時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

恋とはどんなものかしら

 半魔と人間が共存するアパート、芦屋荘。争いを良しとしない大家の雪女が、住人に害意を持つ侵入者を拒む結界を張り巡らした隠れ家。
 その201号室の扉を開いて出て来たのは、弦月高等学校の制服を着た、長い黒髪の少女。まだ女性というには色気や艶が足りないが、その魅力は蕾となって咲くのを今か今かと待っている。それだけの印象を与える美少女だった。
「行って参ります、お父様」
「うん、いってらっしゃいいろはたん! 僕は昨日の刹那くんの調整と原稿で限界が来たからもう寝るね! 気を付けてね!」
 その美少女、南いろはは、いつもハイテンションな父親がその言葉と同時に力尽きて布団と仲良くなる様を確認してから、ちゃんと布団をかけ直して家に鍵をかける。これは全て、彼女にとっての日常だった。
 同じ時間に、下の階の103号室の扉が開いて、中から双子の姉弟が出てくる。
「いろはちゃん、おはよう!」
「おーっす」
 反応は正反対だが、いろははほんの僅か、桜貝のような小さな唇をほんのり綻ばせて笑う。昔よりも、己の感情を表情に表すことが出来るようになっていたからだ。
「おはようございます、永久、刹那。刹那の調整も完璧なようで何よりです」
「何よりじゃねぇーよ! 俺、何度も言ってるだろ南さんに! 身長もう少し伸ばしてくれって!!」
「もう、今朝からずっとこうなのよ、刹那。私は同じぐらいの方が嬉しいんだけどなぁ……」
 声を荒げる少年と、気持ちは解るけどと困ったように笑う少女の顔立ちは瓜二つ。身長もほぼ同じで、いろはよりは僅かに低い。――自動人形である刹那の身長を、永久の成長に合わせて調整している為だ。
 本来、フルメタルの自動人形は完成品として作られ、人間のような成長は起こらない。外見の生体式パーツと、内面の心魂機関が特別であるいろはは、幾分ゆっくりではあるが確かに成長をしていたが、刹那は無理だ。故に人形技師である南森一郎が、不自然にならない程度に少しずつ肉体に調整をかけて、稼働年数と同じぐらいの年の外見に調整しているのだが。
「お父様曰く、『それが双子の浪漫だよ』だそうです。お父様に調整を依頼する以上、諦めた方が宜しいかと」
「くっそおー! 納得いかねぇー!!」
「――朝から煩いな。少し黙れ」
 叫ぶ刹那をまあまあと宥めながらアパートの門を出たところで、隣の一軒家から出て来た人影とかち合った。短く整えた白髪と紫色の瞳を持った、日本人離れした容姿の少年は、いろは達と同じ制服を着ているが、高校生とは思えないほど大人びていた。
 無表情のまま僅かに目を眇め、刹那にぶつけたのは随分ときつい台詞だったが、彼の言い回しでは普通の事だと解っている刹那も別に怒りはしない。ただ、忌々しげに自分よりも頭一つ高いその背丈を睨み上げるだけだ。
「ちくしょー! 何食ったらそんなにでかくなるんだよ! お前には俺の気持ちはわかんねーよ!」
「半魔の肉体の成長に、有機物の摂取は関係が無い。他者の精神と感情の在り方など、解るわけもないな」
「ぐううムカつく……!」
「もう、刹那それぐらいにしなさい。ごめんね、慎くん」
「別に謝罪を受けるようなことは存在しないが」
 かんしゃくを起こす刹那を慎が容赦なくやり込め、永久が宥める。これも、四人で学校に通うようになってから、日常である光景。その様を真っ黒な瞳で余すところ無く見つめながら、いろはは永久の手を引きながら言う。
「永久、遅刻してしまいますから早くいきましょう。刹那と慎は今日も仲良しなのですから」
「どこがだよ!」
「止めろ」
 淡々となのに何故か非常に自信をもって断言したので、心底嫌そうな声で少年二人から同時に静止を食らった。


×××


 高校でも四人は、クラスはばらばらだが昼休みなどはいつも集まって過ごしている。あまり交友関係を広げることに積極的ではない刹那と永久、そもそも友人など作る気すら起こさない慎、友好的に過ごすけどアグレッシブ過ぎてついていける相手が少ないいろは。
