時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

愛のパペット・ダンス

 都内から北へ向かう特急列車の中は、それほど混んでいなかった。シーズン外れも相俟って、ひとつの車両には数人の客しか居ない。
 なので、初夏にも関わらず長いコートを羽織った男と、氷のような白銀の髪の青年がボックス席に陣取っていても、あまり好奇の視線を集めることは無かった。
 それをいいことに、なのかそんなことは気にせず、なのか。ぱっと見どのような関係なのかさっぱり解らない二人は、途中駅で買った牛タン弁当を頬張りながら、飽きることなく言葉の応酬を続けている。
「てっきり飛行機で行くと思ったのにな。この貧乏人」
「抜かしやがれ扶養家族。お前一人で飛行機使って弦月に行くつもりだっただろ」
「悪いか」
「悪いわ! あのクソジジイに捕まって戻ってこれなくなるだろーが!」
「俺は別に、困らないな。お前はどうなるか知らないが」
 ふん、と鼻を鳴らす青年――魔導鎧と融合された人形である湖雪に対し、己が不利だと悟ったのか、男――その湖雪を改造した張本人、現在休業中の魔導鍛冶師・千剣は不機嫌そうな顔のまま、湖雪の弁当に残っていた最後の牛タンをぱしっと抓み、一口で飲み込んだ。
「ッ! 返せ!」
「もう食べちゃいましたー返せませーん」
 子供である。もっと言うなら糞餓鬼である。腹に据えかねる所作に、透き通った湖雪の眦がきりきりと吊り上り、殴りかかりそうになるのをどうにか堪えている。作り主よりTPOを弁えている人形は、怒りをどうにか堪えつつも、不満たっぷりな声で突っかかった。
「大体、いきなり北海DOに旅行に行くなんて言い出したから、てっきり弦月市に行って御祖父さんに詫びの一つでも入れるのかと思うだろう。はにだって着いて行きたがったのに、駄目だと言うし」
「誰があのクソジジイに詫びるかボケ。どーせ璃空の奴を引っ張りださなけりゃ、はにも来ねぇよ。今回の目的地は弦月じゃねぇ、望月だ」
「望月……」
 ぼんやりと聞いたことのある、という程度の名前に、湖雪が首を傾げる。確か弦月市の近くにある、それほど大きくない町の筈だ。千剣が興味を覚えるものが、あるとは思えないのだが――
「お前に会わせたい奴がいるんだよ。俺が会いたい奴もいるけど」
 そう言いながら、千剣はコートの懐から、既に封を切ってある手紙を取り出し、無造作に湖雪に向けて放った。宛先はBARカナン。恐らく千剣が連絡先代わりに使っていたのだろう。そして差出先は、確かに「北海DO望月市」と書かれていた。
 一瞬戸惑ったが、中身を見ても良いのだろうと結論付け、封筒の中を覗く。中には、丁寧に折りたたまれた便箋が数枚。広げた中身は、読み易い字で綴られていた。
 ――内容は、暫くご無沙汰していますがお元気ですか、という当たり前の滑り出しから始まり、その後は差出人の近況――というよりも、差出人の娘の近況が事細かに描かれていた。地元の某高校に入学しただの、写真部に入っただの、料理が上手くなっただの、とにかく娘が可愛くて仕方が無いという情熱が、便箋の80%を占めていた。目が滑りそうになるのを何とか堪え、根が真面目な湖雪は懸命にそれを読み込んでいく。
 そして――最後の一文で、はっと目を見開くことになる。

『貴方は、貴方の願いを叶えることが出来たでしょうか?』

 思わず視線を、千剣に動かす。千剣はいつもと違う、考えが読めない無表情。そのまま、景色が滑っていく外を見ている。
 この差出人は、「千剣の望み」を知っているのだ。思い焦がれ、どうしても出来ず、それでも諦め切れなくて、今――叶ったのかもしれない、その願いを。
 封筒をもう一度、手に取って見る。差出人の名は――「南 森一郎」とあった。





