時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

Noble bud

耳に微かな歌声が聞こえ、パーシファルは思わず足を止めた。宮廷では女王の許しが無い限り楽曲の類を流す事は出来ない。何故、と首を傾げてすぐに理由に思い至った。
先日、女王の不興を買い投獄された詩人がいる。この国の絶対的権力者である彼女を前にして、欠片も臆することなく自分の考えを述べ、それ故に怒りを賜った。
愚かである、と思う。しかし同時に、何と強き男かとも思う。今この国で彼女に逆らえる者等一人もいない。国が、女王が、間違った道に進もうとしていることに誰もが気付いているのに、それを止めようとしない。今まさに裁きの日を待ちながら、それでも謡い続ける詩人に対し、自分が矮小で情けなく見えて、騎士見習いである彼は唇を噛み、空を仰いだ。鬱屈とした心と裏腹に、空は青く澄んでいた。
ばたん、ばさっ!!
「――――ッ!?」
その空が、不意に紅く染まった。何事か、と思う前にその紅は見る見るうちに自分に近づいてきて―――
どがさっ!!
「きゃあ!!」
「ぶふぅっ!」
…咄嗟に両手を伸ばし、受け止められたのが奇跡だと思った。広がりまくる絹の柔らかなスカートを慌てて纏めるパーシファルの気持ちを知ってか知らずか、落ちてきた紅色の少女はまさしく花のような笑顔を浮かべた。
「ありがとう、パーシファル。助かったわ」
「…殿下! お願いですから、危険な事をなさらないで下さい!!」
冬薔薇の女王は妙齢だったが子は少なく、嫡子であるのはこの幼き少女、ローザ・ギネ・アヴァロンただ一人だけだった。すなわち、この国の王位継承者は彼女一人。王家にとっても国にとっても、大切な身体であるにも関わらず、彼女はとても自由で奔放だった。こうやって勉学の合間を縫って、二階の窓から飛び出すことなど苦ではないように。…何故かパーシファルは、そういう状況によく遭遇する。それは彼がいつも自主的に姫君の私室を見回りしていることと、それを狙っていつもローザが行動を起こすことによる相乗効果なのだろう。
「パーシファル。私、そういう風に呼ばれるのはイヤだっていつも言ってるでしょう?」
「…ローザ様。どうか、御身大切になさって下さい。こう無茶をなされるようでしたらこのパーシファル、身体がいくつあっても足りませぬ」
年相応の他の少女と何ら変わらぬ、唇を尖らせて不満げな顔を見せられて見習いの騎士はがくりと脱力した。自分は本来ならば、王女にお声をかけて貰えることすら許されぬ身分なのに、この美しい姫君は年が近いというだけで何の躊躇いも無く自分を信頼し近づいてくる。光栄この上ないし、正直不敬ながら嬉しく思ってしまうのもまた事実。しかし、それとこれとは話が別だ。
「別に危険な事をしたつもりは無いわ。貴方がちょうど窓の下に来て、ちゃんと上を向いてくれたから、遠慮なく飛び降りたんだから」
「ですから…! もし私が受け止められなかったら、どうなさるおつもりですか!」
噛み合わない会話に不敬も忘れて思わず声を荒げてしまったパーシファルに、ローザは心底不思議そうに首を傾げてからにっこり笑った。
「何言ってるの。貴方、ちゃんと受け止めてくれたじゃない」
「……………」
向けられる瞳には一欠片の躊躇いも無く。パーシファルは僅かに高揚する心を必死に堪え、何を調子に乗っているかと自分を戒めた。
「ごほん! では、今回は何用でしょうか。またご勉学からの逃亡ですか」
「失礼ね、今日は違うわ。ねぇパーシファル、貴方に連れて行って欲しいところがあるの」
咳払いをしどうにか態勢を整えたパーシファルだったが、次に続けられた姫君の言葉に仰け反り、慄き、必死に止め―――それでも結局、その願いを呑まざるを得なかった。