 浮いている、と言えばそれまでだが、容姿が整った男女の集まりということで、周りには割と憧れの目で遠巻きに見られていたりもする。勿論、本人たちはあまり気づいていないが。
 大家の美雪が作ってくれた、内容の同じ弁当を食べる三人と、色々あって現在保護者となっている、道明寺斎が作った弁当を淡々と食べる慎。基本的にオーソドックスで茶色い物が多い美雪のものに対し、色とりどりで飾り切りなども入っている斎のもの。勿論味はどちらも同じぐらい美味なのは間違いないが。
「すげーなそのヒヨコにしてる卵。一個くれよ」
 胡麻と沢庵の切れ端をくっつけてヒヨコの形にしている鶉のゆで卵を見て、興味本位で刹那が箸を伸ばすが、それが届く前に凄まじいスピードで慎に手の甲を叩かれた。
「いって! いいじゃねえかよ四つも入ってんだから!」
「確かに、斎の考えとしてはいろは達にお裾分けすることを前提とした彩りと数でしょう。いかがですか慎、いろはの卵焼きとトレードというのは」
「断る」
 無表情だが目を輝かせたいろはからの折衷案も一言で切り捨て、慎の箸を運ぶスピードが上がる。朝本人が言っていた通り、食事の摂取は半魔にとって嗜好品としてしか意味を為さない場合が多いのだが――毎日、慎は弁当を全て、誰にも分けずに食べ終える。 そこにどのような彼の機微があるのかは、いろはにもぼんやりと解ってはいるが、断言は出来ない。他者の精神と感情の在り方は、予想は出来ても理解は出来ないものだからだ。
 とそこで、いつもなら話に加わってくる永久が、箸を咥えたままぼんやりとしていることに気づき、いろはは視線を慎から彼女に移して尋ねる。
「どうしました、永久? 箸が進まないようですが。今日のおかずは永久の大好きな筑前煮も入っていますよ」
「え――あ、ごめん! ちょっとぼうっとしてたの」
 そこでまだやり合っていた男二人も気づき、永久の方を見た。三人の視線が集まって気まずくなったのか、永久は顔を赤らめて俯いてしまう。
「何だよ、どうした永久? 気になることでもあんのか?」
「ううん、あの、本当に大したことじゃなくて」
「お前に対しての小事がこちらにとっての大事になる場合もある」
「その通りです、慎。永久に関わることならば、いろはにとって大事な事です。どんな形でも、話して貰えればいろはは嬉しく思います」
 三者三様の、しかし皆己を気遣ってくれる言葉に、永久は恥ずかしそうに、しかし本当に嬉しそうに顔を綻ばせた。
「ありがとう、皆。……あ、あのね」
 もごもごとまた顔を赤くしながら、身を縮めて声を潜める。
「その、今日の中休みに……、うちのクラスの子から、あの……」
 自然と他の三人も身を低くして、四人の顔と吐息が触れ合うぐらいの距離まで近づいた時、永久から爆弾が投下された。
「つ、付き合って……くださいって、告白、されたの」
「――なにいいいいいいいいいいっ!!!? がふっ!」
 一瞬の間の後。クラス中に、刹那の絶叫が響き渡った。次の瞬間、いろはの目にも留まらない手刀が刹那の喉に決まったので、そこで途切れたが。
 ずだーんと床に刹那がもんどり打ち、周りの目が集中するのに気付くも気にせず、いろはは床でのたうつ彼を一旦放置して永久に身を寄せる。
「永久、確認いたしましょう。その告白、というものは、罪や隠し事の公開、という意味では無いのですね?」
「――違うのか」
 ほんの少し慎の驚いた声が聞こえた。彼の感覚で「告白」といえば、それぐらいしか認識出来なかったのだろう。しかし今はもっと真実を詰めたい、確信を込めたいろはの問いに、永久は顔を真っ赤にして頷く。
「う、うん。メールで呼び出されて、あの、同じクラスになった時からずっと好きでしたって、それで……」
「それで? お返事はしたのですか永久」
 ほうほうと頷きながらぐいぐい詰め寄るいろはに、永久はとんでもない! と言いたげに大きく首を横に振る。
「わ、私とにかくびっくりしちゃって、ちょっと待ってくださいって言っちゃって……そうしたら、じゃあ放課後に返事ください、って」
