時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

はじまりの結び目

 風に乗って、糸が飛ぶ。
 人間が使う糸とは比べ物に成らないほど細い、僅かな粘着力を湛えた糸。
 所謂「蜘蛛の糸」と呼ばれるそれは、勿論蜘蛛が巣を張ったり、獲物を捕まえたり、移動の為に使うものであるが――
 ごく普通の住宅街、その彼方此方に張られたその糸の持ち主は、ただの蜘蛛では無かった。様々な家の壁や屋根、広場や公園の木々や遊具、その他色々なものに貼りついていた糸は、やがてするりと外れ――ある一点へ手繰られていく。
 やがて、小さな児童公園の丘の上、その上に座っていたごく普通の容姿である青年の手の中にその糸は納まり、どこかに消えた。ふう、と息を吐き、その青年が立ち上がる。
 服装も、ごく普通のTシャツにジャージ。顔立ちは平々凡々、何の特筆すべきところもない普通の青年だ。事実、犬の散歩などで僅かに通りかかる他の人々も、井戸端会議をしていた主婦達も、まるで注意を払わないほどに目立たない。
「……やっぱ不審者の目撃情報は、一個だけか。手がかりっていったらそれぐらいしか見つからねぇなぁ……」
 しかし、彼は人間離れしたある「特技」を使っていた。歩きながら、口元に二本の指を軽く当てると、まるで指笛を吹くようにふっと息を吐く。すると、その口からまるで煙のようにするりと、極細の糸が滑り出したのだ。
 糸は二股、三股、どんどん分かれ、まるで生き物のように街へ広がっていく。極細の糸は人間の目に見えることなく広がり、そこで行われる様々な会話を拾い、音の波として青年の耳に届ける。彼はそうして、情報収集を行っていたのだ。
 何故、一見普通の高校生にしか見えない彼がそんなことをしているのかには、当然理由がある。
 彼の住むこの街では、以前から誘拐事件が頻発していた。最初は半年前、次に三ヶ月前、次は一ヶ月前。段々と間隔が狭まっていく中、身代金要求も無く、子供の行方もまるで解らない。警察の無能さをワイドショーが声高に罵る中、その事件に不審な物を感じている者はそう多くない。
 誘拐されたのはごく普通の家庭の子供、5歳から7歳ぐらいの間。性別が女性という以外は、住んでいる場所も通う学校の共通点も無い。最初は猥褻目的の不審者では無いかと報じられ、一時期女児を子供に持つ親は戦々恐々となったが――それ以上の手がかりは、警察内部でも出ていないようだった。子供は人通りの多い通学路や、デパート内で行方不明になっており、しかし目撃情報が一切ない。この辺りは報道されない事実だが、青年ならば糸を使って聞くことが出来る。
 人間では有り得ない力を使って自主的に事件を調べる理由。
 それは、この事件の犯人も同じく、人間では有り得ないのではないか――という予想によるものだった。


 青年の名は、黄縞紬(きしま つむぎ)という。
 ご覧のとおり、彼は人間では無い。父は人間だが、母は違う。元々山奥に潜み、糸で巣を張り、その美貌と色気で男を誘惑し、絡めとって頭から喰らう――絡新婦、女郎蜘蛛と呼ばれる魔物だった。
 父と母の馴れ初めについては、紬は詳しくは知らない。一度興味本位で聞いたら、母が散々惚気た末に際どい顛末を事細かに語ろうとしたので、父が慌てて止めていた。少なくとも小学校就学前の子供には不適当な代物であったことに違いない。だが、息子から見てもかなり享楽的だがプライドは高い母が、魔物としての道を曲げてまで人間と歩むことを選んだだけの理由でもあるのだろう。
 現在、紬はそんな両親から離れて暮らしている。絡新婦の子供は、15になれば成人となり、親とは別の縄張りを持つのが常らしく、母から街を離れるように命じられたのだ。父は難色を示したが、紬は正直いつまでも親の脛を齧るのは嫌だったので、自ら望んで地元から離れた高校に進学した。容姿は父親似だが、性格は母親似だと良く言われる。
 そして、紬の体には絡新婦の血が確りと流れており、魔物の力を使うことが出来る。体内で糸を紡ぎ、様々な用途に使うことが出来るぐらいには。
