時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

どうか彼らに祝福を。

それなりに広い部屋の床は、色とりどりの服で殆どが隠されていた。
箪笥の中から引っ張り出した、普段着から余所行きまで、ありったけの布が各々自己主張している。
「……………。如何しよう」
僅かに残っている床の隙間、そこに立って見下ろしながら、Hiverはざっと1時間逡巡し続けていた。
単純に、本日出かける際に何を着ていこうか、という思考だけだった筈だ、最初は。そんなに衣装を持っているわけではないし、一人で出かけるのだったらこんなに悩まない、のだが。
『今日の黄昏時、噴水の前で』
そんなメッセージカードが郵便受けの一番底にあることに気付いたのは正しくクリスマス・イヴの朝だった。
それからはろくに食事も口に入れず只管、服と睨めっこを続けている。もう既に太陽は天頂からかなり傾いでおり、我ながら間抜けだとは思うが、少しでも見目の良い出で立ちを選びたかった。
彼が、何者なのかは知らない。
何処から来たのかも、何処へ行くのかも知らない。
それでも、覚えていた。遠い遠い夢の中のような場所にいた自分を、導いてくれた人を。
逢う方法はあの頃と同じ―――彼が来てくれるのを待つだけで、それがもどかしくて。それでも逢える事が、とてもとても嬉しくて。
考えに考えた末―――自分のお守である人形達に、返事が無い事を解っていて「似合うかい」と同意を求めてしまった―――結局は一番お気に入りのシャツに、深い紺のファー付ジャケットを合わせる形にした。洒落たタイかブローチでも付けようかとも考えたが、浮かれた自分を見透かされるのも恥ずかしくて止めた。
「行って来ます、Violette.行って来ます、Hortense」
窓の外が茜色に染まり始めた為、動かぬ人形の頬にひとつずつ優しくキスをしてから、慌ててHiverは玄関から出て行った。





「…デートかしら」
「…デートなのね」
「嗚呼、あの男が憎らしいわねViolette」
「嗚呼、あの男が妬ましいわねHortense」
「でも」
「でも」
「あんな一所懸命なHiverは久しぶりに見たから」
「あんな可愛らしいHiverは久しぶりに見たから」
「憎らしいけど許してあげるわ」
「妬ましいけど許してあげるわ」
「あの服はとっても似合っているしね」
「あの子にとっても似合っているしね」
「でも、空色のブローチを付ければもっと似合っていたのに」
「でも、すみれ色のタイを付ければもっと似合っていたのに」
「……………」
「……………」
「空色のブローチの方が似合うわ」
「すみれ色のタイの方が似合うわ」
「………………」
「………………」
「「…嗚呼、やっぱりあの男は許せないわ!!」」






ぞろり、と背筋を駆け上った怖気に流石のSavantも身震いを隠せなかった。
「――――Christophe?」
訝しげよりも心配そうに、小首を傾げて聞いてくる隣を歩いていた銀糸の青年に、にやりと胡散臭い笑みを見せて誤魔化す。
「いや失敬。もうかなり日も落ちた故、寒くは無いかね?」
小さく首を振り、平気ですと微笑む青年が愛しく、Savantはらしくなくも素直な笑顔に緩みそうになった口元を何とか堪えた。
如何にも自分も浮かれているらしい。と心の中でこっそり賢者は呟く。
漸く再会できた愛しい相手と大手を振って外を歩けるこの状況も、それでいてその相手が、あの出逢った時を髣髴とさせるような服で現れて来てくれたことも、既に枯渇し乾涸びて、歓びに震える事など忘れていた賢者の心臓を揺さぶり潤してくれる。
「Monsieur,その服は―――」
「え…どこか、おかしいですか?」
「とんでもない。良く似合っているよ」
一瞬不安に揺れたオッドアイが、言葉一つで嬉しそうに微笑む。もう既にこの世に生を受けて20年になる筈なのに、このような素直な反応は、まだ彼が生まれ出でていなかった頃と全く同じだった。
聖夜に浮かれ歩く人々の間を縫っていく。普段ならば奇異に見えるであろうSavantの出で立ちも、そんなに咎められることもない。
目的地である映画館は、街の喧騒とは裏腹に静けさを保っていた。皆これから家族と過ごす故、寄り道はしないようだ。今年度最大の人入り、と宣伝されていた中世の宗教戦争をモチーフにした映画でもそれは同様で、空席が目立つ。
初めて入る映画館の薄暗さに戸惑っているHiverの手をちゃっかり取り、Savantは映画の見易い中ほどの席―――ではなく、最前列の端の方にある広めの席へ導いた。二人がけで丁度いいその大きさは、俗に恋人同士が座る事を目的として作られた席であることを、幸いにもHiverは知らなかったし、初体験の映画を最前列で見られることが嬉しいらしく、まだ予告すら始まっていない目の前の大きな画面をわくわくしながらずっと見ている。だから当然、その横顔を優しい瞳でずっと眺めているSavantの視線にも気付かない。
ビ―――…と開演のブザーが鳴り、いよいよ世界は闇に包まれた。