 海底トンネルを使い、やがて列車は望月市に停車した。もう一駅乗れば弦月まですぐなのだが、残念ながら湖雪は無理やり千剣に引き摺り下ろされた。
「帰りには絶対寄るからな」
「嫌じゃあああ。絶対嫌じゃあああ」
 駄々を捏ねる千剣の脹脛をがすがす蹴りながら、それでも彼について望月市を歩いていく。駅前のこじんまりとしたビル街を抜け、下町なのであろう細い路地へ入っていく。程なく、何の変哲も無い古いアパートが見えた。
 さりげなく湖雪がアパートの名前を確認すると「芦屋荘」とある。手紙の差出人が住んでいる筈の場所に相違なかった。
 日曜日の午前中であるせいか、建物は静まり返っている。敷地内に置いてある木製の椅子の上に、大きな猫が日向ぼっこしているのが目に入った。
 千剣は気にした風もなく、かんかんと音を立てて建物の二階へ昇っていく。一番左端の角部屋に、表札で「南」と掛けられていた。
 これまた年代ものの来客ブザーが千剣の手によって鳴らされると、中で動く気配と足音がした。自然と警戒と緊張が漲りかける湖雪の腕を、千剣がぺちんと叩いて往なす。子供のようにあしらわれた不満に食って掛かろうという直前に、かちゃりとドアが開いた。
 そこに立っていたのは、湖雪よりもやや年上に見える、美しく長い黒髪を持った少女だった。腕も足も華奢で、儚げな魅力を湛えている。まるで人形のように整った顔の、赤い唇がふわりと弧を描き、ぺこりとお辞儀をして見せた。
「ようこそ、いらっしゃいました。久しぶりですね、千剣」
 その現実離れした容姿と、まるで旧知の仲のような気安い挨拶に湖雪が驚く。手紙の差出人は男性名の筈だったが、彼女がそうなのだろうか。その疑問はすぐに、千剣の言葉で払拭されたが。
「よう、久しぶりだな嬢ちゃん。――南さんはいるかい?」
 これに、湖雪は二度驚かざるをえない。相手が自分達の来訪を知っているということは、事前に千剣が連絡したのだろう。――あの、千剣が。相手の都合など箸にも棒にも引っ掛けない、やりたい放題好き放題、思いやり? なにそれ美味しいの? と心の底から思っているだろう人でなしが。どこに行く時も、行き先も何も言わず、来客先の扉を蹴破って我が物顔で寛ぎ捲るこの男が。敬称まで付けて、相手の様子を伺っている。湖雪にとってはまさに青天の霹靂、UMAが家の裏で寛いでいたレベルの衝撃だ。
「申し訳ありません、千剣。御父様は昨日の夜に大きなお仕事が終了したので、現在睡眠中です。もし宜しければ、今すぐ起こしますが」
 黒髪の少女は、丁寧に頭を下げてから、表情をどこか悪戯っぽい微笑みに変え、手刀を作って軽く振って見せた。千剣はそんな少女の仕草に笑み一つ見せず、やはり彼にとっては在り得ないほど丁寧に言葉を紡いだ。
「いや、構わねぇ。起きるまで待たせてもらってもいいかい?」
「……如何したんだお前。遂に脳が老化し始めたのか」
「あ? んだよ煩ぇな」
 驚きの次に鳥肌が立ってきて、耐え切れず湖雪は千剣に話し掛けてしまった。すると途端にいつも通りの千剣に戻ったので内心安堵しつつ、あくまで憎まれ口で応酬する。
「だってお前が人に敬称付けるとか、いいかい? とか。やっぱり脳が劣化したのか? それとも牛タンが古くなってたか」
「さりげに悪化させるんじゃねぇ。年取っても衰えてもいねぇよ! 牛タンも美味かったよ!」
「煩い、若作り! 牛タン返せ!」
「大概しつこいなテメェもよぅ!」
「お前に似たんだ悪かったな!」
 ぎゃあぎゃあと人様の玄関口で騒ぐ親子に対し、少女は軽く小首を傾げてからぽん、と両手を打つ。二人の視線が彼女に動いたところで、人形のような少女はにっこりと、花の様に微笑んで見せた。
「お茶をご用意いたしますので、どうぞお待ち下さいませ」





