時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

雨とカッパと繋いだ手

 ぱしぱしと安普請の窓ガラスに打ちつけられる雨を、床に両膝をつき桟に両手をかけて見上げながら、ヒオは眉尻を下げて呟いた。
「雨、止みませんのね」
「梅雨だからな」
 窓から丁度反対側の壁に背を落ち着けて、文庫本のページを繰っていた原川は視線も上げずに答える。愛想のない事この上ないが、彼としてはいつものことなので、ヒオも全く気にしていない。寧ろぶっきらぼうながら、返事が返ってきたことに目を輝かせて、振り返りながら言った。
「これが日本のツユですのね! 雨が落ちてくる様が麺のように細長く見えますから、メンツユと呼ぶと聞きましたの!」
「君はとりあえず、与えられる知識をひとまず疑ってみることから始めた方がいいぞヒオ・サンダーソン」
 えっ違いますの? とおろおろしながらも、ヒオは改めて窓の外を見る。先刻よりは勢いは納まったようだが、まだまだ雨は途切れそうもない。
 今日は学校も原川のバイトも休みだ。お互い外出にそこまで積極的ではない為、雨自体はそこまで忌避しない。ただ、目を逸らすことの出来ない現実が確かに存在していた。
「……原川さん、冷蔵庫の中身がピンチですの」
「今朝の分で最後の卵とマヨネーズも使い切ったからな」
「非常食の缶詰はまだ手をつけたくありませんの」
「あれは最終手段だからな」
 つまり、この家に現存している食料の備蓄が非常に侘しくなっているということだ。本来ならば今日中に買い出しに行く予定だったが、この雨ゆえに躊躇している状態だ。
 ちなみに買い出しは必ず二人で行くことになっている。ヒオが一人で行くと近所のスーパーまでの道のりでも迷うし、目的の物以外のエキセントリックな商品をうっかり購入してしまう。原川一人で行こうとするとヒオが「お世話になっているのですから!」とついて行きたがる。何回かの攻防の末、原川が折れた。時間と労力の無駄を省いたとも言う。
「あと、トイレットペーパーが今設置されている最後の一巻ですの。これは由々しき事態ですのよ」
「相変わらず古風な言い回しだけはきちんと使えるな、ヒオ・サンダーソン」
 褒められましたの? とちょっと嬉しそうに頬を赤らめるヒオを一瞬だけちらりと見ると、原川は溜息を吐いて立ち上がった。玄関に立てかけてある何の洒落っ気も無い黒い蝙蝠傘を手に取ったところで、ヒオが慌てて駆け寄る。
「原川さん、ヒオも参りますわ!」
「まだ風も強いぞ。君が一人で出たら飛ばされる」
「そ、そこまで小さくありませんのよ! どうぞお任せ下さい!」
 声は憤っているが、仕草はおずおずと原川の服の裾を掴んでくるだけだ。そんなアンバランスでいじらしい仕草をどう思ったのか、原川は深く一つ溜息を吐くと、部屋の中へ踵を返す。
「少し待っていろ」
「は、はい。あの……何を?」
 かなり色味の落ちた押入れの中に上半身を突っ込み、何かを探しているらしい背にヒオが近づくと、丁度お目当ての物を見つけた原川が無造作に振り向く。その手に掴まれているのは、あまりこの部屋では見たことが無い、原色の黄色が鮮やかなビニール製の何かだった。
 正体が解らずヒオが青い眼をぱちぱちと瞬かせているうちに、原川はそのビニールをばさりと乱暴に広げ、少女の頭から勢いよく被せた。きゃああ、と間の抜けた悲鳴をヒオが上げるのにも構わず、少々強引に彼女の手を引っ張り、戻し、着せる。
「……あら、まあ?」
 気づいた時には、ヒオの頭から膝裏までそのビニール製の上着で覆われていた。
「これは、レインコートですの? ビニール製のようですけど」