「あまり時間は取れませぬ。どうぞ、お早く」
「解ってるってば。パーシファル、肩を貸して」
「は…では、失礼して」
城壁のあまり人の目のつかないところまで辿りつき、パーシファルは壁に向かいしゃがみこんだ。ローザはやはり躊躇わず、膝を彼の肩に乗せ、更にその上に立ち上がった。細心の注意を払って、そろそろとパーシファルは立ち上がる。
「…パーシファル、もう少し上。頑張って」
「……心得ました…」
「よし、届くわ! ありがとうパーシファル、上を見ちゃダメよ」
「ッ…お、お早くお願い致します…!」
動揺し思わず崩れかける膝を必死に支える騎士見習いの肩の上、ローザは漸く届いた石壁の間の隙間に手をかける。そこは、城の地下牢に通じている明かりと空気取りの為の窓だった。吹き抜けのそこから無理矢理顔を突っ込むと、ひやりとした黴臭い臭いが鼻をついた。そして、そこから流れてくる歌もまた尽きることなく続いていた。
「………。これは、このようなところに不似合いな麗しき蕾の君。如何なるご用件ですかな?」
囚われびとは、竪琴を弾くための両腕を鎖で繋がれ、枷で戒められているにも拘らず、高い窓から顔を出した姫君に歌を止めると笑顔を見せた。
「歌の邪魔をしてごめんなさい。私の名はローザ・ギネ・アヴァロン。まずは母の非礼をお詫びします、エンディミオ・バラッド様」
いきなり何てことをおっしゃるんですか、と焦るパーシファルは咄嗟に上げそうになった頭をどうにか下げる。いくら実の娘といえど、逆らうのならばあの冬薔薇の君は容赦はしまい。そんな危険な言葉を紡ぐ姫君に、囚われの詩人も流石に驚いたようだった。
「蕾の姫君、貴方がおっしゃる通りの方ならば、ますますこのようなところに来てはいけない。どうかお早く、お部屋にお戻りください」
「どうしても、貴方に一つだけ聞きたいことがあったの。それを答えてくださるのなら、すぐに戻りますわ」
男達の懊悩など構うことなく、ローザは凛と言葉を紡ぐ。まだ年端も行かぬ少女であるにも関わらず、その言葉は逆らうことは許さないという威厳にすら満ちていた。鎖に繋がれたままの詩人が、思わず居住まいを正すほどに。
「…なんなりと。お言葉を拝聴しましょう、姫君」
「ええ、ありがとう。…私が聞きたいのは、一つだけ」
すう、と息を吸い。ローザはその声の中に湧き上がる悲しみと責めを堪えて、努めて平坦に言葉を紡いだ。
「…貴方が守ることを願うその思い出の花は、貴方の命を捧げるほどに美しいの?」
「「――――…」」
沈黙が二つ。声をかけられたバラッドも、声を聞いていたパーシファルも、息を一瞬止めてしまった。
「私には、解らない。…だって貴方が死んでしまったら、貴方の思い出の中の花ももう二度と咲かないのよ」
「………姫君。私の命を、それだけの価値と思って下さいますか」
「私の部屋から、貴方の歌声がいつも聞こえるの。とても素敵よ、ずっと聞いていたいぐらい。それすら叶わないの?」
言葉を撤回すれば、罪は消えずとも命までは奪われないだろう。それを踏んだ上で、ローザは彼に提案していた。こんな理不尽な命令で、命を投げ打つ事など無いと言うように。
その真摯さを受け取り、詩人は深々と頭を下げ―――ゆっくりと上げた。その顔は――晴れ晴れとしたような、笑顔だった。
「ありがとう、蕾の姫君。貴方がお忘れにならない限り、あの花は咲き続けるでしょう…貴方の中に」
「それじゃあ…!」
ローザの喉から、絶望的な台詞が漏れる。パーシファルは思わず、支えているローザの足首を不躾と知りながらぐっと握り締めた。彼女を止める為に、また、自分の心を抑えるために。