 少しずつ糸を張り直し、また回収しながら、紬は溜息を吐く。この自主的な情報収集とパトロールを兼ねた行動を、二週間前から頑張っているのだが、成果は芳しくなかった。犯人が人間ならば、魔物の力を使えばすぐに解るのではないかという楽観があったし、犯人が魔物ならば、互いの縄張りがかち合ったらすぐにかかってくるのではないか――という目算は見事に外れ、実に地道な調査を続ける羽目になっている。
 面倒ではあるが一度自分から始めたことを、成果が出ないから止めるという気にはなれない。そういうところが、母親似だという自覚もあるのだが。
「……あんまり、何度も使いたく無いんだけどなぁ……」
 勿論、魔物としての力を使うにはリソースも必要で、ただ走ったり飛んだりするのとは違う疲労は確実に溜まってきている。出来ることならあまり魔の力も使いたくはないのだが――それでも。
 三人目の誘拐の犠牲者は、紬が通う高校の、クラスメートの妹だった。
 すっかり消沈して学校も休みがちなクラスメートに、同情したわけではないが。
 紬にとって、自分のクラス、自分の学校、そしてひいては自分が住むこの街は、己の巣=縄張りなのだという自覚がある。これは絡新婦としての典型的な自我(エゴ)であり、母もそれを持つが故に、自分の家や街に他害を起こす魔物が入ることを嫌う。支配や隷属に興味は無いが、己のものと定めた領域を犯されるのは我慢ならない。それは紬も同じだった。
 故に、苦手な調査などを頑張ってはいるのだが、まだ未熟な半魔である紬の力だけでは、中々成果をあげることが出来ない――そんな時、ある一本の糸から、不審な声を聞き取った。
 耳を澄ませば、それはまだ幼い少女と、紬と同年代であろう青年の会話だった。
『おお……何と美しい!』
『おにいちゃん、だーれ?』
『初めまして、麗しき芳醇な香りの乙女よ。不躾な呼び立てにも関わらず、足を止めて頂けたこと、このリシュヤ望外の喜びです』
 どうしよう、凄い不審者だ。
 一瞬そんな自問自答をしてしまうぐらいに不気味な声を聴いてしまい、思わず足を止める。いきなりここまでビンゴが来ると思わなかったので動揺したが、すぐに己を取戻し、聞こえた糸を手繰って走り出す。己の糸はどれだけ細く分かれようと、間違いなく見分けられるのだ。
 果たして、そんなに遠くない住宅街の路地に、目的の少女と男がいた。
「まず、その香りが素晴らしい。男などに汚されていない、正しく乙女。この国、この時代、嘆かわしくもこの素晴らしさを香らせる女性は貴女方のような年若い少女だけ――」
「今すぐその子から離れろ変態――ッ!!」
 少女の前に跪き、立て板に水を流すように喋り続ける男に対し、流石に怯えていたのか。全速力で走ってきた紬がその男の側頭部へ飛び膝蹴りを食らわすと、幼い少女はびっくりしたように、小さく悲鳴を上げて逃げて行った。
「嗚呼っ! 待ってください乙女よ! せめてもう少しだけその馨しい香りを――」
「まだ言うか!!」
 正直鳥肌が立つレベルで気持ち悪かったが、少女の無事を救えたことで少し余裕が出来たので、口から糸の束を紡いでぐるぐると男を縛り上げた。そこでじたばたとしていた男も観念したのか、漸く動きを止める。
「……お前が最近世間を騒がしてる誘拐犯か? 只の人間なら、このまま警察に突き出すとこだけど――」
「……これは……馬鹿な!!」
 透明な糸で簀巻きにされたまま、体を海老反りにしてこちらの睨む不審者は、今まで胡散臭げに見ていた紬も驚くぐらい、見目の整った青年だった。白金の髪に青い眼、肌も抜けるように白い。所謂お伽噺に出てくる「王子様」の容姿を現実にしたらこんな風になるだろう、というぐらいの代物だ。それが今、アスファルトの上に糸で縛られて転がされているのがまた何とも言えないが。
 そんな言動と行動と容姿が全く合わない青年は、真っ直ぐな目で紬の事を見つめ――まるでこの世の終わりかというように嘆いてみせた。
「君は――男ではないか!! 何てことだ、この僕としたことが匂いを嗅ぎ間違えて、男の攻撃にその身を委ねてしまうなんて……! 僕の純情を踏みにじった罪を謝罪してくれたまえ! さあ早く!」