「こっちで言うなら雨合羽、だ。古いし見た目は悪いが、傘よりはマシだろう」
「確かにこれなら、濡れる心配がありませんわ。あら、でも、原川さんの分は――」
「生憎もう肩が入らない。替えは無いし君が使うと良い」
 両手を広げて腰を捻り、自分の着ている服の様相を確かめるヒオに対し、あくまで原川は冷静な声音で答え、再び玄関へと向かった。ヒオはその背を見送りながら彼の言葉を吟味して――ぱぱっと朱を散らせた頬を両手で覆う。
 つまりこれは、彼が子供の頃使っていたもののお下がりというものだろう。サイズに関しては彼の成長ぶりに驚嘆するべきか、己の発育不良を嘆くべきか微妙なところだが、それでも彼の私物には違いない。そうだとするとあまり上質とは言えないビニールが随分と温かく、はたまたくすぐったく感じ、思わず身を捩りながらおろおろと視線を彷徨わせてしまう。
「……何の踊りだ、ヒオ・サンダーソン。留守番したいなら俺一人で行くが」
「あ、ま、参りますわ! 今すぐに、ええ!」
 すぐさまヒオは駆け出して、二人揃って雨の中に足を踏み出すことになった。


 ×××


 雨の勢いは大分収まったものの、降る量は中々に多い。
 浅い川のようになった水捌けの悪いアスファルトの上を、大きさも歩幅も違う二足の靴が、並んで水を蹴って歩く。
 原川のジーンズの裾は残念ながら既に水浸しになってしまったが、ブーツと頭から膝下まで覆う合羽のおかげでヒオはまだ無傷だ。
 更に、隣を歩く原川が自分の傘を心持ち傾けているお陰で、ヒオにまず雨が当たらない。原川の右肩はすでに雨に濡れ始めているが、幸いヒオはまだ気づかずに、僅かに俯いたまま隣を歩いている。
 別に雨に対して不機嫌なわけでは、無論無い。買い出しに行く度に、画策しながらも果たせない目的が今日は達成できるかもと心を浮き立たせているのだ。
 ちらりと横を伺うと、原川の浅黒い腕は片方が傘を持ち、片方が手ぶらだ。残念ながら手ぶらの方はヒオと反対側で揺れていて、ほんの少し残念になる。
 ……日本では男女が買い物に行くときは、手を繋ぐ風習があると教わったのですが。
 何でもその作戦コードは「可愛い緑」と言うらしく、老いも若きも関係なく、歌を歌いながら繋いだ手を振り、スキップしながら歩くのが正しい作法だと言う。
 想像するとかなり恥ずかしい奇異な風習と思われるが、手を繋ぐぐらいなら自分にも出来そうだ。
 ひとつ息を吸って、足の運びを僅かに緩める。と、視線すら動かさずそれに気づいたのか、原川の歩みも僅かに緩む。
 彼の解り辛い優しさをちゃんと受け取り、幸せに顔を綻ばせるが、目的を思い出して慌てて首を振る。
 改めて、足の運びを緩め、彼の左手側に回った瞬間、ひょいと原川が傘の持ち手を変えた。
 悉く目的が潰されてしまったヒオは一瞬不満そうに唇を尖らせ、しかしそこでようやく彼の右肩だけが揺れていることに気づいた。
 慌てて足を止め、当たり前のように同じく立ち止まる原川に対し、困ったような顔で訴えた。
「原川さん、ヒオはこのアマガッパのおかげで、濡れる心配はありませんのよ。どうぞ傘はご自身だけでお使いください」
「……」
 言われて、原川は僅かに驚いたようにサングラスの下で目を見開き、眉間に皺を寄せた。どうやら傘による行為は、無意識だったようだ。
 その顔を不機嫌と取ってしまったヒオは、慌てたように両手を振って更に言葉を重ねる。
「ほ、本当に心配はご無用ですのよ! ええ、ヒオは聞いたことがありますの、カッパとは、日本に古くから伝わる水の妖精の名前ですのね。きっとその妖精の祝福がついているに違いありませんわ」
