時計+人形

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やぎさんゆうびん

それは、世界が二回目の覚醒を果たした後の事。
UGNは混乱の極みに陥った自らを統率する為、誰もが目も眩むような忙しさの中で働いている。それは、UGNチルドレンからエージェントへと昇格した椿にとっても同じことだった。
「…どうしてこんな量の書類が必要なのかしら」
それでも、両手でやっと抱えきれるほどの決裁書類を持ったまま、思わずぼやいてしまうのも無理もない事だ。本来戦闘と後進の指導が仕事である彼女にとって、いくら手が足りないからと言って日本支部長へのメッセンジャーにまで使われてしまうのには、何とも賛同出来かねた。真っ向から拒否しないのが彼女の真面目さであるし、つい愚痴を言ってしまうほど、以前より性格が砕けたのもまた彼女の魅力ではあるのだけれど。
一つ溜息を吐いているうちに、椿の足は支部長室の前まで辿りついた。セキュリティロックに自分の指紋と網膜を読ませ、解錠する。
「失礼します」
世界中と繋がる沢山のモニターに囲まれて、山と積まれた書類を次々確認していく霧谷雄吾がいる。一目だけでだけで忙殺されていると解る姿だったが、それでも顔をあげて済まなそうに片眉を下げながら微笑む。
「お疲れ様です、椿さん。すみません、今少し手が離せないので、このまま失礼します」
「あ、お気になさらないでください!」
頭を下げかねない、いつでも余裕はあるのに腰の低い霧谷の姿を慌てて声で押さえつつ、椿は普段なら制御出来ている、感情のままに眉を顰める行為をせざるを得なかった。
柔らかく微笑む日本支部長、<リヴァイアサン>霧谷雄吾。沢山の部下に慕われている彼の顔は、本人は隠しているつもりなのだろうけれど、僅かに頬がこけ、目元には隈が浮いている。
こんな状態の上司に更に重石を増やすのは忍びなかったが、背に腹は代えられない。申し訳ないと思いつつも、持っていた書類をまとめて差し出す。
「…関西支部からの報告書、全部揃いましたのでお持ちしました」
「ああ、有難うございます。そちらに置いておいていただけますか?」
そちら、と目線だけで促されたのは、未決済の書類が積まれているデスクの一角。これを全て確認するのに、後どれだけかかるだろうか。
少し休んでください、と言うのは簡単だ。だが、現実的に今、彼が一線を退いてしまえば今度こそUGN日本支部は瓦解してしまうかもしれない。実際はそう簡単にいかないとしても、人の心の不安は拭い去れない。
だから彼は、この砂上の楼閣の上に立ち続ける事しか出来ず、それを止める術は椿には無い。
「…何かお引き受けすることはありますか?」
だから椿に出来るのは、彼の負担をごく僅かでも減らす為に仕事を請け負うことだ。真剣な視線に、霧谷は一瞬だけ申し訳なさそうな顔をして、それをすぐに笑顔で塗りつぶし―――
「…ではこれを、UGN本部の藤崎さんに届けていただけますか? 直接でなくても構いませんが、郵便等では無く」
色々な書類をとんとんと纏め、詰められた封筒を受け取り椿は「了解しました」と躊躇わず頷く。まどろっこしい方法だが、FHの検閲やハッキングを警戒して、スタッフの手のみを介して送られる情報も決して少なくない。どうせこの後他の用事で、現在藤崎の直属の部下になっている元同僚、高崎隼人に会う予定だった。暢気でいい加減に見える青年だが、仕事に関しては、長年共に居た経験をもとに椿は信用している。恐らく霧谷も彼女がそうすることを解っているのだろう。
「久しぶりに隼人くんと、ゆっくりお話してはいかがですか?」
「…善処します」
そんなどこかずれた気遣いをしてくるので、椿はまたちょっぴり眉を顰めながらも素直に頭を下げた。