「なるほど、やや性急ではありますが、誠実さは悪くありません。では、受けるのですか断るのですか」
「ど、どうしよういろはちゃん〜……!?」
 そこで、逆に永久の方からいろはに縋りついて来た。返事をどうするか迷った末に、食事も喉を通らなくなったようだ。どうしよう、と問われたので、いろははきょとんと首を傾げる。
「その答えを出すべきなのは永久ですよ? いろははそのお相手の男性のことを全く知りませんし、永久が応えたいように応えればよろしいと思われます」
「そ、そうだけど、そうなんだけど……!」
 いろはの言葉は正論だが、だからと言って割り切れるものでもないらしい。最初はただ照れているだけかと思ったが、話しているうちにどんどん表情が曇ってくる。
「ええとね……、好き、だって言われたのは、嬉しかったの。初めてだし、でも私も全然あの人と話したこと無かったし、それに――」
「……永久」
 両手で顔を覆って、ついに俯いてしまった永久に、漸く復活した刹那が声をかける。いつもの感情が高ぶった時に噛みつく風では無く、あくまで静かに。
「そういうの、全部言って、『お友達から始めましょう』でいいじゃん。俺のこと気にしてるんなら、怒るぞ」
 きっぱりと言い切った声に、永久だけでなくいろはも驚いた。そして認識する――永久の心に引っかかっていた一番大きなものは正しく、自分が半魔と関わるノウンマンであるという事実だということを。自分の交友が、人間と半魔の間に軋轢を生み、大切な人を傷つけてしまうのではないかという不安を、優しい彼女は抱えていたのだ。
「俺は、永久に幸せになって欲しい。永久が好きになった奴なら、応援するし協力する。俺は永久の人形で、弟で、家族だから。……もしそいつが永久のこと泣かせやがったら、一発ぶん殴るけどな!」
 それに対して刹那は、全く気にするな、と言い切ってみせた。永久を主とし、永久の為に目を覚まし、永久の為にその存在を決めた人形は、沢山の人達との触れ合いにより、正しく永久のたった一人の「家族」になったのだ。幸せを祈り、彼女の為なら何でも出来るし、道を誤りそうになった時は手を伸ばすことが出来るように。
 それがちゃんと、解ったらしく――永久はちょっとだけ目を潤ませて、本当に幸せそうに微笑んだ。
「うん。……うん、ありがとう刹那。ちゃんと私、返事してくるね」
「ん。……マジで何か酷い目にあいそうになったらすぐ呼べよ! 飛んでくからな!」
「そうですね、刹那。その時にはいろはも加勢します。ご安心ください、事を荒立てることなくそのお相手の記憶を無かったことにして差し上げましょう」
「あはは、うん。でもいろはちゃんはちょっと抑えてくれると嬉しいな……」
 本気にしか聞こえないいろはの答えに永久が苦笑する中、一人慎は一体何を「告白」したのか理解が出来ず、思考の為一人で無言のまま、眉間に皺を寄せているのだった。


×××


 放課後、永久はお相手の所へ行ったらしい。先に帰ってて、という促しはあったが、何となく三人で校門あたりに残っていた。
 やがて永久からのメールで「お友達から、ってことになりました」という絵文字入りのメールを三人同時に受け取り、誰からともなく息を吐いた。永久に見つかると拙いので、足早に家まで向かいながら。
 ほどなくして芦屋荘の近くまで辿り着いた時、「いっちゃん、いってきまーす!!」という大声と共に、巨乳を揺らしながらヒーローが駆けてきた。Tシャツにジャージという、色気も何もない格好で。
「おー! いろはちゃん、刹那、慎! おかえりー!!」
「只今帰りました、春姫」
「おう、ただいまー」
「黙れ、赤い小豚」
「ぬうう! 相変わらず生意気な奴めー! これからあたしは町内のパトロールがあるんだ! 邪魔をするなー!」
 挨拶をした二人に対し、慎は露骨に眉を顰めて悪罵を放つ。ぷんすか! と両手を振り上げながら、子供のような春姫の言い草にいよいよ不快そうに見下しながら。これも今朝の刹那とのやり合いのような、慎なりのコミュニケーションなのです、と知っているいろはは止めはしないが。