 沈黙が落ちる。反応が無いのでヒオが原川に近づき、顔を覗き込むと、彼は口元を手で押さえて目を逸らしていた。どうやらカッパ=妖精という表現がツボにはまったようだが、生憎ヒオはその僅かなニュアンスには気づけない。
「どうしましたの?」
「いや。……確か家に、河童が出てくる小説もあった筈だ。暇なときに読んでみると良い」
「はい!」
 彼が機嫌を直したらしい姿を見て安堵したヒオは、一体どんな妖精なのでしょうか? と空想に心を遊ばせて、もう先刻の決心を頭の外に追いやってしまった。


 ×××


 ――果たして全身緑色で皿と甲羅を背負った、子供の尻子玉を抜く妖精に彼女がどんな反応を返すのか、原川の中に悪趣味な期待が湧いたが顔には出さない。
 空を仰ぐと、傘の縁先から見える雲の色は大分濃くて分厚い。まだまだ雨は続くようだと原川が眉を顰めた瞬間――空が一瞬輝いた。
「っ!」
「あ……!」
 同時に足を止め、咄嗟に原川は隣に視線を送るが、ヒオは大きな瞳を空に向けたまま動かない。十秒ほど経った時、空の向こうで低く太鼓を叩くような音が連続して起こり、消えた。
「……そんなに近くありませんでしたわ。良かったですの」
「……ああ」
 そう言って原川の顔を振り仰ぐヒオの笑顔には、一欠けらの怯えも無い。決して彼女自身を見縊っているわけではないけれど、何となく肩透かしを食らったような気がして、原川は何とも複雑そうな顔をした。
「あら、どうなさいましたの? 原川さん。もしかして……あの、雷、お嫌いですの?」
 今まで全然平気そうだったのに、不意に眉を下げて泣きそうになってしまった少女に、上手くリアクションを返せなかった原川は、目を眇めただけで彼女を見下ろす。
「……もしそうなら、何だと言うんだ?」
 突き放すような言い草になってしまうのは今更修正できないが、ヒオは躊躇いはするものの、決して口を閉じることは無く、どうにか己の思いをか細い声で告げてきた。
「い、いえ、その……ヒオのな、名前が」
 また、沈黙が落ちる。雨が原川の差した傘に当たるぱしぱしという音だけが空間を支配する。その下で原川は茫然として、黄色い合羽に包まれた頭を俯かせたヒオを見つめている。
 傘の端から大き目の雫がぴちょん、とヒオの頭の上に落ちた時、漸く原川は我に返って口を開いた。
「ヒオ・サンダーソン。もう一度言うぞ、ヒオ・サンダーソン」
「は、はい!」
 図らずも彼女の保護者の一人の口癖と同じようになってしまったのは業腹だが、これはきちんと伝えないと彼女にいらない誤解を生んでしまうと原川は理解していたので。
「――この名前は、君に良く似合っている」
「ぇ――……」
 ぱっと挙げられた顔は上気して、青い瞳は今にも零れ落ちそうに見開かれて。雷の末裔の名を受け継いだ少女の瞳は、薄暗いにも関わらず、水を湛えてきらきらと輝いて見えた。
 不覚にも、まっすぐ見つめることが出来なくなって、原川は目を逸らす。先刻の自分の愚かな勘違いを恥じたせいもあったが。
 ――雷の申し子である彼女が、雷鳴に怯えるなどあり得ない話だ。
「……行くぞ」
 彼女を侮辱してしまったような後悔がどうにも気まずく、それを金繰り捨てるように大股でスーパーへ向かって歩き出した。
「あ、待ってください、原川さ――きゃああ!?」
 不意に歩き出した原川を、ヒオは慌てて追おうとして――結構深めの水たまりに、思い切り足を突っ込んだ。
 水たまりになるだけの傾斜を道の中に作っていたその場所は、ヒオの足を取って滑らせた。このままでは水と泥の上に、体を打ちつける羽目になると咄嗟に判断したヒオは、せめてもと、両腕で自分の体を抱きしめるように丸め、濡れる場所を減らそうと試み――
