時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

【第一幕】

【開幕:賢者の語り】

「Bon Soir,地平線の旅人達よ。
此度紡がれる物語は、生まれることもなく死に至ることもない、一人の赤子の物語。
彼は未だ世界を知らず、彼は未だ自らの意味を持たない。
私も黄昏の賢者と呼ばれる身、是非とも一度話し相手になりたいと思ってはいたが、まさかあのような事になるとは、流石の私にも予測が―――
おぉっと、これは失敬。語る前から結末を言ってしまうなど、全く興醒めであった。
では、ゆっくりと紡がせて頂こう。
傾かざる天秤に恋焦がれた、愚かな男の物語を――――」






【第一幕:第一場】

「さぁ、行っておいで」
「「Oui,Monsieur」」
蒼と紫のドレスを纏った双児の人形は、差し伸べられた主の手を軽く取り、もう片方の手指でスカートを抓み優雅に礼をする。
そしてこつ、こつ、と小さな足音を並べて立てながら、たった一つしかない両開きの扉から並んで出て行った。
人形達を見送り、Hiverはシンプルだが上質な椅子に腰掛けゆっくりと目を閉じる。旅人達の案内を終えて彼女達が帰って来るまで、彼は擬似的な眠りにつく。
そこに開始や終着は無く、過ぎ行く時間すらない。完全な停止と非常に良く似ているそれを、破る事の出来るものなど存在しなかった。
たった、今までは。
コンコン、と小さいノックの音がして、彼は目を覚ました。双児の人形が帰ってきたと思ったからだ。それ以外の尋ね人など、ここに来るわけが無いのだから。だから、いつもの彼女達のノックにしてはやや音が強かったことにも気づかなかった。
彼は躊躇わずに椅子から立ち上がり、ゆっくり歩いて扉の前に立ち、それを押し開けた。
「Bon Soir,Monsieur.ご機嫌如何かな?」
だから、今まで見たことのない男がドアの向こうに立っていて、思わず一歩後退ってしまった。
「おお、これは失礼。驚かせてしまったようだ―――」
黒い燕尾服で身を固め、時代錯誤な山高帽と片眼鏡が何故か良く似合っている口髭を蓄えた男は、芝居がかった仕草で肩を竦め、帽子の鍔を指で抓み、軽く礼をしてみせた。
「お初にお目にかかる、Monsieur.私の名は―――Savantとでも呼んでくれたまえ。愚かな提案があるのだが、如何かね? 私でよければ君の、話し相手になりたい」
自らを「賢者」と名乗る男は、まるで促すようにHiverに対して手を掲げてみせる。一度だけ左右色の違う瞳の瞼を瞬かせ、彼は考え始めた。
名前。それは知っている。彼に傅く人形の名は、菫と紫陽花。彼は賢者と名乗った。ならば、自分は? 確か一度だけ、呼ばれたことが―――


『――――におなりなさい、私の可愛い子。貴方の名は――――』


「―――Hiver,と。お呼びになるのなら、そう」
「ほう。私の故国の言葉では、冬を意味する言葉ですな」
やはり大仰な仕草で何度も頷いた男は、不似合いなほどの優しい笑顔でこう締めた。
「良いお名前だ」






【第一幕:第二場】

初めての「客」を迎え入れたHiverは、戸惑っていた。どのようにもてなせば良いのか、否「もてなし」というものがどういうものなのかすら解らない。椅子しかない、狭い部屋の中で、途方に暮れていたと言っても良い。
「何を仰る。ここには立派な蘭机(テーブル)も、豪華な寝台(ベッド)もあるではないかね」
Savantがそうのたまった瞬間、そこにしっかりした造りの蘭机と椅子が二脚、そして天蓋付きの寝台が現れた。
「まぁ、かけたまえ」
他人の部屋で我が者顔に振舞う賢者の無礼を責めることもなく、Hiverはすとんと促された椅子に腰掛けた。その余りにも子供のような仕草にSavantは口元だけで笑い―――すぐにそれは苦笑に変わった。
子供。それは当然だ。この赤子はまだ、この世に生まれてすらいないのだ。
「…何か?」
「いやいや、失敬。如何にも調子が狂っていけない。私もこのような場所に足を運ぶのは初めてでね、少々緊張しているのだよ」
僅かに首を傾げてその笑いの意味を問うているのであろうその顔は、やはり端正なのにあどけなく。まるで自分を誤魔化すように、賢者は肩を竦めて首を振って見せた。
「貴方は先程、僕の話し相手になりたいと仰ったが」
「僭越ながら、それを望んでおりますよMonsieur」
「僕に話せる物語など何も無い。それでも?」
それはとても悲しい事である筈なのに、彼は只ありのままを告げるだけだと言う様に、実に淡々と言葉を紡いだ。
「勿論。君が話さないのならその分私が口を動かそう。そうだな、まずは―――歴史に残らぬ歴史書の話など如何だろうか?」
それをまるで柔らかい布で包むように、賢者は鷹揚に頷くと、自分の言葉に僅かに身を乗り出した相手に対し、髭の下の唇をゆるりと緩めて見せた。






