時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

プリーズ・メリー・ミー

 眠れないとぐずっていた最後の子供の一人が、漸く寝床の中で寝息を立て出したので、サゴジョはやれやれと腰を伸ばした。
 子供達が多くて随分と手狭に感じる小さな家だけれど、故郷の心無い人達の視線や、しがみついてくる強請り集りが無いだけで、呼吸は随分と楽だ。子供達もそれを感じているのか、随分と笑顔が多くなったと、思う。
 生まれ故郷から、孤児院で暮らしていた弟分や妹分を引き取って、街から少し離れた森の中で暮らし始めてから暫く経つ。生活自体は決して楽とは言えないが、悪くも無かった。
 理不尽が嫌で、不自由が嫌で、何もかも捨ててたった一人飛び出したことを、サゴジョは後悔していない。あの時の選択は、確かに育ての親や家族を追い詰めたのだろうけれど、自分はそれを是としたのだし、それを責めることが出来るのは既にこの世に居ないあの老婆だけだろう。彼女が子供達を守れと言ったのだから、自分はそれに応じようと思った。それだけがきっと、自分がやらなければならないことだと思ったからだ。
 何度も言うが、後悔してはいない。ただ、ほんの少しだけ。
 静かな夜に一人で起きていると、思い出してしまうだけだ。
 森と河を超えた向こうの広大な砂漠を。
 大地の大穴の底、水に囲まれた国を。
 何処までも続く麦畑と、雪に包まれた峠を。
 世界が繋がっていることを己の足と目で証明して、手を叩きあって喜んだ、相手を。
「……!」
 ぼんやりと物思いにふけるサゴジョの耳に、ほんの僅か、細く高い笛の音が聞こえて、はっと息を飲む。聞き覚えのある音だった。世界を旅していた時、夜にずっと響いていた音だ。
 もう一度、子供達が全員寝ていることを確かめて、そっと小屋を出る。この辺りの森には獣が殆どいないし、少し位出ても心配はいらないだろう。
 何より、目的の相手である青年は、小屋の周りを囲う柵に寄り掛かって笛を吹いていたからだ。
「フォン!」
 大きな荷物を背負ったまま、木々の隙間から見える遠く輝く月を見上げて、横笛を拭いている水色の髪の青年の名前を呼ぶと、サゴジョの顔は自然と綻んだ。
 笛の音が止まり、青年がゆっくりと振り向く。最初に出会った頃は随分あどけない顔立ちだったのに、気づけばしっかりとした青年になっている。その分自分も年を取ったのだろうな、と苦笑しながら彼の傍に近づいた。
「よう、久しぶり。あれ? マオはいないのかい?」
 こくり、と頷かれる。口の利けない彼の代弁者としていつも彼の傍にいる白猫の姿が見えない。珍しいことがあるものだと思っていると、フォンはサゴジョの方を見たまま、すいと森の向こう側を指さす。その先には彼の生まれ故郷である街がある筈で、なるほどと頷いた。
「実家の方にいるのかぁ」
「……」
 意志が通じたことが嬉しかったらしく、僅かに目の輝きが増してこくりと頷かれる。出会った頃からあまり表情を動かす奴では無かったけれど、いつの間にか彼の言いたいことは解るようになった。……それぐらい、一緒に居て、旅をしてきたのだ。
 ほんの僅か、寂寥が胸を疼かせるが、それを堪える。自分は選んで、彼も笑顔で見送ってくれた。そのことに後悔は無い。この想いはきっと、あの旅があまりにも楽しすぎたせいなのだ。
「……?」
「ん? ああ、なんでもないさ。お前こそ、今度はどこを旅してきたんだよ」
 何気なく問うと、フォンはほんの僅か頬を綻ばせ、荷物の中から使い込んだ地図を取り出す。世界のすべてが描かれた、この辺りの人間にとっては冗談としか思えない地図の上に、フォンの意外と太い指が滑っていく。北へ向かい、岸壁を乗り越えて、西へ西へ。
「あの山までいったんか! お疲れさん」