「――!」
「ふわっ?」
 ぽふりと、思ったよりも柔らかいがしっかりとした場所に抱きしめられた。態勢を立て直す前に、背中に回された腕の力が強くなり、先刻から雨に打たれていた合羽が彼の服と触れあっている事に気づき。
「だ、駄目ですの原川さん! もうヒオはぐしょぐしょに濡れてますのよ!」
 他の人間に聞かれていればまた誤解を招く言い方だったが、休日の雨中にわざわざ出てくる物好きもそうそういないので、原川は命拾いをした。
 ただその原川にとって、己の空回りで彼女をいらない危険に晒したことはどうにも不覚だった。腕を解き、申し訳なさそうだけれどほんの少し物足りなさそうに眉根を下げているヒオの頭を合羽の上からぽんと掌で軽く叩き、あくまで声音だけは呆れたように告げる。
「君は今、合羽を汚さないように庇おうとしたな?」
 図星を刺されたようで、ヒオはおろおろと辺りを見渡し、逃げ道は無いのを確認してからしゅん、と肩を落とした。
「すみません、お借りしたものですので、びしょ濡れにするのは申し訳なくて――」
「水と汚れを君の代わりに受けるのがその衣服の役目だ、ヒオ・サンダーソン」
 彼の発する正論に対し、ヒオは俯くだけで答えている。彼女自身、呆れられるだけのことをした自覚はあるのだろう。しかしそれでも、どうしても――彼の培った思い出も含んでいるであろうこの雨合羽を、汚すことは忍びなかったのだと言いたげで。
 彼女の頑固さは、充分すぎるぐらい知っている。原川はもう一度呆れたように溜息を吐き、合羽の上からヒオの小さな頭をぐりぐりと撫でた。その乱暴ながら優しい手つきと裏腹に、やはり声だけは冷たく。
「君は本当に、面倒な女だな」
「め、面目次第もございませんの……」
 ますます恥ずかしそうに俯いてしまう少女の小さな体を見下ろして、原川は出そうになる溜息をどうにか堪える。これ以上息を吐いたら、彼女を追い詰めるだけだと解っていた。
「ヒオ・サンダーソン、今日は特別だ。君の好きなトイレ洗剤をどれでも一つ、購入していい」
 だから、別の提案をすることにした。
「えっ……よ、よろしいんですの? それはまだストックがある筈ですけど」
「ああ、構わない」
 上げた顔はすぐにぱああ、と輝くが、何故自分が急にそんな事を言い出した理由が解らないのだろう、ヒオはきょとんとしている。
 自分としても、給料日前に無駄な出費が増えてしまうのは出来れば避けたいし、彼女を甘やかしている自覚もあるのだが。
 この少女は原川の一挙手一投足に注目し、一喜一憂し、その癖自分がしてほしいことについては中々口に出さないし、――ちょっとでも目を離せば先程のようにトラブルを起こす、本当に面倒な娘だけれど。
 だからこそ、ヒオ・サンダーソンという少女から、目を離すことが出来なくなってしまったわけで。
 原川はまだ雨足の強い天を仰ぎ、溜息を無理やり吸い込むと、いまだ所在無げな彼女の手を片方取り、大股で雨の中を歩きだす。
「えっ、あの、原川さ……」
「手早く終わらせて帰るぞ、まだ止みそうに無い」
 戸惑う少女に突き放すような言葉をかけながら、手の力を緩める気は無くて。
 暫しの沈黙の後、嬉しそうな笑い声が雨の中でもしっかりと聞こえ。
「――ありがとうございます、原川さん。今まさに、作戦コード『可愛い緑』発動ですのよ!」
「成程、凄く嫌な予感が現実になりそうなので、手を離していいかヒオ・サンダーソン」
「だ、駄目ですのよー!」
 慌ててしっかりと、小さな両手が原川の手を包み込むように握り締めたので、完全に逃げることが出来なくなった。