「よぉ、久しぶり」
待ち合わせの場所、喫茶ペリゴール。時間ぴったりに隼人は現れた。いつも通り気の抜けた格好と口調で、10分前から待機していた椿の眉間に皺を寄せるのに充分な態度ではあったが、いつもの事なので声を荒げたりはしない。
「…霧谷さんからよ。これを藤崎さんにお渡しして」
「はいよっと。中身確認していいか?」
「ええ」
情報のやり取りをする当人に止められない限り、この手の資料を簡単に検閲する権利が椿や隼人には与えられている。多忙な上司に煩雑な処理までさせるわけにはいかない為の権限なのだが、隼人としては「俺はあいつの秘書じゃない」とぼやくことしきりだ。
封筒の中身を喫茶店の机に広げ、簡単に確認を始める。この店もUGNの支部の一つなので、一般の客さえいなければ気兼ねする必要はない。そしてこの店は元来、あまり客がいなかった。
UGNを離反した者のリストや、FHとの戦闘で起こった被害の確認等、見詰めると頭が痛くなるデータをそれでも隼人はてきぱきと仕分けしていたのだが。
ひらり。
「おっと」
「っ」
その間から一枚、小さな封筒が飛び出した。咄嗟に隼人は反応出来ず、椿が床に落ちる前に確保する。
「悪い」
「ううん。…これ、何かしら」
自分の手にある封筒を見て、椿が小首を傾げてしまったのも無理は無い。
他の書類とは異彩を放つそれは、薄く真っ白な洋封筒だ。普通書類はこんなものでは送らないし、どちらかと言えば何かの招待状か、プライベートな手紙のようにも見える。
「…封がハートのシールだったら完璧じゃね?」
「馬鹿言わないの。……でも、これ…」
隼人の揶揄を嗜めつつ、封筒をひっくり返した椿も一瞬絶句せざるを得なかった。本来封が貼られる所に押されている判子は、「親展」。いまいち常識からはズレた封の仕方だが、元UGNチルドレンである二人はそこまで違和感には気付けない。
「…つまり、霧谷さんから藤崎宛の手紙?」
「そう、みたいね」
何度もひっくり返してみたが、判以外に宛名だの住所だのは全く書かれていない。指令書だったら公の様式があるし、エージェントを介在して送るのだから下手なカモフラージュなどすまい。それこそがフェイントで重要書類という可能性もあるが、霧谷ならば味方をだます前にヒントのひとつもくれる筈だ。
「…霧谷さん何か言ってたか?」
「ううん。いつも通り、ただの書類の運搬の時と同じだった」
顔を見合わせ、うーんと二人で考え込む。何とも居心地が悪いが、いくら自分達が優秀なエージェントと言えど、かの<リヴァイアサン>の深謀など読み切れないことも解っている。
「…ん、とりあえず持ってくわ」
「ええ…よろしく」
釈然としないものを感じつつも、喫茶店を出てお互い手を振った。



UGN本部施設のひとつとして某市に立つビルは、トップがトップであるが故か、ぴしりと清潔感が保たれている。隼人としては何とも息苦しく居心地が悪いのだが、それでも自分のカラーを失わない所は彼らしいとも言える。
謎の手紙は気になるけれど、霧谷と違って彼の上司はそうそう「余計な話」をしてくれない。まぁ俺達への指令だったらすぐに解るだろう、と腹を括って、部屋の前に立った。
「どもー、高崎です。入ってもいっすか?」
やる気のない口調に他のスタッフは半分が慄き、半分はまたかと呆れた顔で見ている。藤崎に対する隼人のこんな態度は彼がここに配属されてからずっとで、最早誰も咎めることを放棄している。
『………入りたまえ』
低く静かな部屋主の声が聞こえ、僅かに息を吐いて隼人はカードキーを扉に差し込む。僅かな軋みすら起こさず、扉は開いた。
「霧谷さんから書類預ってきましたー」
「御苦労」