 見た目の通り、ここのアパートの部屋はかなり狭いらしく、少女は二人を一階にある談話室へと案内した。慣れた手つきで入れたお茶と菓子を出し、改めてぺこりと頭を下げる。
「お連れ様には申し遅れました。南森一郎の娘、南いろはです。またの名をES-168プロトタイプと申します。以後お見知りおきを」
「えっ……!?」
 さらりと言われた「型番」に湖雪は驚愕の声をあげてしまった。千剣はそれも事前に知っていたのか、驚く様子は見せない。
 湖雪の記憶が確かならば、それは。ブルカ電子工業という企業で生み出された、自動人形に付けられる型番の筈だ。
 改めて、湖雪はいろはと名乗った少女の姿を見る。
 見た目も、動作も、言語も、どこを如何見ても人間にしか見えない。勿論、変異を起こさなければ人間のふりをした半魔を見破ることは非常に難しいのだが――彼女には、「作られた生物」のぎごちなさが一切見られない。実に丁寧な挨拶をした後は、かしこまる事もなくすとんと、談話室の小さな椅子に腰かけている。
 思いもかけない事態に湖雪が戸惑っているうちに、千剣はいろはと穏やかに会話している。
「もう5〜6年ぐらいになるか。あんたも良い女になったもんだ」
「ふふふ、よく言われます」
「前会った時にゃあ、コイツよりもちびっちゃかったのになぁ」
「背丈は大分伸びました。もう少しで、160cmです」
 色々と人形としては規格外なことを言っているのだが、千剣にもいろはにもその会話に違和感が無いらしい。我慢できず、ぼそりと湖雪も突っ込んでしまった。
「……背が伸びるのか」
「はい、すくすく伸びています」
「あんだよ、伸びてぇのかチビ。仕方ねーなぁ、一日眠っとけば俺が改造してやるよ」
「絶対嫌だ! 昔からそう言う度に、空腹レベルとか排泄機能とか、無駄な部分ばかり改悪して!」
「ばっかやろ、改善だろーそういうのは。お前だって○○○付けた時は、俺とお揃いだって喜んでたじゃ――」
「女性の前で何を言ってるこの馬鹿ああああああ!!!」
 これ以上話を聞くつもりは無く、手加減ゼロの拳を千剣の顎に決めた瞬間、いろはがああ、とひとつ肯いた。
「なるほど、貴方が『湖雪』なのですね。千剣の手紙で読ませて頂きました」
「え」
「げ」
 同時にぴたりと止まる義親子に、いろははあくまで笑顔で続ける。しかし同時に千剣に向ける視線には「お父様にお願いすれば手紙の一枚や二枚すぐ見せてくれるのですよ」という余裕に満ちている。千剣がやばい、という顔をした時には、既にいろはは口を開いていた。
「やっと手に入れた夢の形、迂闊に触れたら壊れてしまいそうな雪の結晶。貴方が千剣の――」
「もう南さん起きたんじゃないですかねぇええええ!!? つーか起こして今すぐうううう!!」
 千剣は絶叫しながら、心底楽しそうに口を動かすいろはの腕を引っ掴んで部屋から出て行く。後に残された湖雪は残念ながら非常に聡明で、彼女の残した言葉とあの手紙の文面から、その続きに気付いてしまい――ばたり、と古びた机の上に突っ伏した。
「馬鹿だ……本当馬鹿だあいつ……」
 両腕で抱えた頭から僅かに見える耳が、真っ赤になっていることは幸い、誰にも気付かれることは無かった。



