時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

【第四幕】

【第四幕:第一場】

「さぁ、行っておいで」
「「…Oui,Monsieur」」
いつも通りの出立を促す言葉と、いつも通りの諾の返事。返事がやや遅れてしまったのは、致し方ないことだと言える。
双児が思わず命を違えて、ここに留まりたいと望んでしまったほどに、今の主の姿は憔悴していたから。
パタンと扉が閉まり、音が無くなる。Hiverは椅子に戻らず寝台にも寝転がらず、立ったままじっとその扉を見詰めている。
賢者がここを去ってから、双児の出立を丁度7回数えた。帰還は丁度6回になる。きっと程なく彼女達は戻ってきて、その数も7回目になるのだろう。
「…ッ」
ツキリ、と原因不明の痛みが身体に走って、Hiverは僅かに眉を顰める。
賢者はあれから、一度もここを訪れていなかった。
今まで賢者は、双児が旅に出てからここにやってきて、戻ってくる前にここを去る。それが賢者が言う「1日、24時間、1440分、86400秒」という時間の単位ならば、賢者が来なくなってから丁度7日、168時間、10080分、604800秒が経つことになる。
また、ツキリと身体が痛んだ。どこに走る痛みなのか、Hiverには解らない。痛みを感じたことすら今まで無かったたら。
「如何して、」
思わず、そんな言葉が口を衝いて出る。
「如何して、来てくれない」
責める言葉ではあったけれど、声は掠れて僅かに震えてすらいた。
「君のご機嫌が直った頃」―――と、賢者は言った。それならば、可笑しな話だ。Hiverは今まで一度も、機嫌を損ねた事など無い。
あの時与えられた行為は、理由が解らず、恐ろしいと感じた。咄嗟に拒否を、見せてしまった。
でも、それでも。



嫌だとは、思わなかった、のに。



ぎゅ、と両手を握り締め、Hiverはゆっくりと歩を進める。扉の前に立ち、両手を其処につく。
扉のノブは回せない。この部屋から彼は出ることが出来ない。未だ世界の何処にも存在していない彼は、この揺り篭から出たらきっと消えてしまう。
「貴方が、居てくれたら、」
ぽたり、と床に雫が落ちた。それを拭ってくれるハンカチーフは今この場に無い。
「僕は、此処に、居られるのに…!」
言葉は涙と共に、床の絨毯に染み込んで消えた。






【第四幕:第二場】

「如何しよう」
「如何しよう」

「Hiver、泣いているわ」
「Hiver、泣いていたわ」

「如何しよう」
「如何しよう」

「でも、あの男が」
「でも、あの男は」

「Hiverを不幸せにするわ」
「Hiverを変えてしまうわ」

「如何しよう」
「如何しよう」

「ねぇ、Violette」
「ねぇ、Hortense」


「「私達は、如何したらいいの?」」






【第四幕:第三場】

たぷり、とグラスに並々と注がれた蒸留葡萄酒が音を立てた。
「まぁ、どうなさったのかしら、学者先生。暫くご無沙汰と思ったら、こんな所で一人で杯を傾けて?」
「これは失礼、Mademoiselle.自分の愚かさをこの美酒で、飲み干そうと足掻いているのですよ」
隣に座った、貧しい身なりだが美しい女に笑顔と杯を返し、Savantは改めて杯を干した。いつも余裕を持った彼らしからぬ、少々乱暴な呑み方だった。
「いやだ、本当に荒れていらっしゃる。いつものふてぶてしい語り口はどこにやってしまったのですか?」
女は彼と知己であるのか、そんな彼の様相に構わずに僅かに笑い、自分も酒で唇を濡らす。まるで愛しい我が子にご褒美の口付けを与えるかのように優しく、そっと。
そんな彼女の逞しさに流石の賢者も苦笑し、珍しく弱音を吐く気になった。
「恥ずかしながらこのSavant,年甲斐も無く恋をしてしまいましてね」
「あらまぁ、学者先生の恋煩い。貴方の見えない捩れた心を射止めるなんて、どんなご令嬢なのかしら?」
「深窓のご令嬢、正しくその形容が相応しい方ですな。生まれてこの方、部屋の外から出たことが無い。恐らく世の男は皆私と同じ姿形をしているとでも思っておられる筈」
「まぁ! そんなお嬢様のお部屋に忍び込むなんて、悪い先生ですこと」
ころころと女は笑い、軽く賢者を小突く。見た目を裏切り、彼女が自分に負けない程の学の高さと頭の回転の速さを持つことを知っているSavantは、その小気味いい会話を楽しみつつも今の心情を吐露した。
「いやはや、然り、全くもって。あそこまで信用されると、流石の私でも気が引けてしまいまして。何も知らぬ幼子を、手垢で汚す気分になります。耐え切れずに、逃げてしまったのですよ」
そう、逃げたのだ。未だ何者でもない彼に、自分の思い通りの心情を植え付けて手に入れてしまおうとする、自分の醜い心から。
最初は確かに興味だけであった筈だ。いつから変わったのか、尋ねたその日か、それともその次か。それすらももう自分で把握できない。
あの時、自分の衝動が理性を一瞬叩き崩したあの時、無様にも身体全体が歓喜していた。彼の全てを手に入れてしまうことを。彼を彼で無くしてしまうことを。
それは自分の本意ではない筈なのに、求めることを止められない。
もう、逢うべきではない。簡単なことだ、自分の足を向けるのを止めれば良い。それで終わる、全て終わる。世界は元に戻り、揺り篭はひっそりと揺れ続け、彼は自分の物語を見つけるまで謡い続けるだろう。



たった一人で。

たった、独りで。



「……本当に、その方の事を好いていらっしゃるのですね」
隣から声が聞こえて我に返ると、女は酷く落ち着いた瞳でそっと賢者を見詰めていた。
「これは、私が言える言葉では無いと解っていますが。一つだけ」
そっと、奢られるつもりは無いと言うように銀貨を数枚カウンターの上に置き、立ち上がりながら女は言った。
「本当に、大切ならば。決して手を離してはいけませんわ。無くなった時―――どれだけ嘆いても、決して戻らないのだから」
静かな言葉は、却って賢者の耳に響いた。
女が去り、男は何かを考えるようにこつ、こつ、と数回指で木目を叩き。
一つ納得したように―――或いは諦めたように息を吐くと、同じように御代を出して、立ち上がった。