「死ね!!」
 理解したくない言動だったが、貶されているのは解ったので、とりあえず思いきり踵で腹を踏んづけてやった。


 ×××


「――で? 何か言い残すことはあるか」
「よろしい、まずは話し合おう」
 なんだかんだと騒いだ後。
 先刻紬が腰を据えていた児童公園に変態の美青年を引っ立て、詳しい話を聞くことにした。ちなみに、彼の上半身は未だにしっかり紬の糸で縛られている。
 更に、人気が無いように見えるが、良く見ると正しく蜘蛛の巣のように二人の周りに糸が網目状に張り巡らされているということ。奇妙な光景だが、先刻のように周りの人々は何ら気にした様子もない。縛り上げられて正座した美青年と、その前のベンチに座る青年という二人に気づいた風もなかった。
 そして美青年も、その事実を気にすることなく、手も足も出ない状態であるにも関わらず堂々とした態度で、口を開く。
「この僕を騙すとは全く持って度し難いが、どうやら君は多大なる勘違いをしているようだ。ここで互いの齟齬を無くすという建設的な議題を話し合う為、まずは縄を解いて欲しいのだがね」
「捕まった変質者の分際で煩ぇな。いいから知ってることきりきり吐け」
 美青年の首にかけている一番細い糸を指先でついと引っ張ってやると、慌てたように更に言葉を重ねて来た。
「待て、落ち着き給え。僕の大事な命を君が握っていることは不本意ながら理解したので、まずは僕の方から語らせて頂こう。だから引っ張らないでくれたまえ皮膚がちょっと切れている」
「おう、でお前が誘拐した子達は今どこだ?」
 やっと向こうが従順になったので引っ張るのは止めてやり、笑顔で問う。少なくとも紬の中で、彼が人間では無く魔物である、という事実は揺るがない。人間ならば、少なくとも周りに糸を張った時点で意識を失う筈だ。疑う余地もない。
「だからまずは話を聞き給え! つまり君は、この一年でこの街に頻発している誘拐事件を魔物の仕業と考え、追っているのだろう? つまり、僕と目的は同じということだ!」
「――へぇ? 根拠は何だよ」
 とりあえず、いきなり縊り殺すのは止めて話を聞いてやることにする。疑いを晴らすためのはったりという可能性もあるが、やっと手に入れた手がかりなので逃したくもない。
「どの件でも、白昼堂々の誘拐事件であるにも関わらず、目撃情報が全くない。人間ならば不可能に近いそれも、魔物がアレナを展開させれば楽に行える」
 アレナとは、領域。正しく今紬がやっている、糸による目晦ましも同じだ。魔物が己の力を最大限発揮する為の、己の力場のようなものであり、内部に居る人間を無力化し、またその中に人間を入り込ませないようにすることが出来る。魔物ならば誰でも使える能力であり、これを使えば人ひとり誘拐する等容易い。
「また、誘拐の目的が不明なのも根拠のひとつだ。身代金目的ではなく、或いは胸糞悪い事この上ないが、悍ましい性的欲求を満たす為の暴力行為、及び残酷なる命を奪う行為は行われていない、と僕は認識している。――犠牲者がまだこの街に居れば、の話だがね」
「……お前には解るのか?」
 もしそれが事実だとするのなら、誘拐された子供達の貞操や命は無事であろうという希望になるが、何故そんなことが解るのかと訝しげに問うと。
「ふふん、僕の鼻を甘く見てもらっては困る。麗しくも幼い乙女がその花や命を散らすような嘆かわしい、痛ましくも勿体ない匂いはこの街のどこからも漂ってこないからね!」
「やっぱり変態じゃねぇかてめぇ――!!」
 全身に鳥肌が立ったので思い切り糸を引っ張ってやると、自慢げに胸を張っていた美青年は慌てて膝で立ち上がり首絞めから逃れる。
「待て! 落ち着き給え! これは僕の能力であり、決して変態的な趣味や欲求から出ているものではないと納得して頂きたい! 何故なら僕は、処女の守護者なのだから!!」
「おとめのしゅごしゃぁ?」
 聞きなれない言葉に心底不審げに問うと、相手も心外だと言いたげに眉を顰めた。