 ほんの数分で、いろはは戻ってきた。どこかほくほくとした顔なのは、千剣を散々からかって満足したせいだろうか。漸く顔の赤みを引かせていた湖雪は、とりあえず彼女は敵に回すまい、と腹に力を入れる。
「お待たせしました」
「あ、いや」
「千剣はお父様とお話中です。その間、貴方と話して欲しいと言われました」
「……俺と?」
「はい。千剣は、いろはと貴方を会わせたかったのだそうです」
 冷めてしまった茶を入れ直しながら、やはりいろはは微笑んでいる。作られた人形にありがちな、顔に貼り付けたような笑みではない。ただ、生きていることが楽しいのだと、そんな喜びが滲み出ているような、幸福そうな笑顔だった。
 思わず自分の頬を撫で、湖雪は眉間に皺を寄せてしまう。自分にもその機能は備わっている筈なのだが、それを上手く動作させることが出来ない。
 きっと、笑顔を作れば他者は喜ぶのだろう。だがそれが、「本物」なのか湖雪には解らない。ただ誰かを喜ばせるために作った笑顔は、見抜かれてしまいそうな気がする。――誰よりも、千剣に。誰よりも、それを望まないであろう男に。
 ぞわ、と足元から這い上がってきた悪寒に、湖雪は震える。一度自分は間違えた。だから千剣は勝手に絶望し、自分を捨てた。
 許せなかった。殺してやりたかった。殺そうと思った。……殺さなかったし、殺せなかった。
 だから、もう一度、千剣が自分を捨てるようなことになったら――
「……本気で、御祖父さんの家の子になってやる……」
 ある意味最大の脅し文句をぼそりと呟く湖雪をどう思ったのか、いろははくいと湯飲みを一口呷り、ことりと置いて口を開く。
「……千剣は、5年程前に一度、ここに来ました。今よりも、苦しそうな顔で」
「……っ」
 5年前。それは、千剣が湖雪を捨ててから大分経ってからのことだ。湖雪がどうしたら良いのか解らず、ただ只管、絶望と怒りを糧に千剣を追い続けていた頃だ。
「彼は悩んでいるようでもあるし、怒っているようでもありました。自動人形が此処にいるのかと、尋ねてきたのです。はい、いろはがそうです、と答えると、とても驚いていました」
 それは、そうだろうと湖雪も思う。ここまで人間に近い自動人形など、千剣でも――否、千剣だからこそ、見たことが無かったのだろう。
「いろはも、ほんのちょっぴり後ろ暗いところのある身だったので警戒はしましたが、うちの敷地内に入って来れたので敵ではないと判断しました。お父様に会いたいと熱心に言われたので、ボディチェックの後にお通ししました」
「……その時、何を話したんだ?」
 期待をせずに聞くと、やはりいろはは首を振った。あの秘密主義の男が、必要最低限以外の場所に何某かを漏らすことは無いだろう。
「いいえ、いろははその場に立ち会いませんでした。大丈夫だよ、とお父様が仰ったので、見張りにも立ちませんでした。ただ」
「……ただ?」
 湖雪の疑問の視線を受けて、少女はこくりと肯く。
「数時間後に出て来た千剣は、とてもすっきりとした顔をしていました。あるいは、――何か、決意をしたような顔を」
「っ……!」
 決意。それは。
「いろはがどうしたのかと尋ねると、『どうせもう背水の陣だ、捨てるもんなんてありゃしねぇ。それなら――最期に一つ、悪あがきでもしてみるさ』と言って、去っていきました」
 湖雪の顔を見て、何も言わないことを確認してから、改めていろはが言う。
「彼が何を求めていたのか、何に絶望して、何をもう一度信じたのか、いろはには解りません。でも」
 そこで、黒髪の少女はにっこりと、本当に嬉しそうに笑った。
「その結果が、貴方なのだと思います、湖雪」



×××



「やあやあ、久しぶりだね千剣くん! 何年ぶりかなぁ! ああっごめんねこんな格好で! 昨日コミカの〆切で、12時までに送らないと間に合わないのを無理言って、結局寝たのが4時だったんだよ! もう年なんだし無理は出来ないね!」
「いや、お構いなく」
 かなり古い畳敷きから慌てて布団を片付けて、どうにか人に見られる格好で千剣の前に座っているのは、南森一郎。10年程前からコミック・カーニバルという同人誌即売会で最大手を誇る同人作家にして、人形技師でもある。しかし昨今は表の仕事のみを行い、人形技師という顔を覚えているものすら殆どいない。
 そもそも彼は、それほど腕前を持つ人形技師ではない。ブルカ電子工業に嘗て籍は置いていたものの、決して高い地位にはいなかった。ESプロジェクトに関わったのも本当に末端であり、彼といろは――ES-168プロトタイプが出会ったのも全くの偶然だった。
 しかし、千剣にとって、彼はこの世で唯一と言って良いほど「尊敬する相手」だった。
 人形だけでなく、人工生命を作るものならば誰もが憧れる「心」を作るという行為を成功させた、数少ない者だからだ。そんな彼をぼんやりと見ながら――千剣は、嘗て此処に来た時のことを、思い出していた。