 一緒に柵に寄り掛かったまま地図を覗き込み、長旅を終えてきた彼の頭をわしわしと撫でてやる。ちょっと居心地悪そうだが拒否もされないので、遠慮なく。普段マオがいると、ご主人様を子ども扱いするなんて! と怒られるので、今だけの特権だ。
 調子に乗って触り心地の良い水色の髪を更に掻き回してやると、いい加減にしろ、と言いたげに頭を振られた。悪い悪い、と宥めると、僅かに乱れた髪を直しながらもフォンはまた自分の荷物をごそごそと漁り出した。
「……お! すげぇ! 落し物じゃん!」
「……!」
 つるつるとした不思議な石で造られた四角形を差し出され、サゴジョも嬉しくなる。彼はこうやって、大きな町で売ればそこそこの値段になる「神の落し物」を度々持ってきてくれていた。単純に金を渡されても自分が素直に受け取らないことを解っているのだろう。サゴジョも有難く受け取って、けれど出来る限り彼の世話にはなりたくないので、いざという時の為に貯めておいている。
 自分が喜んだことが彼も嬉しかったのか、満足げに頷いてから次々と荷物から色々出してくる。赤い色の葉、大きな巻貝の貝殻、山の上に咲く花の押し花、それからそれから――
「……懐かしい、な」
 掌に集まった、世界の欠片に、思わずサゴジョの声が漏れた。ぴたりとフォンの手も止まり、ほんの少し心配そうにサゴジョの顔を覗き込んでくる。
「ああ、ごめんな! そういうんじゃなくて、その――」
 これは未練では無いのだということを伝えたくて、もごもごと言葉を捏ねる。彼が尋ねてくれることも、彼が自分のことを思って、旅をしながら様々な土産をこうして届けてくれることも、本当に嬉しいのに。
 気恥ずかしさと戸惑いから、どうも言葉が捻りだせないサゴジョのことを、どう思ったのか。フォンは表情を動かさないまま、つともう一度横笛を取り出して、口に当てた。
「フォン?」
 問いかける声にいらえは無く、澄んだ音が夜の森に響く。
 それはとても優しくて、静かな曲だった。一緒に旅をしていた頃、テントを張って眠る夜に、彼は色々な曲を吹いてくれたけれど、初めて聞くものだ。
 彼が出せる唯一の音であるこれは、彼にとって声と同じなのだ、と言っていたのは彼の相棒の猫だったか。ただ、ただ、ずっと心の中で燻っていた色々な物を、ちゃんと形にして吐き出すように、滑らかにどんどんと音色は繋がる。
 しばし、サゴジョも考えることを止めて、音に聞き入る。日々の疲れや、どうしても捨てることが出来なかった羨望に、音が少しずつ染みこんで癒されていく。
 兄貴ぶって自分が引っ張っていくように見せかけて、彼が持っていた地図と、彼が向かう背中に憧れてついて行ったのは自分の方なのだ。
 育ての親に向け続けた子供の様な意地も、彼の真っ直ぐな目で後押しされることで解されて、自分は今、ここにいる。
 細く長く最後の音が夜空に消えて行って、フォンがふうと息を吐く。すると思わず、サゴジョの口から賞賛が漏れていた。
「……やっぱお前って、凄いなぁ」
「?」
「いや、うん。俺、やっぱお前のこと好きだわ」
 飾らず、素直に言おうと思った。他の仲間もマオも、子供達もいない、彼にしか聞こえないこの時だからこそ。変に格好つけなくても、ちゃんと彼は受け止めてくれると解っているから。
 言われた方のフォンは、ぱちぱちとせわしなく瞬きをして、困ったようにうろうろと視線を彷徨わせて……何故か戦闘前のような覚悟を決めた顔で、ポケットの中から何かを取り出した。
「あ、それ! 懐かしいなぁ」
 きらりと月明かりで輝くそれは、シンプルなデザインの結婚指輪だった。既製品でも中々値段の張るそれを、彼が買っているのを見つけた時は随分と驚いたものだ。
「なんだよ、まだ渡してなかったのか?」
 その後、オーリの教会に引っ張って連れていかれ、鐘の下でその指輪を見せられて。誰に渡すんだと散々せっついてやったが、頑として口を割らない――もちろん喋れないのだが――し、通訳であるマオにも引っ掛かれるぐらい怒られたので、結局解らずじまいになってしまった。