「そう! 穢れなき処女を守護し、祝福を与える聖なる獣――それが僕! 一角獣のリシュヤとは僕のことさ!」
「お、おう……」
 あまりにもそぐわない名前に絶句してしまったが、そういえばユニコーンと言えばその優美な姿と裏腹に、処女相手でなければ荒い気性を隠さず、もし目の前の女が処女では無かった場合怒り狂ってその女を殺すとか、意外と物騒な逸話が多い幻想獣だった気がする。人間の姿を取っているが、恐らく魔の力を解放すれば本来の姿に戻るのだろう。遥か昔から伝承された伝説の獣でもある為、その力は紬よりも圧倒的に強いかもしれないが――
「ああ、勿論僕もユニコーンとしてはまだまだ未熟な身だからね。もし強い魔物が相手なら全く歯が立たないだろうから、せめて誘拐された処女達を探そうと地道な聞き込みと、匂いの追跡を行っていたのさ。どうだい、信じて貰えたかな?」
「ああ、取り合えずお前が変態だってことは揺るぎなく信じたけどな」
 言いながら、紬は呆れたように――指をくると回して、彼の全身を縛っていた糸を解いた。いきなり解放されて相手も驚いたらしく、大きな瞳を瞬かせている。
「悪かったな、こっちもあんまり成果が無くて気が立ってた。俺の方も、手がかりって言ったら不審な聞き込み続けてるお前の目撃情報しか無かったんでな」
「ううん、それもまた不本意だが、解放してくれたことには素直に礼を述べよう、男相手には珍しいことだから君も感謝してくれたまえ。――そうだ! 納得のいかないことが一つあるぞ!」
「何だよ」
 紬としてはこれでひと段落したつもりだったのだが、食いつかれて内心戸惑う。また縛り上げてやろうかな、と割と容赦なく考えた時、リシュヤはずずいと顔を至近距離まで近づけてきて――ふんふんふんっ、とその首筋に顔を埋めて来た。
「っぎ――」
「やはり……! 何故だ君! 魂は紛れもなく男である筈なのに、この体から匂い立つ芳醇な処女の香りは! 納得いかないぞ! この僕の鼻を惑わせるなんて、一体君は何者だ! この絡繰りについて白状しなければ、僕は昼間も寝られず夜寝てしまうじゃないか!」
「健康的な生活送ってんじゃねぇかこのド変態!!!」
 紬の両肩をがっしりと掴んだまま叫ぶ美青年に対し、鳥肌が堪えられなくなった紬は怒りのまま、手加減なしの拳をその美しくも必死な顔にめり込ませた。


×××


「嗚呼、何てことだ。僕は自分の鼻を疑ったことなど無いし、絶対の自信を持っていたというのに。もしやこの国では有名な、カフンショウとやらに罹患してしまったのだろうか。嘆かわしい」
「何でついてくるんだよお前」
 場所をこの街で一番賑やかな、複合マーケットの店舗に移し、情報収集を続ける紬の隣にちゃっかりと腰かける美青年が一人。先程思い切り殴られた顔は、既に傷一つ無く治っている。怪我や毒の治療は、ユニコーンとしてはお手の物らしい。正体は馬であるから足も速いらしく、縛り上げて放置してもいつの間にか脱出して追いついてきた。
「説明を求めているからだよ! 何度確認しても君が男である事実は揺るがない、しかし君が内包する香りは乙女そのものだ! 納得のいく説明が無ければ、僕が確信していた誘拐の犠牲者達の無事も危ういことになってしまうじゃないか!」
「俺もあんまり信用してないから安心しろよ」
 隣の煩い変態を往なしながら、先刻と同じようにこっそりと糸を張りながら辺りを見回す。この小さな町では、幼稚園など以外で沢山子供が集まることの出来る複合施設はそう多くない。人ごみを気にせずに反抗を行う犯人ならば、狙いにくる可能性が高いのではないかという山を張ったのだ。キッズスペースとゲームコーナーが隣接する騒がしいフロアでは、隣の青年が煩くてもあまり気にされることは無い。
「なんと無礼な! まず僕が誘拐犯として疑われた時点で非常に不愉快だ! いいかい、僕は確かに処女を愛し守護するが、人の世に徒に干渉し、かどわかしなど行わないぞ! 余程気に入った乙女がいれば傅き見守り、膝枕をしてもらうぐらいだ!」
「きもい」