静かな程良い広さの部屋の中、デスクに座ってバイザーの下からパソコンのモニターを見詰め続けている藤崎弦一は、隼人の声に平坦な労いを一言かけるだけで、指先ひとつも動かさない。瑣末事でいちいち時世の挨拶など時間の無駄だと思う性質なのだろう。それは隼人も同感なので、この辺りは上司と気が合うと言える。いざ感情でぶつかり合うとすぐに喧嘩というか、隼人が一方的に突っかかることになるが。
いつもの場所にどさりと封筒から出しておいた書類を積むと、隼人は一歩下がって待機する。いつもなら置いてすぐに出ていくところなのだが、今回はどうしても気になったあの白い封筒を一番上に置いている。隼人がすぐに退室しなければ、急ぎの書類かと思い確認ぐらいはする筈だ。
はたして隼人の読みは当たり、藤崎の視線が僅かに動き、書類の上の封筒に止まった。神経質そうな指をついと伸ばし、その封筒を見、呆れたように鼻を鳴らしてから、ペーパーナイフで封を切る。
思わずその場で身を乗り出してしまった隼人に気付いているのかいないのか、藤崎は中から一枚の便箋を取り出し、広げ―――
「――――全く」
深く深く溜息を吐き、米神を揉んだ。普段態度を全く崩す事のない彼の露骨なこの行動に、一体あの手紙には何が!? と隼人は口を挟みたくなる自分を必死に堪えていたのだが。
不意に藤崎が、自分のデスクの引き出しを開け、そこから同じような白い封筒を取り出す。バイザーで隠しきれない不機嫌そうな視線を隼人に当て、低い声で言う。
「これを霧谷に届けるように。期限は問わない」
「へ? あーっと、はい」
無造作に差し出された封筒を受け取ってから隼人が目をぱちくりさせていると、藤崎は更に横に纏めてあったかなりの量の紙の束を掴み、どさりと隼人に差し出した。
「こちらの処理も全て君がやるように。以上だ」
「え――――っ!!?」
あからさまに厄介払いだと言わんばかりに、細かいデータのチェックが満載の書類を渡され、不敬だと解っていても隼人は不満の叫びをあげざるを得なかった。


「あれは絶対八つ当たりだ! あの野郎!」
「落ち着きなさいよ」
結局一日書類に忙殺され、眠い目を擦りながらも椿と共に隼人が日本支部へやって来たのは、偏に今手に持っている封筒の中身が気になって仕方がないからである。
「絶対霧谷さんから聞き出してやる。一体何が書いてあったんだ?」
「止めなさい、失礼でしょ」
見えるわけがないのだが、それでも封筒を明りに透かそうとする隼人を椿が抑えると、逆に恨みがましい目で見られる。
「じゃあお前は気になんないのかよ、これ」
「そ、それは…」
はっきり言われると、椿も言葉を濁してしまう。隼人が持っているのは、先日霧谷から渡されたものと同型の封筒。やはり宛名などは書いていないし、ついでに親展の判も無い。正直、一体何が書かれていたのか、そしているのか、非常に気になる。期限を問わないと言われたのならそんな深刻な内容では無いのかもしれないが、それなら尚更この様式と渡し方が気にかかる。
結局我慢できず、二人で霧谷の部屋に出向く事になった。
「これは、お二人ともお揃いで。久しぶりですね、隼人くん」
幸いな事に、先日よりは仕事が少々落ち着いたらしく、机の上の書類はかなり減っていた。昨日よりも生気のある顔でにこっと笑う霧谷に、椿はほっと安堵の息を吐き、隼人は遠慮なくずいっと近づき手紙を差し出す。
「おや、これは?」
「藤崎、さんからです。えーと、昨日の返事だと思うんですけど」
「おやおや…」
手紙を受け取りながら、不思議そうな顔をしていた霧谷は、隼人の言葉に唇を綻ばせた。人当たりの良い笑顔というよりは、本当に嬉しくて思わず出てしまったような微笑み。霧谷の笑顔を見慣れている二人にもその変化が解り、思わず顔を見合わせてしまう。
「あの人も律儀な方ですね」
微笑んだまま、霧谷は丁寧に手紙の封を切る。中に入っているのはやはり便箋一枚で、それを広げて確認し―――