 と、それより先に刹那が一歩前に出て、ぎゃいぎゃいとやり合っている春姫の腕を軽く引く。
「ほら、ジョギングなんだろ。付き合うからいこーぜ」
「おお! 良い心がけじゃないか刹那ー! よーしついてこい! いざ出陣ッ!」
 刹那の促しにぱあっと顔を輝かせ、便所サンダルを履いているとは思えないスピードで駆け出した。刹那はちょっと笑って鞄をいろはに放り投げ、「悪い、部屋に入れといてくれ!」とだけ言ってその後を追う。
 かしこまりました、と頭を下げて、その二つの背中を見送っていろはは満足げに一言。
「お昼休みも、今も。くゆ風に言うなら、『イイ男になった』というのでしょうね、刹那」
「――理解不能だ」
 あらわにしていた感情をすぐに潜ませ、何事も無かったかのように慎は呟く。しかしそのまま、家に入っていく足取りはいつもより若干早い。恐らく家には斎が、春姫の帰る時間に合わせて夕飯の支度をしているからだ。その事実に気づいていても、それを求めていることにはまだ気づいていないのだろうけれど。
「……不思議ですね」
 父の書く所謂「恋愛」というものを描く虚構の話は、知識として知っている。それらとは少し違うが、永久も、刹那も、慎も、曖昧で己でもきちんと言葉で言うことの出来ない感情を元に、生き生きとしている。
 何故か、心魂機関の埋め込まれた辺りが、早く脈打っているように感じる。皆を祝福するのとは別の、焦燥のような、羨望のような。これは人間風に言うなら「中てられた」と言うのだが、残念ながらいろはの語彙にまだその言葉は無い。
 故に、意識の理解が終わる前に、足は自然に芦屋荘に向かった。合鍵を貰っている刹那と永久の部屋に鞄を置いた後、大家さんに挨拶をしてから二階へ向かう階段へ。そして自分の家の前を通り過ぎ、隣の202号室をノックする。「はあい」と中から軽い男の声がした。
 鍵のかかっていない扉を開けると、狭い部屋の中、畳の上で寝そべって寛いでいるくゆ――元・魔王の息子で淫魔であり、現在半魔としてこの芦屋荘の店子で一番の古株である――が、いらっしゃい、とへらりと笑って手招いた。遠慮なくその傍へ近づき、ぺたんと正座する。
「どうしたの? 今日は随分と可愛い顔だね」
「……いろはの顔は、何か変化していますか?」
「うん。ちょっと熱の上がってる顔。イイね」
 その意味を問う前に、するりと頬を綺麗なマニキュアの塗られた爪で撫でられたので、思考が一瞬止まった。くゆの言い回しはいろはにとっていつも難解なので、ちゃんと考えなければいけないのに。
「こら、眉間に皺寄せなーい。折角の美人が台無しだぞ」
「申し訳ありません、いろはは体調不良なのでしょうか」
「使い古された言い回しだけど、病気と言えるかもしれないね」
 今度は眉間を優しく撫でられながら、首を傾げて、いろはは記憶と知識を辿る。本来の病気以外に病と比喩される現象の中、自分の状態と合致するものは――
「……難しいです。くゆの言いたいことは判明しましたが、それをいろはは断言することが出来ません。何故なら、今いろはの中にあるこの温かさがそれなのだと、確証が持てないからです」
 杓子定規な、彼から見たら面白みも無い答えではないかと言ってから思ったが、くゆは心底嬉しそうに笑った。それから、ぽんぽんと自分の横を叩いて促されたので、無作法だと解っていながらも、畳の上にそのままころんと横になる。差し出してくれたくゆの腕を、枕にしながら。
「くゆ、重くありませんか?」
「ぜんぜーん。寧ろ役得」
 くつくつと喉の奥で笑うくゆの顔は、悪い笑顔、と形容できるものだった。春姫は良く解んない! と断じるだろうし、斎は危険を感じて後退るだろうし、英瑠は戸惑いつつも嫌では無い、と答えるだろう。いろはの見解は――恐らく、英瑠に一番近い。
「くゆ。難しいです。いろはには結論が出せません」
 静かな声なのに、どこかもどかしげな思いが漏れ出ているのに気付いているのか。目の前の顔は、今度は優しげに微笑んで、頬に落ちるいろはの髪を掬って梳いてやりながら、まるで悪魔の誘惑のように囁く。