 しかしいい加減苛立ったので、歩きながら向う脛を思い切り蹴ってやった。ふぐぅ、と僅かに悲鳴を上げて蹲る隣を見て溜飲を下げ、再び周りにばれないように糸を繰り出した時――
 ざわりと、世界が揺れた。
「っ!」
「これは――」
 違和感に気づいた時は、もう遅かった。
 全ての音が停まり、辺りには酷く甘ったるい、果物が腐ったような匂いが充満し――周りの人たちは、今までの騒がしさが嘘のように、眠ったように動かない。
 しかし、この世界で幼子一人を浚うなど、一瞬で十分であるのも解った。犯人であろう者の姿を探そうとするうちに、アレナは縮小され、辺りに再び喧騒が戻ってきてしまった。
「くそっ……!」」
「来たまえ! こっちだ!」
 悪態を吐くと同時に、腕を引かれた。驚く間もなく、リシュヤが紬の手を取ったまま駆け出す。やはり馬である故か、その走りは紬よりも遥かに速い。つんのめりそうになりながらも、慌てて追う。
「おいっ! 犯人見たのか!?」
「いいや! だがあの不愉快な腐臭は消せないとも! 匂いの濃い場所を追っていけば解るさ!」
 相手の能力の残り香を追っているのか、鼻を僅かにひくつかせながらリシュヤは走る。奥の階段を屋上の駐車場まで駆け上がると、平日故に空いている駐車場をゆっくりと歩く、子供を抱いた女を一人捉えた。
「待ちたまえ、そこの乙女にあるまじき女!」
 失礼すぎるリシュヤの声にくるりと振り向いたのは、酷く顔色の悪い女だった。
 美しくはあるが、健康的とは程遠い。目の下の隈と、赤紫に近い唇が、その女が尋常ではない様子を醸し出している。声をかけた青年二人が魔物であると解ったのか――その顔を見る見るうちに、怒りに変える。ぐったりと動かない人間の少女を、その両腕でしっかりと抱きしめながら。
「……半魔風情が、何の用? 私の赤ちゃんを取り返しに来たの?」
「ふん、処女でも無いくせに偉そうな口を利くじゃないか。その子は紛れもなく人間の穢れなき乙女だ、限りある地球の資源を独占するつもりかい? 天地も許さないし僕も許せないぞ!」
「……変態すぎて全然かっこつけられてねぇぞ……」
 鬼気迫るようなぞっとした風情に、一瞬臆した紬と対照的に、あくまでリシュヤは快活に言葉を発した。彼にとっては例え相手が何者だろうと、判断基準は処女か処女で無いかだけで、己の舌を改める気は無いのだろう。そのおかげと言うのは癪だが、すっかり緊張が解けたので、腹に力を入れて女を睨む。
「その子、人間なんだろ。今まで浚ってきた子も全部帰してもらうぜ」
「かえす――帰す? 何を言っているのかしら。この子はもう私の赤ちゃんよ?」
 どうも、こちらと話を通じさせるつもりは一切ないらしい。相手を一段か二段下に見ている女のその瞳は、人間と人間に与する魔物を心底軽蔑しているのが余裕で知れた。人間がいくら嘆き悲しもうが、彼女の琴線には何も響かないのだろう。
 その態度が、紬の癇に障った。人間の中に隠れ住みながら、人間を見下す魔物は、その力故にこの世界には大勢いるのは知っているが――だからこそ、気に食わない。
「ふざけんなよ、てめぇのエゴだけぶん回す魔物風情が。人間の世界で魔物が生きてく以上、守らなきゃ駄目な境界ってもんがあるんだよ。ルールが守れないんだったらその内側に入ってくんな、ただの迷惑なんだよ」
 不機嫌そうに言いながら、口から糸を手指で紡ぎ出す。逃がすつもりは無いが、他の犠牲者がどこに監禁されているのかを調べなければならない。
「止めて! 私の赤ちゃんに、触らないで!」
 攻撃の行動とみなしたのか、女はぎりっと歯を噛み締め、子供を確りと抱え直すと――その背から、ばさりと巨大な翼を広げた。
「げっ!」
「ハルピュイアか!? 何故お前のようなものが人の子供を――」
 リシュヤが呼んだのは、嘗てある島国で風を司るとも言われた女神の名。その身は零落し、人を襲う怪鳥として忌み嫌われていたと言うが――子供を浚うような生態は聞いたことが無い。
 しかし今は、相手の正体など気にしている暇はない。紬が手早く、ありったけ放った糸は、そのほとんどが羽ばたきの風圧で吹き飛ばされたが、それでも一本を、正体を現した彼女の蹴爪にかけることに成功した。羽を大きく広げて、駐車場の壁際から飛び去る姿を目で追い、紬は声を荒げる。
