時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

きみがさいごにのぞんだこと。

アルヴァレス将軍亡命の報は、あっという間に大陸全土に広がった―――。





ガシャアン!!
「馬鹿な…!!」
皇帝からの報せを受け、ゲーフェンバウアーは思わず立ち上がり、テーブルの上の杯を叩き落した。赤みがかった黒の瞳は、堪えきれぬ怒りと憎しみに満ちていた。
<Belgaの死神>がブリタニアに亡命して以来、帝国の内外で反乱が勃発し、巨大な国は少しずつ削り取られ疲弊していった。情勢にすっかり臆してしまった皇帝は、止むを得ず休戦と言う事実上の敗北宣言を出すに到ったのだ。
「ふざけるな…その様な事、許してたまるか!」
「ゲーフェンバウアー卿! どうか落ち着いて下さい」
「全ては皇帝陛下の、ご意思でございます!」
「…くッ!」
ダァン!ともう一度強くテーブルを叩き、ゲーフェンバウアーは足取りも荒く部屋を出て行ってしまう。他の重鎮達がただおろおろと見守るその背中を、じっと見つめる視線が一つあった。
その視線の持ち主は確かに存在していたが、辺りの人間の誰一人として、認識出来なかった。やがて人影が無くなった時、その影は黒騎士の後を追ってやはり部屋を後にした。





「あぁあっ!」
ザムッ! ザンッ!!
苦鳴とも恫喝とも言えぬ声をあげ、黒い騎士は乱暴に剣を振るった。庭に設えられた豪奢な草木が、ばらばらと飛び散る。
「この期に及んで休戦だと…!? 呑めるか、あいつを、あの男を殺せる機会が…!」
ぎりりと唇を噛むと、皮膚が破れて血が滲んだ。その痛みすら意識出来ないほど、彼の心は怒りの嵐が吹き荒んでいた。
白き死神。自分の故郷を、親を、兄弟を、友人を奪った。今でも覚えている、血に染まった草原の中、ただ一人白いまま笑っていたあの男。
捕虜として帝国に下ってより、願う事は唯一つ、あの男の命を奪うこと。それだけを願い、望んで生きた。…望まなければ、生きていけなかった。
奴の部下として付けられた時は寧ろ狂喜した。いつでも寝首をかける位置に辿り付けた事を喜んだ。死神の分際で敵である娘を助け、帝国を裏切った時も。奴を殺す事が自分の手柄になるのなら一石二鳥だ、と。
それなのに。
それなのに!
「アァアルベルジュ!!」
ドガッ!!
死神の名を叫び、地面に剣を突き刺す。荒い息を吐き、遣り切れぬ思いを逃がそうとしたが、叶わなかった。
「忘れるな、と言ったはずだ…」
いつの間にか空は曇り、雨が降り出していた。雨足は強くなり、天を仰いだ頬を打ち付けるが、気にならなかった。
「貴様を殺すのは…<死神の死神>であるこの俺だと…!!」
ガカッ!!
絶叫は、雷に紛れても消されず、空を衝いた。深い憎しみを以って、その空を睨む黒き死神のその貌は―――、何故だか、今にも泣きそうな子供のように見えた。







「―――ならば、殺してしまえばいい」
「ッ!?」
不意に後ろから声をかけられ、ゲーフェンバウアーは素早く剣を構えた。いつの間に現れたのか、気配を殺し雨の中に佇む黒尽くめの男。ゲーフェンバウアー自身もその身を黒き服と鎧で覆っているが、彼の男は身体全体と頭、顔半分すら黒い布で覆っていた。その為表情は窺い知る事は出来なかったが、唯一見えている口元は、嗤っている様に―――歪んでいた。
「何者だ?」
「君が気にする事は何も無い。ただ君は、『やるべき事』を『やれば良い』のだ」
断定的な口調は、反論を許さぬように重く響く。目の前の男を読み切れず、躊躇する黒騎士に向かい、男はやはり笑ったまま何かの包みを差し出した。
「受け取りたまえ。君の願いを叶える為のモノだ」
「―――…」
警戒を解かないまま、ゲーフェンバウアーはゆっくりとその布包に手を伸ばす。ぐいと布を引き、乱暴に取り去るその下から現れたモノは――――。
「…これは…」
精緻な彫刻が施された、黒い弩。普段兵士が使うものと比べるとかなり大きく、装填された矢も金属だ。これを至近距離で撃てば、例え鎧であろうと貫くことが出来るだろう。その凶器は、黒き死神の手の内に、誂えたようにしっくりと収まった。
『謁見の間に続く回廊、五本目の柱』
辺りに響く男の声に、手の中の武器に魅入られていたゲーフェンバウアーははっと顔を上げる。既に黒装束の男はおらず、ただ声だけが風雨に混じって聞こえた。
『薔薇の女王は、左手に雷を、右手に銀の鎌を持って現れる』
「銀の、鎌…銀色の死神…!」
『黒の教団より放たれし刺客、死角より放たれし時の凶弾、歴史は改竄を赦さない…』
雨風に溶けて男の予言は消えていく。しかし黒騎士は、そのようなことにもう心を割かなかった。
「そうだ…俺は<死神の死神>…あの男を殺す為だけに存在する…!」
ゲーフェンバウアーの口元が歪む。まるで先刻の男と同じような笑みだったが、勿論彼は気付かない。
「は、は、はははははは!! 誰の思惑でも、何の悪戯でも構わん! アルベルジュ、貴様を殺せるのならばそれだけで、俺の存在は意味を持つ!! 待っていろ…待っていろ! はははははははははは…!!!」
狂ったように降る雨の中、狂ったように男は嗤う。
全てを失った彼が、最後に望んだもの。それを奪ったところで、自分の奪われたものが帰って来るわけでも無いことも解っているのに、欲さなければならないもの。
何故なら―――、それ以外のものなど彼はもう、手に入れることは出来ないのだから。手に入れることなど出来ないと、自分で決めてしまったのだから。
「ははははは…ははははははははは…!!」
愚かで、赦されぬ罪である筈なのに。
嗚呼、その思いは酷く―――恋と呼ばれるものに、似ていた。