 「心」を生み出す。それが、千剣には出来なかった。
 元々彼は、鍛冶師だ。人形師ではない。作り出せるものは、武器しかなかった。
 だからその武器に命を込めた。己が魂の欠片を打ち込んだ。人の姿を取れるようにした。それでも、彼の望むものは出来なかった。
 やがて彼は迷走を始める。堕ちた神々の力を奪い、魔動器に込めた。魔王の子息を騙し討ち、魔導書にその魂を縛り付けた。更に別口の魔王の子息を利用して、天使を兵器に改造させた。
 しかし、如何に己の手を加えても、他者の魂は変質しない。自分の魂が食い潰されるか、相手の魂を食い潰すか、の二択。
 己が何物をも生み出せない焦燥と、それでも諦めきれぬ妄執はついに大地の神すら目覚めさせ、その力を利用できるまでに至った。0から1を、作り出したのだ。
 ――それでも。それでも、駄目だった。生まれたものは、他者を食い潰さなければ生き続けられぬ、己に執着をし続ける炎の剣。結局は、出来の悪い己のレプリカでしかなかった。
 途方に暮れて、自棄になって、逃げ出して――偶然見つけた、廃棄された人形。男とも女とも取れる凹凸の無い体と、まるで氷のような白銀の髪。心魂機関は壊れていたものの、直すことは容易かった。それだけ、彼の「創る」腕は一級品だったのだ。しかしやはり彼は鍛冶師だったので、それを魔導鎧に打ち直すことで「生まれ変わらせた」。
 己の魂が入っていないはずのそれは、ぎごちなくも動いた。主人登録などしなかったから、憎まれ口ばかり叩いた。そのくせ生まれてすぐの幼子のように、自分の傍から離れなかった。
 楽しかった。ああ、楽しかったのだろう。嘗て夢見た、自分には絶対手に入らなかったものが、歪だろうとまやかしであろうと、その場にあった。
 それが――ただの茶番に過ぎなかったと、思い知るまでは。
 融通の利かない言い草に業を煮やし、殆ど売り言葉に買い言葉のままで叫んだ。
『じゃあ何か?! 俺が死ねって命令したらお前は死ぬのか!?』
 彼は不思議そうに――本当に不思議そうに。
『それは、命令なのか?』と。そう言ったのだ。憤りも、嘆きも、恨みもなく。ならば聞こうか、とでも言いたげに。
 頭から、冷水をぶちまけられた気がした。自分のやってきたことが、飯事以下だったことに漸く気付いて吐気がした。結局こいつは、己の子供でも何でも無かったのだと――絶望した。
 だから、捨てた。言い訳になるかもしれないが、賭けをした。限界まで突き放したその時、あれがどう動くか、それに賭けた。
 だからあれが己を探していると知った時、真っ先に感じたのは歓喜であったと思う。その怒りが本物であることを願い、只管に逃げ続けた。少なくともその時は、捕まってやる気など起きなかった。もし再会したら、己が殺されるか、或いは元に戻ってしまうかだと思っていたから。
 そのまま、逃亡劇を続けて、続けて――僅かな噂を聞きつけて、この地に降り立った。
 ESプロジェクトの成功例。
 完全なる自我を持った自動人形。
 最早人形師達の間では伝説紛いの扱いを受けているその噂を、半信半疑のまま此処に辿り着けば。
 どう見ても、普通の女の子にしか見えない人形が、他の子供達と一緒にボール遊びをしていた。