「逃がすかよ!」
「その糸を辿れば良いのかい? しかし、追いつくには羽が無ければ厳しいね」
 其処まで喋って、ふと同時に思い至り、二人で顔を見合わす。紬はにやり、と顔を緩め、リシュヤは嫌な予感を受けたらしく顔を引きつらせる。
「待て。待ちたまえ、君。いいかい、僕はユニコーンでありペガサスではないよ。背中に翼など背負ってはいないよ」
「俺が走るよりかは断然速いよな。人目は俺が糸張ればいいし」
「僕は乙女の守護者だよ! 純然たる処女以外はその背に乗せたくないし、膝枕だってされたくないんだ!」
「爽やかに変態臭い願望を告げるんじゃねぇ。――緊急事態だ、逃げるな!」
「いやあああああっ!!」
 女のような悲鳴を上げて逃げようとする馬の首に、紬はもう一度糸を束で引っかけた。


×××


「ううう、男の尻の感触なんて地獄だよ。この気持ち、君には解らないだろうね」
「ぐだぐだ言うな、ほらこっちだ走れっ」
 夕暮れ時の街中を、蹄の音も高らかに馬が走る。道では無く、塀や屋根、はたまた電線を踏み、跳ぶように。毛並みは純白、優美な首、額の真ん中に伸びる捩れた角は好事家でなくても美しいと感じるだろう。
 そんな姿を晒しながら、ぐずぐずと不本意そうに嘆く馬に堂々と跨り、尻をぺしぺし平手で叩きながら紬は己の糸を辿る。段々と街中から外れて来たので、どうやらあのハルピュイアが潜伏しているのは山の中らしい。
「――時に、君。先刻は中々の啖呵だったね、まるで正義の味方のようだったよ」
 ふと、諦めたのかあるいは意趣返しか、走りながらリシュヤがぼそりと言う。どこか揶揄のように聞こえたので、紬も不機嫌そうに返す。
「どこが正義だよ。こんなのはただの、俺のエゴさ」
「ふうん?」
「ああいう魔物が増えるとな、人間のルール守ってこっそり隠れ住んでる俺らが大迷惑なんだよ。好き勝手やってる奴らが大手を振って、真面目にルール守ってる奴が虐げられるってどう考えてもおかしいだろ、納得いかねぇよ」
「……ふむ、そういう考えこそが魔物の間では稀有だと思うがね」
 やはり呆れたように、純白の馬はわざとらしく溜息を吐いた後。
「ただ、君の考え方には説得力があるし、納得できる。僕も人と関わってずっと生きて来た魔物だ、互いのルールは尊重したい。男にしては悪くないことを言うじゃないか君」
「……褒められてんだよな?」
「そうだよ。この僕が、男を褒めるなんて五百年に一度あるかないかだ、自信を持ちたまえ」
「なんでそんな偉そうなんだよ変態の癖に」
「だからそう何度も変態と――あっ尻を動かすのを止めてくれ! 感触が! 感触が背中に!」
「うるせぇ! 馬乗るのなんて初めてで据わりが悪いんだよ!」
 やいやいとやり合いながらも、紬の顔には笑みが浮かんでいた。今まで、自分が知っている魔物と言えば母以外は、自分のエゴだけを人間や半魔にぶつけてくる高慢なものばかりだった。こんな風に互いのことを話し、認められたり褒められたりするなんて初めてで――嬉しくないと言ったら嘘になる。相手は変態だけれど。
 一人では無い、ということが悪く無くて、嫌がらせ代わりに思い切り首に抱き付いてやった。相手が人間の体ならまだしも、馬ならそんなに不快では無い。あくまで自分だけは。
「うわあああ止め給え! 男の肌触りが! 温もりが! 匂いはやっぱり処女じゃないかっどうなってるんだ!」
「いーからとっとと走れよ! 多分そろそろゴールだぜ!」
 散々騒いだが、山中に続いている糸を手繰りながら木々の下まで降りたあたりで、二人ともごく自然に会話を止めた。
 慎重に歩を進めると、やがて自然の中に不自然なものが現れる。森の木が茂る中に、沢山の枝葉を集めて作ったのだろう、人が数人余裕で入れそうな天蓋つきの鳥の巣が、鎮座している場所に辿り着いた。
 出来る限り身を低くして中を伺うと、奥まったところから子供の泣き声が聞こえる。思わず声をあげかけると、いつの間にか人の体に戻っていたリシュヤに手で塞がれた。