映画の内容は、悪くは無かった。互いを侵略し合う白と黒の軍勢、それを統べる誇り高き二人の将軍。敵同士でありながら結ばれる奇妙な友情と、それでも避けられぬ最後の激突。嘗てこの地を駆けていった二人の男の物語を、自分の目で垣間見たSavantにとっても中々に見ごたえのある代物だった。
敢えて難癖をつけるなら、架空の人物として彼らの奥方がキャスティングされ、ラブストーリーの比重が若干高くなっているところだが、それも味付けとして許容出来る。…勿論、Savantの視線は暇さえあれば画面から隣に移動していたのだが。
Hiverはというと、繰り広げられる大画面の物語に没頭し続けている。戦の場面では緊迫感に息を呑み、将軍達に卑怯で理不尽な要求を突きつける貴族達に憤って眉を顰め、それでも友情を途切れさせない二人に安堵する。
しかしやがて、その顔がはたと何かに気付いた顔になり、ついで顔にかぁっと朱が昇った。はて、と思いSavantも横目でスクリーンを見直し、成程と頷いた。
そちらでは今まさに、白銀の騎士とその奥方との最後の別れのシーンが行われていた。気丈なる奥方は涙を堪え、死地に向かう良人を送り出す。交わせぬ言葉を詫びるように、騎士は情熱的な口付けを奥方に捧げるのだ。
演技であるし、そんなに露骨な行為でもない。それでもHiverにとっては、他人の情事を盗み見てしまったような気まずさと恥ずかしさがあるのだろう、ついに俯いてしまった。
その仕草がどうにも可愛らしくて、Savantは思わずその俯いた頬に指を伸ばしてしまった。
つい、と撫でられたことに気付き、Hiverが顔をあげると、思ったより近い所にSavantの顔があり、先刻とは別の理由で頬が赤らんだ。
「Chri…」
「シッ」
つと、指一本で口を塞がれ、名を呼ぼうとした声を止められる。悪戯っぽく笑む賢者の唇が近づいてきて、戸惑うが、拒めない。
「ん………ッ」
逃げを腰に回った腕で封じられ、唇を塞がれた。画面の中の恋人達に負けないほどに、深く。
追い詰められるような激しさは無いが、容赦も無い。縁を食まれ、舌を吸われ、顎を舐められる。まるで吸い取られるように、Hiverの身体から力が抜けていく。愛しい相手に求められるのを拒める程、子供も満たされていたわけではない。
離れそうになる唇に自分から舌を伸ばして追ってしまい、更に羞恥で喉の奥が詰まったようになるが、賢者の肩を掴んだ指からだけは力が抜けない。
無論Savantは子供の望みを叶えるべく再び唇を近づける。
巨大なスクリーンの中では既に別れは済んでいた。





ほんの僅か熱の残った身体を持て余しながら、Hiverは歩く。本調子に戻れない子供の手は、足が縺れるのを防ぐと言う名目で未だに賢者に握られている。
正直、映画のラストがどうなったか良く覚えていない。情熱的な口付けを受けた後は、ずっとSavantに肩を抱かれてぴたりと寄り添っていた。ただただ、彼と触れ合える位置に居られる事が、嬉しくて。
僅かに潤んでいた瞳がぴんと輪郭を取り戻したのは、街角で楽師達が演奏していた楽曲を聞いた時だった。
美しい音色が家路を急ぐ人達の足をほんの僅か止めさせる、ポピュラーなクリスマスソング。ギターやアコーディオンが各々自慢の腕を披露しているが、シンガーだけは居ない。
自然と足の止まってしまったHiverに勿論Savantはすぐに気付き、同様に足を止める。そして繋いでいた手をそっと離し、その掌で青年の背中を押した。
「…Savant?」
「行っておいで。君の麗しき歌声を、披露してくるといい」
戸惑いは一瞬だけで、Hiverはほんの僅か頷いた。一歩、二歩、前に出て、訝しげな楽隊の視線を受けながらも、目を閉じて息を吸う。

「Angel we have heard on high,Sweetly singing o'er the plains And the mountains in reply Echoing their joyous strains―――」