「……人生三度目の、天地がひっくり返されるようなショックだったな。しかも話を聞いたら真っ先に名乗り出るし」
「あっはっは、いろはたんは礼儀正しい子だからね! それに頭も良いし! 君が悪い人じゃないってちゃんと解っていたんだよ!」
「そうかねぇ」
 あの時、「何者ですか? いろはに御用ですか? お父様に御用なら、相手になります」と手刀の素振りをしていた少女は大分本気だったのではないかと思う。友人らしい他の少女に諌められてすぐに矛を収めていたし、冗談だった可能性も充分あるが。
 改めて、千剣は膝を正し――もし湖雪が見ていたら、驚愕し過ぎて慌てて止めていたかもしれない――そのまま、畳に手をついて深く頭を下げた。当然森一郎も慌てて、顔を上げて下さいと言うが、千剣の姿勢は崩れなかった。
「礼を、言わせて貰う。あの時、貴方の言葉が無ければ、俺は――最期のチャンスを、ふいにしていた」
「……そう、ですか。――良かった。間に合ったんだね、千剣くん」
「ああ」
 当時、既に千剣の魂は限界に達していた。終わりしか見えない逃亡と、結局はこれも仮初に過ぎないのだという絶望で、世界全てから色を失っていた。そんな時、完全なる成功者にしか見えない、森一郎に出会ってしまったのだ。当然、千剣は激昂し、何故、と問うた。
 何故お前はそれを手に入れられたのか。
 何故お前のような腕も浅い奴が。
 何故お前だけ――そんなにも、幸福なのだと。
 どうしようもない無様な八つ当たりに、森一郎は困ったように考え込んで。
『――僕が、いろはたんに出会えたのは。奇跡だよ』
 そんな風に、ぽつりと呟いた。



×××



「……あんたは。どうやって、笑えるようになったんだ」
 静かな談話室の中、漸くぽつりと、湖雪が呟いた。いろはの大きな目がぱちくりとするのを見て、いや、と慌てて言葉を重ねる。
「自分の、笑顔が。偽物だと……思うことは、無いのか。だって俺達は――」
 人形で。そう言いかけた唇が、ちょんと細い指で止められた。テーブルの向こう側から手を伸ばした少女は、やはり微笑んでいる。
「いろはは昔、とても無愛想だったのです。笑うということが、とても難しかったのです。しかし、笑うという行為がとても大切な事だということを、いろはは学びました。だからどうすれば良いのかと、お父様や、友達に聞きました」
 自然な笑みを浮べる少女は、そんな事を言って。
「でも、いろはの周りにいる人達は、皆こう言いました。いろはが嬉しい、楽しいと思った時に、笑えば良いのだと」
 それはどんな時なのか、と問う前に彼女の言葉は続く。
「例えば、朝起きて、天気が良かった時。学校へ行く時に、濡れずに済みますし、走っていくことも出来ます。帰ってきてから、友達と外で遊ぶことも出来ます。だからいろはは、朝起きて天気が良かった時、嬉しいと思うようになりました」
 もう湖雪が口を挟まないことが解っているかのように、いろはは腕を引いて尚も語る。
「そうやって考えていくと。朝起きて、天気が良かった時――いいえ、天気が良くなくても。今日もまた、いろはの大切な日常が続くのだと解ることが、とても嬉しいと思いました」
「!」
「それならいろはは、いつも笑っているべきだ、と思ったのです。無理はしません。ちょっと口の端を上げるだけです。でも、そうしていると」
 ふふっ、と堪えきれない笑みが、少女の唇から零れる。その顔は、本当に――本当に、幸せそうで。
「お父様が。春姫が。斎が。永久が。刹那が。くゆが。エルが。美雪が。皆が。嬉しそうに、笑ってくれるんです。そうしたら、いろははもう、笑わずにはいられなくなりました」
 白い両手を薄桃色の頬に当て、満面の笑みを見せる少女が、美しすぎて。湖雪は思わず、目を眇めてしまった。
「ですから、湖雪」
「っ、え」
 不意に名を呼ばれて戸惑っているうちに、掌を両手で包まれた。そのまま、ひたりと目を合わせられ――少女は笑う。
「貴方が嬉しい時、笑えば良いのです。それはいつでも構わないし、ほんのちょっとでも良いのです。きっと貴方の大切な人は、それで笑ってくれますから」
「そんなの……、無理、だ」
 嬉しい時、なんて。
 許せなくて、殺したくて、殺せなくて。
 失いたくなくて、必死になって、今一緒にいて。
 その事実だけで。とてつもなく、嬉しいなんて――
「出来るわけ、ない……」
 白い頬を僅かに赤く染めてぼそぼそと呟く湖雪を見て、いろははほうほう、と肯く。
「なるほど。湖雪は『ツンデレ』なのですね」
「つん、え?」
「大丈夫です。それならば、笑顔には希少価値を持たせるべきです。具体的には一年に一回ぐらいでも大安売りだといろはは判断します」
 己の主張とは真逆なことを言い出したいろはに戸惑っているうちに、少女はどんどん話を進めてしまう。
「寧ろその照れる表情だけでばっちりです。相手の我侭をちょっと聞きつつ、そのまま服の裾を引く、あるいは後から抱きつくだけで好感度は鰻上り、フラグも全て聳え立つでしょう。恐れる事はありません、湖雪」
「な、何の話……?」
 目を輝かせて意味の解らない話を続けるいろはに、完全に置いてきぼりにされてしまう湖雪だった。
 