「おかあさん、おかあさーん……」
「よしよし、いい子いい子……ママがお歌を歌ってあげますからね……」
 異形の腕に抱かれ、すっかり怯えて泣きじゃくっている子供を、先刻の女――ハルピュイアはあくまで優しく撫でてやっている。その姿は正しく、我が子を慈しんであやす母親のようにしか見えないのだが。
 しかし、夜目も効く紬の目は、更に奥まったところに打ち捨てられている悍ましいものも、同時に視界に捕えていた。
 やせ細ってぐったりと動かない少女達。僅かに胸は隆起しており、生きてはいるようだが――その顔の一つには、クラスメイトの面影が僅かにあった。
 もう一つは、子供達が寝転がる寝台らしき藁の上、その真ん中にまるで祭るように置かれている――赤ん坊が入るぐらいに巨大な、卵の殻。粉々に割り砕かれ、中に何か入っている様子は無い。
 ぞく、とその光景に背筋が震え、ぐっと手を握り締めると、泣き止まない子供に対し困ったような顔をしていたハルピュイアは、そっとその子を、子供達が並ぶ柔らかそうな寝床の上に横たえる。
「今ご飯を取ってくるから、いい子にしているのよ?」
 そう言って、巣の入り口まで歩いて来て、羽を広げようとした瞬間――待ち構えていた紬の糸が、首に引っかけられた。
「っ! く――!」
「出てこい、おらァッ!」
 人質に手を出されなければ遠慮する理由もない、力いっぱい引っ張ると、空を飛ぶものとしてやはり体重は軽いのか、鳥女の体は巣の外に放り出された。
「頼むぜ、ユニコーン!」
「任せたまえ! さあ少女達、僕の角に触れたまえ! その白魚の手で優しく!」
 だから言動が変態臭いんだよ、と思いつつ、紬はハルピュイアの進路を塞ぐ。鳥の巣に飛び込んだリシュヤは額に角を生やし、泣いていた子供や動かない子供達にそっと角先で触れてやる。するとそこから見る見るうちに柔らかい光が注がれ、子供達の呼吸が安らかになった。ユニコーンが処女に捧ぐ祝福は、消えかけていた命すらもあっという間に癒してみせたのだ。
「何をするの! 私の赤ちゃんに触らないで!」
「誰がお前のだ! 死にかけたらすぐ次って、考えなしにペット飼う奴より性質悪いぜ!」
 しかしハルピュイアは激昂し、翼を広げて紬達を威嚇する。勝手すぎる言い分に紬の方が怒ると、彼女の眉間に限界まで皺が寄った。ぎょろぎょろと鳥の瞳孔が揺れ、怒りというには生温い絶叫が、紬の耳を劈いた。
「何を、言って、いるの? わたしの、赤ちゃんが――死んでいるわけないわ!!!」
「っぐ……!」
 絶叫と共に、凄まじい風が殺到する。最早、紬の背中に自分の巣があることすら認識していないのか、目を血のように赤く染めて風を放ってきた。
「うおお! 大丈夫なのかい! 君が死んだら僕はすぐさま命乞いするぞ!」
「情けねぇこと、言ってんな……!」
 それでも少女達を自分の身で守ろうと必死なのは見えたので、変態としてもその辺は認めてやってもいい。改めて、狂った鳥女を見据えてから、目を閉じる。
 体に被っている殻を、少しずつ割るイメージ。今自分に、手足が合わせて四本しかない事実を否定する。本当は、もっと多い――この倍だ。
 みしり、と脇腹が震え、そこから飛び出してくる。同時にその棘の生えた手足は、服を破り捨て、体を黒黄の縞体毛が覆う。
 それと同時に、角ばった男の体が、柔らかい隆起を誇る女の線に代わる。際どい部分は体毛が隠してくれるが、それが却って妖艶な魅力を発するようになる。
 何よりも変化したのは顔立ちだ。平々凡々な青年の面影は消えさり、蠱惑的に真っ赤な唇から鋭い牙が覗く。顔に縞の文様が走り、目は煌々と金色に輝いた。
 人と蜘蛛が入り混じったような、紛れもない異形である筈なのに、美しさを感じてしまう姿。これが、絡新婦としての力を全て解放した、紬の姿だった。
「なんと――」