「お許しください。これだけは――――既に失ってしまったからこそ、もう二度と手を離すわけにはいかないのです」
矛盾するような言葉だったけれど、ローザはその心を飲み込んだ。失ったわけではない―――最後に残ったものを、奪われぬ為に、彼は道を選んだのだ。後悔等するわけがないと、その瞳が言っていた。明かりもない暗い牢獄の中で、それは輝いて見えた。
「…そう。それならば、もう私が言えることは何も無いわ」
石壁にきりりと爪を立て、ローザは殊更静かな声を出した。うっかり声を荒げたら、色々なものが関を切って溢れそうだったから。
「ありがとう、エンディミオ・バラッド様。…貴方の歌を、私は忘れない」
「ありがとう、ローザ・ギネ・アヴァロン様。貴方はいつか蕾を開き、大輪の薔薇となるでしょう。願わくばその頃には、誰もが歌いたい詩を謡える国に」
「約束するわ。誰もが歌いたい詩を謡える国を、私は創ってみせる」
ゆっくりと、パーシファルが膝を曲げる。ローザは抵抗せずにしゃがみこみ、地面に踵をつけた。バラッドは姫君が消えた窓をじっと見あげ、漸く夕暮れが近い空に浮かんできた細い三日月を眺め、優しく溜息を吐くように囁いた。
「ルーナ。私は後悔等していないよ」
命を冷徹なる女王に握られているにも関わらず、やはり彼は笑っていた。
「…この歌がいつか君に届くのならば、私は歌い続けられる…」
ゆっくりと目を閉じ、息を吸い。愛しき人に捧げる、唯一つの歌を紡ぎ続ける。無論、その命が尽きるまで。







部屋に戻る道、ローザは無言だった。前を歩く小さな背中に、パーシファルは何も声をかけられない。その肩が小さく震えていることに気付いていたし、気付いてはいけないものだと解っていたから。
さくさくと芝を踏んでいた足が、不意に止まった。
「…パーシファル」
「はい、ローザ様」
肩はやはり震えているのに、声は震えていなかった。パーシファルは黙って、次の言葉を待つ。
「………貴方も、守るものの為なら命を捨てることが出来る?」
「…それが、私にとってそれだけの価値があるのなら。躊躇う事は無いでしょう」
貴方のためなら、と言いかけた言葉を飲み込んで、それでも本心を告げた。その声に弾かれるように、ローザがばっと振り向く。
「許さない!」
「ローザ様…?」
「躊躇うことなく命を捨てるなんて、許さない。…守りたいのなら、生きなさい! 残された者がどれだけ貴方の死を嘆き悲しむか、その事を考えなさい!」
あの詩人の心を自分が動かす事は出来ない。でも、目の前にいる優しき騎士の彼が、同じように自分の命を捨て去ろうとするのは、許せなかった。―――贅沢すぎる我侭だと解っていても、彼を、そしてこの国に生きる全ての人を、失いたくはなかった。
瞳には、涙が溜まっていたが決して零れ落ちなかった。その瞳に射抜かれ―――パーシファルは自然に、その場に膝をつき頭を垂れていた。
「…心得ました、ローザ様。私は必ず騎士となり、貴方の為に剣を取ります。必ず生き抜き――貴方を、守ります」
本当に、自分の命と彼女の命を天秤にかければ、自分は躊躇い無く自分の命を捧げるだろう。だが、その彼女がそれを望まぬのならば、自分は決して死ぬわけにはいかない。…初めて宮殿に参内し、この美しい蕾の姫君に出逢った時から決めていた。自分は――――この姫君の、騎士となろうと。
自分に臣下の礼を取った青年にローザはきょとんとしていたが―――すぐに意味を汲み取り、きゅっと唇を結んで手を差し伸べた。
「ならば今、誓いなさい。パーシファル…私の騎士となり、私に剣を捧げなさい」
差し伸べられた小さな白い手を、パーシファルは躊躇い無く手に取り。
「全ては、我が主の御心のままに」
その手の甲に、恭しく口付けを落とした。