何というか、今の行動は甘い感情からきた行為では無かった。衝動であり、情動だった。所謂恋愛感情なんて、有り得ないと二人とも胸を張って言える。一度唇を開いたら腹が決まったのか、漁太の言葉は止まらなくなった。
「けど、何か欲しかった」
「うん」
「仕方ねーじゃん他に思いつかなかったんだからさ!」
「うん」
「これで終わりなんて嫌じゃん!!」
「うんっ」
また同時に、両手を伸ばして相手の体にしがみついた。相手を慈しむわけではない、ただ子供のような我武者羅な抱擁。
「終わるわけねーって解ってっけど!」
「うん!」
「フツーに夏休みとか冬休みとか春休みとか遊びに来るし!」
「俺だって行くよ!」
「けど嫌じゃん離れるの!!」
「俺だって嫌だよぅ!!」
ここまできて、漸く。二人は本音を吐きだした。
「うわー! 俺かっこ悪いぃー!」
「俺もかっこ悪いー!!」
いつの間にか、抱き合ったまま二人でげらげらと笑っていた。僅かな感傷や涙など、それで全部吹っ飛んだ。何よりも、相手が自分と同じ思いでいてくれたことが、一番嬉しくて。
見回りにきた先生に怒鳴られるまで、ずっと笑っていた。





ぱたん、と今度は静かに菜穂は本を閉じた。ほぅ、と唇から洩れるのは安堵。
例え創作の中だったとしても、気になる相手が道を踏み外さずに済んだ―――という心ともうひとつ。
これから二人はどうなるのだろうか、という期待が僅かに滲んだ溜息だった。
自分のこの中の衝動がなんであるのか、菜穂にはまだ解らない。
その本を一回、二回と読み返し、期待の方がどんどん高まってくる。やがて耐え切れなくなった菜穂は―――立ち上がり、本と一緒に受け取っていた連絡先へ向けて、電話をかけた。
「………あっ、もしもし。私、先日お世話になりました宇治川ですけど…あっ、はい、そうです。あの、あの本、凄く面白かったです。何て言うか…苑内さんには申し訳ないんですけど…ええ、そうなんです。あの、それで………不躾なんですが、他にも何かお書きになってますか…? 本当ですか!? あの、はい、よろしかったら…! ありがとうございます、玖堂さん!」
その頃、電話を受けた相手である、ちょっと遠い弦月の空の下にいる玖堂真琴は、鷹揚に電話からの声に答えながら、にやり。と口の端を緩めていた。終始和やかに会話を終え、ぽつりと一言。
「…これで、ネタ集めと仲間の輪が更に広がる―――」
くく、と笑いを漏らし、真琴は心底愉快そうに空を仰ぐ。
丁度その頃、弦月と兎追で、同時に二回くしゃみが響いたかもしれないが、それを発した本人達は、自分達が妄想の中でおいしくいただかれていることなど、知る由もないのだった。