時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

【***】

カーテンを引き開けると、外はすっかり雪景色だった。それだけでは飽き足らず、空から白い粒がどんどんと落ちてきている。今日はコーラス部の練習が朝からあるので、早めに出ないと間に合わないかもしれない。
Hiverは雪が嫌いではない。冬生まれで名前も冬という意味を冠していることとは関係無いだろうが、夏よりも冬の方が好きだった。
しかし勿論寒いのは嫌なので、上着を羽織って手袋を嵌める。家から出ようとして、暖炉の上に飾ってある双児の人形の傍に戻り、まるで生きている少女を相手にするように、頬に口付けた。
「行って来ます、Violette.行って来ます、Hortense」
この人形は、自分が生まれた誕生日の祝いに、誰からとも知れずにいつの間にか家に来ていたらしい。送り主を探す前に、自分があまりにもこの双児を気に入ってしまったので、両親もそのまま手元に置いておくことにしたそうだ。
子供の頃はそれこそ、いつでも両手にこの人形を一人ずつ抱えていた。同じ年頃の友人達にはよくからかわれたけれど、手放すことだけは有り得なかった。今でもこうやって、挨拶を欠かす事はない。
改めて時間を確かめて、小走りでHiverは部屋の外へ出て行く。
ぱたん、と音がして、扉が閉められた。







「…ついに来たわね」
「…ついに来たのね」

「とっても残念だけど」
「とっても癪だけれど」

「仕方ないわね」
「仕方ないのね」

「だって、あの子は」
「だって、あの子は」


「「あの男のことを、忘れなかったんだもの」」


「お誕生日おめでとう、Hiver」
「お誕生日おめでとう、Hiver」

「貴方の数多の母親からの」
「大切なことばを伝えるわ」



「「―――貴方は、しあわせにおなりなさい―――」」






午前中の授業は恙無く終わり、Hiverは一人で外へ出た。
既に雪は止んでいて日が照っていたので、外で食事をしたくなったのだ。
といっても今日はそんなに空腹を覚えず、売店で買った紅茶を飲むに留めていたが。
寂れた公園の凍った噴水の縁に腰掛け、まだ湯気の立っている液体を口に含む。身体に広がる温かさに自然に頬が緩む。
雪の上にもかかわらず、随分と鳩が餌を強請ってうろついている。何も持っていないことを両手を広げて示すのだが、鳥達は未練がましく飛び立とうとしない。
そんな、いつも通りの日々。
昨日とも、きっと明日とも変わらない、いつも通りの日々。
例えそれが自分の生まれ出でた日だとしても、変わることは無い。
その筈だった、のだけれど。

ばささささ、と不意に鳩が飛び去った。
羽音に驚いて目を瞬かせると、雪の照り返しが眩しい公園の入り口に、誰かが立っているのに気がついた。

雪の中では浮き上がってしまう、黒い燕尾服。
時代錯誤な山高帽と片眼鏡が、誂えたように似合っている。
立派な口髭を蓄えたその男は、あの時と同じように―――あの時がいつなのか、Hiverには思い出せなかったけれど―――芝居がかった仕草で、笑って見せた。

「Salut,Monsieur.お別れしてから丁度20年、月にして240ヶ月、日にして7305日、時間にして175320時間、分にして10519200分、秒にして631152000秒。長かったのか短かったのか、いまいち私には計りかねるが、また―――君の傍に来たよ」

「―――――――ぁ、」
喉の奥から細く声が漏れ、ぱしゃりとまだ残っていた紅茶が雪の上に散った。
「愚かな提案があるのだが、如何かね?」
男は微笑んだまま、手袋に包まれた指をゆるりと伸ばす。僅かに震えるHiverの指が、それと触れ合った。
「私で良ければ君の―――、話し相手になりたい」
その言葉を聞いた瞬間。
Hiverは、思い出した。
忘れていたけれど、思い出した。
ずっとずっと待っていた、逢いたかった、その存在の名前を。

「………Christophe…ッ!!!」

立ち上がり、叫んだ瞬間、涙が零れた。そしてそのまま、抱き締められた。
「―――待たせてしまったかな? すまないね」
「…っ、………!!」
しっかりと抱き込まれた胸の中で、何度も首を横に振った。彼が何者なのか、Hiverには解らない。初めて逢った男だからだ。それなのに――――覚えていた。
「いささか卑怯だとは思うのだがね。私としてももう、我慢する事が出来ない。聞いてくれるかな?」
「…………?」
しがみついたまま不思議そうな子供に、賢者は笑って耳元で囁いた。あの時伝える事が出来なかった呪縛を。何よりも大切な相手に向ける誠意を。そして、言わずにはいられない自分の想いを。

「始めてお目にかかったときから。――――Je t'aime,mon cheri」

きっと、彼は驚いて。次の瞬間、本当に嬉しそうに、笑ってくれると解っていたから。






Une fin heureuse.