時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

ユアハンド

「あ」
かつーん。
大振りのスパナが金属の床に落ちて、かなり高い音を立てた。別に悪い事をしていたわけではないのに、何故か息を呑んでしまう。低いモーター音が続くハンガー中にもそれは響き、きっと一階で作業している整備員達も気付いたはずだ。それが妙に気恥ずかしかったりする。
小さく舌打ちをして、狩谷は車椅子の踵を返させた。車輪を動かそうとする掌は酷く乾いてかじかんでいて、思ったように動かせず腹が立った。
決して気温自体は寒くないし、ハンガーもエンジン等の熱がそれなりに篭っている筈なのに、狩谷自身の血の巡りが悪いのか、兎に角指先が冷える。おかげで工具を取り落とす等という基本的なミスまで侵してしまった。
別に大した事じゃない、と嘯く自分の裏側で、こんな単純な事すら出来ない自分に対する自虐がじわりと沸いてくる。そのイメージはいつも紅い渦だ。ぐるぐる回って身体を蕩かして飲み込む。
危うくその渦に飲み込まれようとした狩谷は、目の前に立ち止まりしゃがみこんだ足に気づくのが一瞬遅れた。その足の持ち主は自分より幾分細い手と指で、無骨なスパナを拾い上げてしゃがんだままこちらに差し出した。
「はいっ、なっちゃん。これなっちゃんのやろ?」
薄紅色の髪が揺れる。ハシバミ色の瞳が細まって笑う。目の前に、自分を改変させる存在が居る。
どんなに邪険にしても、冷たくあしらっても、決して笑顔を失わない愚かな少女。
彼女が側に現れる度に、先刻の紅い凶悪なイメージが薄れていく事に気づき、戦慄する。
これ以上近づいては駄目だ。自分が改変させられてしまう。
「………………余計な事するな」
乱暴に、冷たいスパナをもぎ取る。もぎ取ろうとして、金属のスパナよりも冷たい指先に触れた。
「なっちゃん、手ぇすっごい冷たいで!? どうしたん!?」
それを言及しようとする前に、祭の方が逆に騒ぎ出した。冷たいのはお前の方だろうとあしらう前に、そっとスパナを役立たずの膝の上に置かれ、その白磁のような両手が。
きゅう。
「――――っ…な」
脳味噌の回線が一瞬ショートした。自分の両手が、油と人工血液で汚れた、生きているかさえ解らない程冷え切った両手が、全く別の生物のような手でしっかりと包まれた。大きさが違うので、全てを包みこむ事は叶わなかったけれど、狩谷は大変動揺して硬直してしまった。
「ん〜……、堪忍、うちさっき萌りんの洗濯手伝ってたんや。これじゃあったかく出来ないわぁ」
全く熱を伝導することが出来ない祭は、本当にすまなそうに詫びてから、その手を自分の側に引き寄せる。はぁーっと息を吐きかけ、一生懸命擦る。じわり、と痒みと共に少しずつ温もりが戻ってくる。
「…っやめろ!!」
不快なのか羞恥なのかすら良く解らず、狩谷は乱暴にその手を振り解いた。祭は一瞬、ほんの一瞬だけ泣きそうに顔を歪めたけれど―――それはすぐになりを顰め、いつもの明るい笑顔に戻る。
「えへへ、ごめんごめん。…堪忍なぁ、仕事増やしてしもて」
「…全くだな」
狩谷が整備しているのは士魂号弐号機。本来このじり貧の小隊において乗り手が居なかったこの機体に、事務官としてこの小隊に配属されながらパイロットに立候補したのは、紛れもないこの目の前の少女。血と泥と硝煙に塗れ、物言わぬ敵達との戦いに挑む。
しかし勿論、付け焼刃の戦車操縦はそう簡単にいくわけもなく、一番故障回数が多いのも弐号機だった。
「何のつもりなんだ」
「えっ?」
「素人が、わざわざこんな歩く棺桶に乗って、僕達に迷惑をかけないでくれ。死にたけりゃその辺で自殺でもしていれば良いだろう? 何のつもりでこんな――――」
心の奥底にある不安と心配を踏み潰し、狩谷は呪詛する。もしそれが曖昧な正義や義憤の為だと言われたら、彼は鼻で笑うだろう。否実際笑っていた。この偽善者の少女には似合いの理由だと思ったからだ。自分が嘲笑うに相応しい。
しかし。
「…うちは、死ぬ気なんてあらへんよ」
そう言って。
彼女は透き通るような笑みを浮かべた。
それは、今までの笑顔とは全く趣を別にする、とても透明なのに力強い笑顔で。
息を呑んで固まってしまった狩谷の手を、もう一度祭はそっと取った。
「大丈夫。絶対、帰って来るから。何度でも」
その声に死への恐怖はない。その笑顔に偽りの嘲りはない。何故なのか解らない。
「…っ馬鹿か。戦場に出れば絶対なんて通用しない、お前みたいな奴はどうせ戦場ですぐに死ぬ―――」
「うん。それでも、帰って来る」
冷たい手を、そっと柔らかな自分の頬に当てて、やはり祭は微笑んでいた。
護りたいと、思った。全てを指の隙間から零してしまったその手を。
そうさせる理由を作ってしまった自分の、償いと言うにもおこがましい行為だという事は解っているけれど。
もう一度このひとが笑ってくれるなら。
もう一度このひとの手が温まるのなら。
自分は喜んで化け物を狩る化け物になろう。
そう、決めたのだ。
祭はまた微笑む。それを見て狩谷はまただと思う。
最近、彼女のこんな微笑を見る事が多くなった。今まで、自分が邪険にすれば俯く事も多々あったのに、今は殆ど無い。寧ろ、何か達観してしまったような、遠い目を見る事が多くなった。
彼女自身が戦場に出て、撃墜数を着実に増やすようになってから。
ひとでなくなろうとするかのように、幻獣を狩り続けるようになってから。
それは自分にとって、とても恐ろしくて、歯噛みするほど羨ましくて、酷く不安になって、そして―――――
「っ!」
「えっ? な、なっちゃん?」
手を振り解き、逆に彼女の手を掴んで引き寄せた。やはり自分よりも冷たい手に眉根を寄せて、それを癒すかのように掌の中に口付けを落とすと、盛大に動揺した声が聞こえて少しだけ笑えた。
―――そうだ。それでいい。
自分の行動に、言動に、揺れ動いて戸惑っていればいい。
そんな――――どこか遠くから自分を見つめる、悟ったような視線で見ないでくれ。
子供のような駄々を口から出す事を拒み、狩谷は黙ってそのまま、自分の膝の上に少女を引き寄せる。ごとん、と再び大きな音を立ててスパナが床に落ちたが、気にならなかった。
「え、え、な、っちゃ…」
「…温めてくれるんだろ?」
子供が親に抱き上げられるような格好にされて、祭が顔を紅く染めてわたわたと戸惑う。どうにかして降りようと首をめぐらし捩るその腰に両手を回して、至近距離で囁くと耳まで赤さが伝染した。
細い身体が火照ってきている事が素直に好ましいと思った。
この腕に閉じ込めてさえおけば、彼女は■■■■にはならない。■を滅ぼす存在にはならない。
自分の思考が無意識のうちに断裂していることに気付かず、先程までの凶悪な衝動が全てなりを潜めている事も深く考えず、
只只狩谷は目の前の暖かい体をずっと抱き締めていた。