×××



『あの子に初めて出会った時。ああ、僕の理想がここにいる、って思った。だから我慢が出来なくて、浚い出してしまった。この時点で、僕がとんでもない男だっていうのは解るよね』
 目の前の男は、困ったように笑ってそう言った。
『何がしたかったのかって言われたら。うん、おこがましいけど、彼女をしあわせにしたいって思ったんだ。でも僕は人間だから、彼女のしあわせがどんなものか解らない。だから、出来る限り――どれだけ出来ていたかは、甚だ疑問だけどね――、沢山の事を、あの子に教えてあげたかった』
 人間と同じように、ご飯を食べて、夜は眠って。学校に行って、友達を作って、勉強して、一緒に遊んで。いずれはきっと、恋をして。
『その時のいろはたんがどう思っていたのか、僕には解らない。でも』
 つい最近なんだけどね、と前置いてから、彼は言う。
『お父様、いろははとても幸せですって。そう笑って、言ってくれたから』
 ああ、僕のやってきたことは、間違いじゃなかったんだって、安心したんだ。そう笑って、男は締めた。
 そこで、彼は漸く気付く。
 今まで自分は、誰かをしあわせにしようなどと、思ったことが一度も無かったことに。
 家族はいた。妻も愛した。作り出したものは皆大切だ。湖雪が生まれて、しあわせだった。
 それなのに。彼は誰も、しあわせにしなかったのだ。だから、彼がしあわせになれるわけがない。
『どうすればいい』
 欲しいものはたった一つ。気付けば全部、失った。
『諦められるわけがない。欲しかった、欲しかったとも! どうしても、たった一つ、それだけが!!』
 たった一つの欲望で世界と己を歪ませた彼が、それでも失えなかったものは。
『……きっと、まだ間に合うよ』
 恥も外聞も無く泣き崩れた彼の肩をそっと叩き、男は言った。
『だって、話を聞く限りじゃあ、その子。君が最後に、作ったその子は』
 絶望のままに顔を上げた彼の顔を真っ直ぐ見据えて。
『自分の命を捨てられちゃうぐらい、君のことが大好きなんじゃないかな』





「……生まれてこの方、俺は俺の生き方を否定したことは無かった。あの時、あの一度だけ。後悔したのは、あの時だけだ」
 いまだに畳に手をついたまま、搾り出すように千剣が呟く。
「笑ってくれ。俺はきっと貴方に懺悔をしに来た。無様な回り道をし過ぎた俺を、貴方ならば裁いてくれると思っている」
「ぼ、僕はそんなに偉そうなことを言える立場じゃないよ! 僕だって君と同じ、行動理由はリビドーとアガペー、つまり愛さ!」
 売れっ子同人作家としてファンに囲まれることがあっても、流石にこうやって額づかれたことは無いので、森一郎はかなり慌てている。
 話だけでも、千剣・スーヴェンドルフという男が、非常に自信家でプライドが高いことが解る。そんな彼に明確な敗北を与え、助言を求められて答えられた者は、やはりこの世で森一郎しかいないのだ。
「同じ、って言うのか。貴方は」
「同じだよ。愛が無ければ、情熱なんて持てやしないさ」
 こほん、と一つ咳払いをしてから、森一郎はあの頃と同じように、そっと千剣の肩に手を置く。
「君が、今までどんなことを行ってきたとしても、それを裁く権利は僕には無い。君の苦しみが、誰にも解らないのと同じ風に」
 僅かに、千剣の肩に力が篭る。それを宥めるように叩き、尚も続けた。
「それが出来るのは、きっと、湖雪くんだけで。湖雪くんは、主人登録なんて無くっても、君が傍にいることを選んだんだろう? だったら、大丈夫さ。君はもう――湖雪くんに、許されているよ」
 お為ごかしだ、と千剣は思った。きっと一生、湖雪は自分を許すことは無いだろう。
 それでも――傍にいることを選んだ。それだけは、確かで。
「僕らが出来ることは、ひとつだけさ。子供を、全力の愛情を込めて、しあわせにするのさ!」
 まだ、自分には、そんなことが出来るとは、とても思えないけれど――まだ間に合うと、言うのなら。
 千剣はもう一度、深く深く、頭を下げた。




