時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

ファントム・ペイン

自分の腕を見下ろし、アード・ハウリングウルフは不快そうに眉を顰めた。狼の氏族である証の一つである鋭い牙で、今にも唇を噛み破りそうにしながら。
筋張った筋肉と、刺青の彫られた浅黒い肌で形作られたその腕は、しかし右腕の手首から下が失われ、生々しい傷跡を晒していた。既に血は止まって久しいが、並みの神経を持つ者だったら痛々しさに眉を顰めてしまうだろう。
グラダスの鉱山都市にて、かの双子を監視する役目を果たしていたアードは、そこで四姉妹の策略により都市崩落に巻き込まれた。命を失わなかっただけでも充分すぎる程の僥倖ではあったけれど、それでも片腕が犠牲になった。
気がついた時には、瓦礫に自分の右腕は潰されていた。不覚による舌打ちを一つしただけで、彼は腰元の刃物を抜いてその腕を切り落とした。自分の動きを妨げるものは、例え自分の腕であっても必要ではなかった。
血止めをしただけで駆け出し、道を塞ぐ異形を狼に変じて打ち倒し、一度報告の為自分の主、サーライトの膝元までこうして自分の足で舞い戻った。
念の為腕は魔術師に見せたが、傷を癒せても腕を生やすのは不可能だときっぱり言い切られた。切り取られた腕が無ければ、元通りに接合するのも不可能。魔法が万能ではない事はアードも良く解っていたけれど、自分の感情を殺す事が何より苦手なアードはそのままその魔術師を殴りそうになった。
止めたのはその時偶然時を同じくして戻っていた、ココンコットの言葉だった。
『サーライト様がお呼びだぞ』
その一言でアードの動きはぴたりと止まり、憤懣やるかたない思いを抱きながらもこうして主の私室で大人しくしているのだった。
その荒々しすぎる本性故に、円環を満たす静寂を求めるエルファの森から飛び出した。故郷の森にいた者達も、旅の途中で出会い自分の傷を癒してくれた変わり者のレスティリも、自分に言う言葉は同じだった。
その荒ぶる心を抑える術を身に付けなければ、いつか黒の月に飲み込まれてしまうやもしれない―――。
また堪えられぬ苛立ちが全身を支配し、無造作に拳を振り上げ床に叩きつけようとして、そこが主の部屋である事に気付き寸でで堪える。
サーライト・ティーグ。トルアドネス帝国王位継承者第三位にして、アードの絶対者。
彼だけが、アードの意志を否定しなかった。
―――自分の力が暴力だと知っているのならば、それで良い。だからこそその強さには価値がある。
―――私が方向性を与えてやる。お前はお前を、抑える必要は何処にもない。
―――私に従え、アード。
「……………」
主の部屋の毛足の長い絨毯の上で、アードはごろりと丸まって寝そべった。人間の世界では無作法である事も当然理解していたが、こうする方が落ち着くのだ。耳を片方床につけておけば、主の足音もすぐに聞き取れる。
あの時告げられた言葉を、今も覚えている。
服従を望む、誇りを踏み躙る言葉であった筈だ。普段の自分ならば憤り、その喉笛を食い千切ってもおかしくなかった。
それなのに、あの声を聴いた瞬間、自分は歓喜した。この世界に生れ落ちた時から体中で暴れていた苛立ちが、あの瞬間だけは掻き消えていた。
気付いた時には、服従の口付けをあの爪先に落としていたのだ。
何故か、という理由はアードは考えない。そんなものを思考しても苛立つだけだ。今の自分の望みだけが、解っていればそれでいい。
只、あの人の為だけに、あの人の望むままに、壊して、壊して、壊せば良い。
知らないうちに、アードは密かにほくそ笑んでいた。