「…ありがとうございます」
それは隼人と椿に向けられたものと同時に、多忙を極める手紙の相手にも捧げられたものだという事が解った。
もう一回、元チルドレン現エージェントの二人は顔を見合わせ―――我慢できなくなったのはやはり隼人の方だった。
「あの、その手紙って一体何なんすか…?」
普段ならでしゃばった真似を止める椿も、好奇心に負けたらしく口を挟まない。そんな二人を微笑ましく見ながら、霧谷はあっさりと言う。
「気になりますか? どうぞ」
そしてぺらり、と無造作にその便箋を差し出した。興味しんしんで身を乗り出した隼人と、咄嗟に俯いてから我慢できずおずおずと顔をあげてしまった椿は、「「え?」」と同時にぽかんとした声を漏らしてしまった。
目の前にある上質な一枚の便箋には―――何も、書かれていない。僅かな折り目だけがついた、まっさらな白紙だ。
どういう事か、と目をぱちくりしている二人に対し、堪え切れないと言いたげに霧谷は笑って言う。
「すみません、何かご心配をかけてしまったようですね」
「は、いえ、あの…」
「これは…その、どういった意味で…?」
もごもごしつつ問うた椿に一つ頷き、霧谷はもう一度すみません、と言ってから続けた。
「――あの人には、私用の通信をしても受けて貰えないんですよ。いや、出ては貰えるんですがその後怒られるんです。そんな事をしている場合ではないと―――労いや心配の一つも、受けて貰えないもので」
苦笑する霧谷に、椿も隼人も黙って続きを促す事しか出来ない。
「ですからちょっと周りくどい方法を取って、私も白紙の手紙をお出ししたんです。下手に内容を入れると、返事を書くという手間を取らせてしまいますし。―――あの人は、真面目ですから」
咄嗟にいえ、頭が固いだけです、と言いそうになった隼人の言葉は、読んでいた椿のストンピングが足の甲に決まった事によって止められた。んご、と鈍い悲鳴をあげるだけで我慢する隼人に気付いているのかいないのか、霧谷はあくまでおっとりと言葉を結んだ。
「元気そうで安心しました。隼人くんも椿さんも、ありがとうございます。変に気を使わせてしまって、申し訳ない」
「いえ、そんな事は」
つまり白紙の手紙が、互いの近況を忌憚なく伝える唯一の手段だったということなのだろう。何となく理解は出来たものの、エージェント二人はどうも気まずく、落ち着かない空気を味わう事になった。
隼人の目撃情報により、藤崎がこの白紙の手紙を用意した時、それは既に封が閉じられていた事が解っている。つまり、こういうやりとりはこれが初めてではないのだろう。
霧谷はただ、仕事をこなす合間に白紙の手紙を渡し。
藤崎もまた、それを見て全てを汲んで白紙の返事を出す。何一つ言葉を交わさなくても、相手の無事を知り僅かな慰めとなるように。
そこまで考えて、椿はどことなく頬を赤らめて俯き、隼人も落ちつかなげに目を逸らして頭をがりがり掻いた。情緒の機微に疎い元チルドレン2人には、このなんとも言えない空気の居たたまれなさというか、気恥ずかしさがどこから来るものなのか解らない。
ただ、あのとてつもない堅物の藤崎弦一が、本来なら反目し合っている筈の霧谷とこんな飯事のようなやり取りをしていることを考えると、なんとも形容しきれない、不快ではないが恥ずかしい、そんな心地を味わってしまう。
霧谷は相変わらず嬉しそうに、何も書かれていない便箋に視線を落として柔らかく微笑んでから、二人にこう告げる。
「知っているでしょう? あの人は、厳しいけれどそれ以上に、優しい方なんですよ」
本人が聞いていたら絶対にバイザーの下で限界まで眉を顰めるであろう言葉を結んでから、霧谷はかなり元気を取り戻したようで、意気揚々と書類に意識を戻していった。