×××




「おーい湖雪。けぇるぞー」
 そんな声が外から響いてきたのは、ほんの三十分程後の事。慌てていろはと共に外に出ると、千剣の横に野暮ったい格好をした中年の男が立っており、にこにこと笑っていた。
「やあやあ、君が湖雪くんだね! 流石話に聞いたとおり、可愛いね! 染めたんじゃない天然ものの白銀髪に湖色の瞳! 美しい芸術作品のようだ! おっと勿論僕のいろはたんには敵わないけどねオフッ」
「お父様、落ち着いてください」
 いきなりテンションフルマックスで飛びついてきた男に湖雪が固まっているうちに、素早く後をとったいろはの手刀により、男はあっさりと沈んだ。湖雪は思わず千剣の顔色を伺ったが、何も反応していない。恐らく似たような光景を、数年前にも見たのかもしれない。
「それじゃ、世話になったな、お嬢ちゃん」
「いいえ、いろはも楽しかったのです。湖雪、いろはのアドバイスを是非是非実践してください」
「え、あ、うん」
「お気をつけて」
 笑顔で手を振るいろはに振り返し、既に歩き出している千剣に駆け足で近づいて、隣に並ぶ。何となく会話は無く、駅に向かって歩く。
「……あの嬢ちゃんに、なんか言われたのか」
「っ、まぁな」
「なんか参考になったか?」
「……」
 参考、というか、とてつもなく恥ずかしい事を言われたような気がするが、いまいち頭の中で咀嚼し切れていない。黙ったままの湖雪をどう思ったのか、ふいに白銀色の頭の上に、ぽんと大きな掌が乗った。金槌胼胝のいっぱい着いて、矢傷も未だに残る掌。
「ま、無理すんな。あいつはあいつ、お前はお前ってな」
 いまいち覇気の無い口調でそんな風に言ってから、「さー帰るぞ! ぜってー弦月にゃ行かねぇかんなー」と騒いで歩いていく千剣に。
 何故だか湖雪は、どうしようもなくなって――だっと駆け足で、その背中にどん! と飛びついた。
「っ……!?」
 驚愕のあまり千剣は固まってしまったが、それは湖雪も一緒だ。何でこんな事をやらかしたのか、さっぱり解らない。そうだこれはきっと、千剣に歪みまくった愛情を持っていた炎の剣、煉華を取り込んだ副作用だ、と無理やり自分を納得させて。
「……っ、帰る。弦月市に、寄らずに、帰る」
 おまえと。と続けようとした言葉は、耐え切れず音にならずに消えた。
 沈黙が、痛いほどに続く。
「……ちょっ。おま。……あー……」
 千剣は何度かぱくぱくと口を開け閉めし、結局何も言わずに頭をがりがりと掻き毟り――
「だー、もう!! この馬鹿!!」
「うわっ!?」
 絶叫して、無理やり後手で湖雪の腕を掴み、ひょいとその身体を負ぶった。並みの人間より相当重いはずのそれを、軽々と。
「っ、なに、馬鹿! 降ろせ!」
「うるせえええ! 駅まで降ろしてやんねええええ!!」
「ふざけんなー!!」
 二人揃って顔を真っ赤にしたまま、全速力で駆けて行く二人を見送るいろは――と既に復活していた森一郎は。
「いやぁ、千剣くんも相変わらずいいツンデレだねぇ」
「湖雪と合わさるとツンデレの二乗なのですね。素晴らしいです、いろはのアドバイスをやり遂げましたね湖雪」
「流石いろはたん、いい仕事してるねっ!」
 去っていく親子と、見送る親子の二つの寄り添った影が、傾き始めた夕日に長く伸びていた。