【第一幕:第三場】

黒い魔獣が世界を飲み込み、それでも白い烏が世界から飛び立ったところまで話し終え、Savantはおもむろに懐から懐中時計を取り出した。
「おおっと、これはいけない。もう3時間7分5秒も経ってしまった」
ぱちりと時計の蓋を閉めて立ち上がると、軽く身支度を整える。
「お帰りになりますか」
時間の概念が良く解らないHiverは、告げられた時の隔てを理解せずとも、この客がここから去ってしまうことは解ったらしい。
同じく立ち上がろうとすると、他ならぬSavantの腕ですっと留められた。
「楽しい時間だったよ、Monsieur.次はそうだな、丁度1日、時間にして24時間、分にして1440分、秒にして86400秒後、またお会いすると約束しよう。解らないのなら、ふむ…、数でも数えてみてごらん。そうやってお待ち頂けるのなら、望外の喜びだ」
そう言いながらSavantは、ひんやりと冷たいHiverの手を取り、青白い指に軽く口付けた。僅かに震えた指に微かに笑い、山高帽を軽く持ち上げるのを礼の代わりにして、その部屋から出て行った。
足音は扉が閉まると同時に聞こえなくなった。
Hiverは黙ったままだったが、触れられた場所に酷く違和感を覚え、先刻の彼と同じように自分の指先に唇を付けてみた。
「―――ああ」
誰に言うとも無く、彼は呟いた。違和感の正体が、解ったからだ。
「あの人は、温かかったんだ」
自分の手指も唇も、あんな熱は持っていなかった。
ふと、部屋の隅に残ったままの寝台が目に入る。何気なく近づいていって、片手をついてみた。
きしり、と僅かに軋む音だけで、掌が中ほどまで沈んだ。その柔らかさにHiverは驚くが、決して不快では無かったので、恐る恐るとではあるけれども寝台の上に膝をつき、ころりと寝転んでみた。
柔らかく体が沈む感触とその温かさが、何かを思い起こさせた。

暗いけれど温かくて、ただ優しい声だけを聞き続けてきたあの頃の――――

僅かな記憶が心地良くて、Hiverは静かに目を閉じた。
その頃にはもう、唐突な客人のことは意識の外に追いやっていた。






【第一幕:第四場】

旅路を示し終え、双児の人形が帰って来る。コンコン、と二人で一度ずつ、小さく扉をノックすると、部屋の中から主人の足音が聞こえる。
僅かに顔を見合わせて、人形達は微笑む。この瞬間が、二人の一番の喜びの時間。主が望む仕事を全うし、そして主の下に帰ってこられたのだから。
「お帰り、Violette.お帰り、Hortense」
「「ただいま戻りました、Monsieur」」
扉が開き、自分達を迎えに出てくれた主に恭しく礼をする。しずしずといつも通りに部屋に入った双児は、しかし部屋の中を見渡して目を瞬かせることになる。
「Monsieur? 寝台が欲しかったのかしら?」
「Monsieur? 蘭机が欲しかったのかしら?」
「いや」
こくりと違う方向に首を傾げる双児に対し、主は僅かに首を横に振るだけで答える。何かを欲しがったことなど一度も無い。欲しいのは、自分では詠うことの出来ない、自分が生まれ出でることの出来る物語だけ。
「邪魔ならば仕舞いましょうか?」
「無駄ならば片付けましょうか?」
「いや」
こくりと先刻と逆方向に首を傾げる双児に対し、主はやはり首を横に振るだけで答える。決して邪魔なわけでも無駄なわけでもない。寝台の寝心地は素晴らしかったし、蘭机と二脚の椅子は、いつかまた客が来たときに役に立つかもしれない。
そこまで考えて、Hiverは僅かに顔を曇らせた。また客が来る事などあるのだろうか。あるわけがない。あの男はまた来ると言っていたけれど、それが出来るとは思えない。―――この自分(セカイ)は、何も変わらない。
「僕の椅子はもうあるから、その椅子は二人で使うといい」
「「まぁ、よろしいのですかMonsieur?」」
お互いの手をそっと合わせて、嬉しそうな声を上げる双児にHiverも僅かに微笑んだ。
その変化を誰が与えたのかも、既に忘れていた。彼にとっては変化とは言えぬ瑣末事。もう、指先に与えられた熱は冷え切っていた。
しかし彼は未だ知らない。約束というものは、守られる為に存在するのだと。