その唇から漏れた美しいテノールに、楽隊はすぐさま目を輝かせる。飛び入りの参加は大歓迎とばかりに、各々再び音楽を紡ぎだす。一層華やかになったその一角に、次々と人々が足を止めている。

「Glo―――ria, In Excelsis Deo. Glo―――ria, In Excelsis Deo」

コーラスは夜空に高く響く。縁も所縁も無い人達が、暫しその歌声に酔いしれる。その光景を―――Savantは穏やかな笑みで、但し一、二歩下がって見詰めていた。
―――彼と自分の世界は、もう決して交わる事は無い。
彼が存在する限り、寄り添い護る事は出来る。しかし彼はもう生まれてしまった。一度しかない命の旅を始めてしまった。
その旅が終れば、彼は世界そのものと断絶し―――自分は独り、残る。何処でもない場所に、一人。
それを嘆く事はない。黄昏の賢者とはそういう者であり、Savant自身もそんな自分を割りと気に入っている。
それを悲しむ事もない。生まれ出でる事を恐れる彼に、選択を迫ったのは自分だ。そして彼は、安らぎの死ではなくざわめきの生を選んだ。喜びこそすれ、悲しむことなど何もない。

ただ――――、そう、ただ。
ほんの少し、ほんの少しだけ寂しいと―――柄でもなくそう思ってしまっただけだ。








歌の終りが拍手で迎えられて、僅かに上気した頬のままHiverは聴衆に頭を下げた。
そしてそれを上げ、自分の視界に見知った黒尽くめの胡散臭い姿が見つからない事にはっと気付いた。血の気が一気に引き、もどかしげに人込みに向かって駆け出す。
「Christophe!? Christophe!!」
途方に暮れた子供のように、彼の名を呼ぶことしか出来ない。
彼に出逢えたことが夢のようで、だからこそいつかまた、いなくなってしまうのが怖くて。
恨みなど抱かない。彼はいつだって、Hiverの事だけを考えてくれていた。
怒りなど抱かない。もう彼と自分の立つ場所は違うのだと、嫌と言うほど理解している。

だからこそ――――だからこそ。
出来うる限り、傍に居たくて。

泣きそうに歪んでいたHiverの瞳が、黒い外套の背中を捉えた瞬間、大きく見開かれた。
「Christophe…!!」
耐えられず、名前を呼んで、駆け寄った。その勢いのまま、抱きついた。
呼んだ瞬間彼は振り向いて、自分を抱き締めてくれると知っていたから。
「…済まないね。怖い思いを、させてしまったようだ」
背に回された腕も、耳元で囁かれる声もいつもと何も変わらない。それでも今、Savantの顔は見てはいけないのだろうという事をHiverは理解し、その胸に頬を摺り寄せる事で答えを返した。
「Christophe…」
「うん?」
「約束、してください…」
「何かね? Monsieur」
髪を撫でる手はやはり変わらず優しくて、泣きそうになった。それを堪えて、Hiverはしっかりとその約束を告げた。
「貴方がいなくなる時は、ちゃんと、言って下さい」
「――――…」
僅かに息を呑んだSavantの声を聞きたくなくて、一層その胸にしがみ付く。
「それなら、僕は平気ですから……ちゃんと、adieuと伝えるから…だから」
言葉は途中で止められた。Savantの両手が素早くHiverの頬を包み込み、上向かせたからだ。
人通りの未だ切れない道の真ん中であるにも拘らず、Savantは再び情熱的な口付けを落した。周りの人々が僅かに視線を動かすも止めないのは、祭りに浮かれた酔っ払いだとでも思っているのかもしれない。
「………ぁ、」
「―――その約束は出来ないね、Monsieur Hiver」
唇が離れた瞬間告げられた言葉に、Hiverの目尻に涙が浮ぶが、それを宥めるように唇で吸うと、Savantはあくまで胡散臭い笑顔でこう告げた。
「君と私のその約束は、別のものであるべきだ。『死が二人を分かつまで、この世の何処にあろうと、魂を寄り添わせましょう』と」
映画の中で、麗しき貴婦人が自分の良人に告げた言葉を、宣誓する様に胸に手を置き囁くと、朱と空色の瞳は限界まで見開かれ―――透き通った雫を今度こそ零れ落としてしまった。今度は勿論、喜びによって。
「…約束……して、くれますか?」
「喜んで、愛しき君よ」
もう一度、今度はどちらからともなく唇を合わせ、自然に手指を絡ませる。
「とりあえずは、君の部屋へ。寄り添わせていただけますかな?」
「…………はい…」
芝居がかった賢者の言葉に、子供は顔を真っ赤にしながらも確りと、頷いた。
夜半から降り出した雪に隠れるように、二人はゆっくりと歩き始めた。