 サゴジョともずっと旅をしていて、今は王の国にいるらしいアシャスか、水底の国の未亡人か、はたまた王の国のお姫様に無謀にも挑んだのだろうか? 旅の連れして一時共に過ごした様々な美人の顔を思い出しながら、のんびり促してやると。
「……」
「えっ!? フォン!!? どうした!?」
 何故だかフォンが、今にも泣きそうな顔をしていて驚いた。思わず両手を肩に置いてこちらを向かせると、目尻に溜まっていた雫がぽとりと零れて更に慌てる。声が出ないまでも笑ったり、怒ったりするのは何度か見たことがあったけれど、こんな泣き顔を見たのは初めてで。
 おろおろととりあえず袖で涙を拭ってやると、幸いすぐに止まったようだったが、今度は随分と不満げな顔をされた。
「ええ……どうしたんだよ、本当お前」
 どうすれば良いか解らず、まるで子供達をあやすようにそっと頬を撫でてやると、ほんのちょっと機嫌は直ったようだった。そしてフォンは無造作に手を伸ばすと、自分の顔に置かれていたサゴジョの左手を取って、
「――え」
 指輪を嵌めて、満足げに息を吐いた。当然だが、薬指に。
 しばし沈黙が続く。フォンはじっと俯いたままで、サゴジョも今の状況を把握するので精いっぱいだ。
 まさかと思うし、嘘だろとも思うけれども。僅かに震えた彼の手が、本気であると言うことがいやというほど伝えて来て。
 そういえば、とどんどん思い出す。オーリの教会でも、水底の国でラブゴンドラとやらに誘われた時も。当たり前のように誰を誘うんだと聞いた時、やっぱり彼はほんの少しだけ、悲しそうな顔をしていなかったか? あれはてっきり、相手が居ないのに見栄をはったせいかと思っていたのに――
 恐る恐る、俯いたままのフォンの顔を覗き込む。港町育ちとは思えないぐらい色白である彼の顔は、月明かりでもわかるくらい真っ赤に染まっていた。
「……マジか」
 そう思わず呟いたサゴジョの顔も、自分では気づかないが己の髪に負けないぐらい真っ赤になっていた。
「……どうしてだよ。俺、お前に何も出来ないよ」
「……」
 思わず、呟いてしまった言葉に、フォンはふるふると首を横に振った。
「だって、俺はあいつらをもう二度と見捨てないから。お前と一緒に旅して、お前を守ってやることも出来ない」
「……」
 もう一度、ふるふると首を振られた。それでいいのだ、それがいいのだと言いたげに、握った手に力を込められた。長旅で硬くなった、顔に似合わない胼胝だらけの手に、何故だか酷く安心する。
 それに後押しされるように、腹を決めた。彼は言葉を離せないから、彼が答えられる問いを返さないといけない。
「……それでもいいなら、待っててくれるか。あいつらが全員、独り立ちする日まで」
「!!!」
 ぱっとフォンの顔が上向く。少女のような顔が僅かに上気して輝き、何度も何度も頷く。そんな必死な様がおかしくて、サゴジョも思わず笑った。
「ったく! しょーがねぇな!」
 ぐいと彼の小さな体を――本当、この体の何処に世界一周をするだけの胆力があるのかいつも不思議だ――抱き寄せて、しっかりと背中に腕を回してやる。フォンは一瞬吃驚して体を硬くしたが、返事の代わりとばかりに彼の手もサゴジョの背に回った。
「その時が来たら、また――俺も連れて行ってくれよ」
 今度はちゃんと隣を歩くから、という思いを込めて囁くと、サゴジョの胸の上で何度も頷く感触がした。ほんの僅か、服の胸元が濡れたことが分かったので、そっともう一度頭を撫でてやる。
 ……先刻彼が吹いていた曲が、遠く離れた稲穂の国に伝わる、切ない思いを伝えた恋の歌であることも、全てを知っていた喋る白猫が「もっとムード出してから告白に行きましょう!」と煽ったおかげで吹いていたということも、サゴジョが知るのはもう少し後のことになる。