「難しいでしょ。気を付けて、『それ』はね、理解したら『それ』じゃあ無くなってしまうよ」
「……そうなのですか? くゆは、エルに対して、これと同じであろう気持ちを、持っているのではないのですか?」
「どうだろうね? 俺の想いは此処にある、エルの想いはエルにある。淫魔(俺達)はそれを手玉にとって操ることは出来ても、手に入れるなんて不可能だ。想いの形が一緒かどうか、なんて死んでも解るもんじゃない」
 断言をせずに指示語だけで言葉を続けてくれるのは、くゆの優しさと遊興なのだろう。何故か心魂機関が軋む音が聞こえた気がして、いろはは体を縮めて、まるで胎児のように蹲る。それを宥め、あるいは促すように、くゆの手指がいろはの背中をそっと撫でる。勇気を貰えた気がして、いろはは大きく息を吸って、口を開いた。
「では、いろはの中にあるこれは、どうすればいいのでしょうか――いいえ」
 言ってから、気づいた。これは今日の昼休みの、永久が自分へかけた問いと同じだ。答えは自分の中にしかない。ひくりと喉が震え、自分が何かを非常に恐れていることに気づく。己が行動したことによる結末が、何であるか予測がついてしまうからだ。
「うん?」
 それでも、目の前の淫魔はとても優しく笑って、背を撫で続けてくれるので。
 きゅ、と一度唇を噛んで、いろはははっきりと言葉を告げた。
「くゆ。いろはは――いつからなのかは認識できませんが。くゆのことが好きなのだと、思います」
 真っ直ぐ、視線を向けて言うと、間近の紅い瞳は全て受け止めてくれた。
「そっか。ありがとう、嬉しいよ」
「……嬉しいのですか? 邪魔にならないのですか?」
「まさか。心を奪うのは、俺の本懐だよ?」
 彼がもっている「それ」は、英瑠と交換していて、他に持つ余地などないといろはは予想していたのだが。いっそあっさりと笑って、くゆはそう返して来た。
 そんな在り方を、不実と罵る人がいるかもしれないが、いろはは、嬉しかった。己の中にあった重たく熱いそれが、消えることなくちゃんと届いたのだと解ったから。
「やっと言えたね。ご褒美、あげる」
 そしてくゆの顔が近づいて来たので、いろはは抵抗せずに目を閉じる。僅かな沈黙の後――切り揃えた前髪をそっと分け、その間に柔らかいものが触れて、離れる。
「……唇では無いのですか」
 図らずも、拗ねたような声を出してしまうと、くゆは耐え切れないようにくつくつと笑った。女のような細い指が、そっといろはの桜色の唇に触れて、撫でる。
「ここは、君が心を奪った人に捧げる為に、取っておかなきゃだーめ」
 成程、といろはは思った。いつか自分も、永久のように、刹那のように、慎のように――心を奪い合うことを望むような、そんな相手にいつか出会えるのかもしれない。そしてそれが、目の前の彼では無いことも。
 身の内の温かさはずっと続いていて、恐らく己はとても幸福である筈なのに――笑顔のまま、いろはの瞳から、ぷくりと。一滴だけ、綺麗な滴が滲み出た。機能自体は森一郎が付けたのだろうけれど、今まで眼球の乾燥防止にしか使われていなかったそれが。
「勿体ない。貰っていい?」
「ええ、差し上げます、くゆ」
 笑顔のままいろはがもう一度目を閉じると、今度は目尻に唇が触れて来た。その柔らかさに安堵して、いろはは笑った。心の底から、微笑んで。
 ――この想いと、湧きあがった感情全ては、間違いでも無駄でもないのだということが、嬉しくて。
「……あぁ、最高だよ、いろは」
 初めて名前を呼び捨てにされてぱちりと目を瞬かせるが、心魂機関は騒がない。認めて貰えたのだという嬉しさが、誇らしい。
「最初に見た時から、やっぱり俺の目に狂いは無かった。君はイイ女になるよ、これからもっとね」
「では、そうなった時に、くゆを思い切り悔しがらせて差し上げます」
「ああ、期待してるよ」
 また頬を撫でられたので、目を閉じて猫のようにそこに顔を擦り付けてやると、心底楽しそうなくゆの笑い声が聞こえて、いろはももう一度笑った。
 彼の思い人が帰ってくるまでの時間だけ、思い切り役得を享受しよう、と思いながら。