 驚愕するリシュヤの声が、背中に聞こえる。恐らく彼の鼻は、実に正常且つ有能なのは間違いないのだろう。紬は確かに男として生まれたが、魔の力を使う毎にその身を女に近づける。絡新婦が女のみの魔物であり、本来なら男の血肉を食らって必ず女子を孕むところを、人間を愛し父と契った母が、その腹に宿した子供であるが故なのだろうと思われる。紬の意識としては己が男であることは間違いないので、こうやって本当の姿を晒すのはどうにも据わりが悪い事実でもあるのだが――今はそんなことも言っていられない。本気を出さなければ、この魔物に勝てない。
「舐めないで、小蟲如きが……!」
 年若い半魔であることはハルピュイアに見抜かれているらしく、女は激昂のままに空へ飛びあがる。例え異形化しても空を飛べる能力が無い紬には、追うことなど出来ない、筈だったが。
「逃がすかよ、小雀がっ!」
 紬の糸は、既に女の体に巻かれていた。その細さから気づかれることは無いが、例え風や翼、蹴爪で振り払っても、伸びるだけで千切れることはない、厄介な代物だ。そしてそんな糸を自在に手繰り寄せられるのも、紬だけだ。
 空に浮いた者にかけた糸を手繰った結果――紬の体は、いとも簡単にハルピュイアに肉薄した。絶対の優位である空をあっさりと侵略された鳥は、驚愕を顔に張り付けたまま、四対の脚でその身を抑えられ――
「っ、ガアアアアアアッ!!」
 その美しい唇から伸びた、毒の滴る牙を喉笛に突き立てられた。


×××


「――卵の中に、干からびたようなものの跡が残っていた。恐らく、あの女の子供だろうね」
 気は失っているが、命に別状がない子供達を、こっそり病院の近くへ置いてからアレナを切り、一報を入れた。恐らく今は警察やマスコミも押しかけて大騒ぎになっているだろうが、そうなる前に紬とリシュヤはとっとと離れていた。
「何が原因かは解らないが、恐らく生まれることが出来なかったのだろう。それを認めたくなくて――人の子供を浚っていたのだろうね。幾ら食事だけ与えても、あんな環境だ、人間の体も心も容易く衰弱する。彼女はそれすら、気づけなかったのだろうけれど」
「……同情してんのか?」
「まさか。あの女が麗しい少女達の命を危険に晒したことだけは間違いないのだから、その時点で僕に同情の余地は無くなるね。――君こそどうなんだい? 哀れだと思うかい」
 隣を歩きながらそんなことを言う一角獣に、そいつから借りたコートを羽織っている自分としてはあまり強く言えないのが辛いところだ。……相手も馬になったりしている癖に、服の着脱は自由自在らしいのが悔しい。こちらはいつも破いてしまうから、安物しか着られないのに。
「……自分がどれだけ辛かったからって、他人に八つ当たりは無しだろ」
 だからそれだけ、ぶっきらぼうに言ったのに、何故か変態の一角獣は嬉しそうに笑った。
「ふふふ、そうだね。やはり君の言葉は理に適っている」
 その顔に気持ち悪さと僅かな嬉しさを同時に感じていると、急に顔を両手で押さえて嘆き出した。
「だからこそ、惜しい……! 何故もとに戻ってしまったんだい! あの麗しくも美しい良い香りの絡新婦のままでいてくれたら僕は遠慮なくその太腿に顔を埋められたのに!」
「止めろ。止めろ」
 リシュヤの言葉通り、紬の姿は既に男に戻っている。戦いの最中は平気だが、一時の高揚が過ぎた後もあの格好でいるのはどうにも恥ずかしいし落ち着かない。……素っ裸にコート一枚羽織っている今の姿は見咎められたら何も言えないので、早く家に帰りたい。
「んで、何でお前ついてくるんだよ。このコート、別に回収の必要無いんだろ? 幻術で作ったようなもんらしいし」
「何を言う! 永遠の処女の香りを纏った上掛けを回収しない理由なんてないじゃないか!!」
「やべえ帰ったら速攻燃やすわこれ」
「何と殺生なことを! 後生だ! 後生だから!」
「帰れぇ!!」
 ぎゃんぎゃんと言い合いながら――もっと言うなら縋ってくる変態の美青年を物理で押しのけながら、紬は歩く。
 家族以外の人間には今まで一度も見せられなかった、何の隠し事もしなくてもいい空間に心のどこかで安堵を感じているなど、認めたくない。
 この数日後、余程「永遠の処女」が諦めきれなかったのか、自分の学校に一本角を持った美青年の変態が転校してくるとは、紬は残念ながら当日まで知ることは無かったのだった。