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冥府に咲く花

今日もΘは地上へ現れる。
死は常に人に平等に降りかかり、如何なるものでも等しくその命を奪っていく。
その輝きは一瞬で、Θの手に抱かれた瞬間掻き消える。
やがて蠢くものがその場から無くなって、Θもその場から去ろうとして―――ふと、足を止めた。
指の長い腕をするりと伸ばし、星の光を僅かずつ、他の神々に気づかれぬ程度にこそりと奪う。掌の中で握りつぶしてしまわないように細心の注意を払い、慎重に。
やがて手の中に集まった光をΘは満足げに見詰めると、適当な入れ物を見繕ってその中に込めた。



地の底まで戻ってくると、いつも通りの沈黙と冷たさがΘを迎え入れる。ゆっくりと足を進め宮殿に辿り着くと、μとφが出迎えに現れる。
それもいつもの事だったのだが、今日は少しだけ違った。違和感を目に留めたΘが、ゆっくりと目を瞬かせる。
「ォ前達…其レハ如何シタ?」
指摘すると、一瞬二人は顔を見合わせ、困った顔をした。結われた髪が揺れると同時に、其処に飾られた細布も一緒に遊ぶように揺れる。
普段ならその布は、闇で織り上げた紫布の筈。しかし今彼女達の髪を飾っているのは、真っ白な布だった。見覚えがある―――あるようになってしまった、此処に不似合いな色の布。
「…ミーシャニ、貰ィマシタ」
「彼女ガ自分ノ服ヲ、裂ィテ」
そして少女達から予想と同じ答えを聞かされて、非常に珍しくΘは、傍目で見て解る程に表情を動かした。それは呆れであったり、畏れであったり――一番大きいのは、戸惑いであったけれど。
「…ァルテミシァハ何処ニィル?」
「中庭ニ」
「Θ様…」
素直に告げてから、心配そうに自分を見上げてくる黒き双子を安心させるように笑いかけ、その頭を撫でてやる。勿論飾り布が解けないように注意して。
「…良ク似合ッティル。大事ニ、スルトィィ」
Θの言葉に、μとφはまるで生者のような笑顔を見せ、二人で小走りのまま去っていく。互いに飾られた白布を触り合いながら、本当に楽しそうに。
やはり呆れたような溜息を吐いてそれを見送り、Θはゆっくりと歩を進めた。―――中庭に向かって。



中庭には紫色の篝火が常に灯されているけれど、やはり暗さにはそう大差ない。捻くれた石の樹が乱雑に立ち尽くすだけのその庭に、場違いなほど美しい、白い花が一輪咲いている。
本当にそう見えてしまって、Θは思わず自分の目を擦りそうになった。馬鹿らしい行為だと解っていたので、思い止まったが。
座るにはお誂え向きの横に伸びた幹に腰掛け、骨だけの鳴かない小鳥を指先であやしている白い少女。確かに冥府へ堕ちた筈なのに、その髪も肌も服も―――真白いままで、Θは近づくのを躊躇う。彼女を目の前にすると、いつもそうだ。この手で連れてきた筈なのに―――今は、触れるのが恐ろしい。
「―――タナトス? 帰っていたの?」
そしてそう躊躇っている間に、彼女の方に気付かれた。柔らかい笑みを浮かべ、羽を軋ませる鳥をそっと空に逃がすと、裸足のまま躊躇わず近づいてくる。
「お帰りなさい」
「………ァ、ァ」
彼女は全く揺らがない。かの世界の残酷な理不尽を、全て背負ったような運命を生き抜いた筈なのに。その顔に恨みは無く、その瞳に後悔は無い。
「μとφに会った? 髪を結い直す時に、たまには他の色も着けたらいいと思って、リボンを作ったの。私の服の端で、申し訳ないのだけれど他に見当たらなくて」
裂いた跡のある服の裾を抓んで、くるりと回ってみせる花。その姿は闇に閉ざされた冥府の王から見れば、とても尊すぎる。触れたいと願う、同時に触れてはいけないと思ってしまう。
こんな事は今まで無かった。Θは即ち死そのもの。誰も彼の傍にはいられない。だからこそ彼は全てを奪い、全てを取り込み、全てと一つになる。それなのに、彼女は。
彼女、だけは。
『タナトス』
躊躇わずに死の名を呼んで。
『私、貴方の傍にいるわ。貴方が寂しくないように』
そんな夢物語を口にして。
『だって貴方は―――とても優しいのだもの』
冥府の王の全てを、許したのだ。
―――こんな幸福が、何時まで続くのか、それは勿論Θにも解らない。運命の女神が誰より残酷である事を彼は知っているのだから。
それでも、今だけは。
「どうしたの?」
いつの間にか、娘はすぐ近くまで来ていた。背丈の差から顔を覗き込まれ、Θは僅かに臆しつつも、懐から地上より持ち帰ったそれを取り出す。
「まぁ…綺麗な花!」
蕾が閉じたままの一輪の白い花、それをそっと手渡す。花が死に触れて枯れ切ってしまわないうちに。
「私に?」
「…他ニ誰ガィル」
「ありがとう、タナトス。大事にするわ」
冥府の気に触れ、既に黒く変じ始めている花を、それでも娘は優しく掌で包み込んで笑う。そんな姿を眩しそうに見ながらも、Θは小さく首を振る。
「無駄ダ。ソレニ――渡スノハ其レジャナィ」
「えっ?」
不思議そうにもう一度花を見るアルテミシアの手の中で、ゆるゆると花は黒く染まり枯れていく。しかしそれを嘆く前に―――その蕾から、光が溢れた。
「あ…」
冥府の王が手ずから集めた星の光は、闇の中にふわりと丸まって、アルテミシアの掌に収まる。まるで、水面に映った満月のように。
「綺麗…」
勿論それは、見る見るうちに解けて闇に溶けてしまうのだけれど―――娘は確りと、最期までそれを見守った。
「…貴方が、集めてきてくれたの?」
「日ニハ触レラレナィ…月ハ大キ過ギル…」
娘が顔を上げると、死の神は僅かな詫びすらその顔に浮べていた。彼女が欲しがっていたものを思い出したけれど、本物を手に入れることは出来なかったから。
そんな彼の姿を見て―――神の花嫁となった娘は、正しく花が綻ぶように笑い。
良人が見惚れているうちに、その冷たい腕の中に飛び込んだ。
「…ァルテミシァ?」
「ありがとう…タナトス。信じられないかもしれないけど、何度だって言うわ」
戸惑い、やはりその身体を抱き締められない、臆病で優しい死神の代わりにその背を抱き締めて、娘は。
「私、しあわせよ。本当にしあわせなのよ、タナトス」
その言葉と違えることなく、冷たい胸に頬を摺り寄せて幸せそうに微笑む。
優しすぎて、運命を嘆いても逆らう事が出来なかった、ひとりぼっちの死神が愛しくて。
死という揺らがぬ結末によって自分の運命が終焉を迎えたのなら。
「ずっと、貴方の傍にいるわ…」
せめて彼が、もう孤独に苛まれることだけは無いように祈ろうと誓ったのだ。
Θはやはり、彼女の背に腕を回す事は出来なかったけれど、もう彼女にも存在しない筈の温もりを何故か感じ―――振り解くことも、出来はしなかった。