カツン、と床を踵が叩く音が聞こえ、ぴくんとアードは起き上がった。聞き間違える筈もない、主の足音だ。
素早く立ち上がり、扉の脇まで足を進めるとそこで跪く。
すぐにドアノブが回る音が聞こえ、扉が開かれた。
「お帰りなさいませ、サーライト様」
「ああ」
頭の上に降ってきた答えは、思っていたよりも冷たい音だった。一瞬身が竦み、当然かと思い直す。
今回の仕事に関して、自分は失敗したと言っても良い。監視するべき対象を逃してしまい、尚且つ手傷まで負ってしまった。
知らず、失った片腕を庇うかのように、別の手で握り締めてしまう。まだ、自分は戦える事を伝えなければ―――
「サーライト様、」
「報告を」
しかし顔を上げた瞬間、既に椅子に腰掛けていた主の声で止められた。吐き出そうとした言葉を何とか堪え、出来る限り冷静に報告を始める。
自分の腕を失った時の話は言う時やはり躊躇ったが、主の視線はそれを許さなかった。声には出さず、ただ続けろとその冷たい目が言っている。逆らえるはずも無かった。
「…不覚でした。すまねぇです」
彼の前では意識して出そうとしない汚い口調も、思わず漏らしてしまう。本人は認めたくないだろうが、その詫びには苛立ちよりも畏れが入っている。それに気付いているのかいないのか―――サーライトはゆるりと口の両端を持ち上げた。
「さて、今後如何するか。…あの双子の監視にはお前が一番適任だ。信頼はされているようだしな?」
まず出された結論に、アードは小さく安堵の息を吐く。まだ、この人に見捨てられる事はない、と。
「しかしプファイト使いのお前としては片手が無いのは困りものだ。誰か他につけた方が良いか?」
「いりません! 却って邪魔ですし、俺ァ―――」
「ああ解った、そう吼えるな」
歯を剥き出しにして否定する声を、サーライトは煩そうに遮る。不満げに、それでも黙った従者を見、ふとサーライトは笑みを消した。
「それにしても―――随分と気に入ったようだな」
「は…?」
言われた言葉の意味が解らなかったらしく、アードはその鋭い目を瞬かせた。疑問を提示するものの、「いや」とサーライトが否定すればそれ以上聞くことも無い。首を傾げつつも、大人しく従った。
その様を満足そうに見遣り―――不意にサーライトが立ち上がる。静かにアードに歩み寄り、形の良い手をすいと差し出してこう命じた。
「腕を貸せ」
「は……、い」
躊躇したが、逆らう事など考えもつかないアードは大人しく右腕を差し出す。見苦しい代物だとは解っていたけれど、拒否など出来る筈も無く。
まだ切り口も生々しいその腕を取られ、傷口に口付けられた。
「ッ!!」
咄嗟に退こうとして、どうにか堪える。柔らかいその感触に全身の毛が逆立ってしまう。
「…生きて帰ってきたことは評価しよう。だが、この傷はいただけんな」
「っ…申し、訳、」
「私のモノに傷を付けるな、アード」
「ぁ……ぅ」
傷口から離した唇に浮んでいるのは、絶対者の笑み。ひくりと喉を鳴らし、アードはかくりと膝を折った。歓喜か畏怖か、全身を襲った凄まじい感情の奔流により、跪かずにはいられなかった。その様を面白そうにサーライトは見下ろし、腕を引き上げてそれを許さない。
「立って、寝室へ行け」
「…………はい…」
震える喉でどうにか返事だけ返し、ふらふらと歩き出した。





既に明かりの落された寝室の床に、アードはへたりこんでいた。無様な姿だと解っているのに、立ち上がる事が出来ない。
目の前には、寝台に腰掛けて優雅に腕を組んでいるサーライトがいる。その視線はただアードを眺めるだけで、何も言わない。沈黙に耐え切れず、アードは自ら進み出た。
「…失礼、します」
主の足元にしゃがみ込み、その帯に指を伸ばす。片手だけで人間の服を脱がすのは非常に難儀であり、更に震える指がその行為を遅くさせる。いつになく緊張している従者に気付いているらしく、くつりと主が笑った。
「焦るな。ゆっくりとやればいい」
白い指が、灰色の髪を撫で、尖った耳を弄る。それだけで、アードの体はますます震えてしまう。緊張だけでなく、体の奥に息衝きだした快楽によって。
「ぁ………あ、む」
寛げた下帯から覗いたまだ力を持たないそれに、アードは躊躇い無く舌を這わせた。そこに嫌悪や戸惑いはもう無い。
こうやって、主の寝室に呼ばれるのは初めての事ではない。自分とて抱くならば女の方が良いし、男に抱かれるなど唾棄すべき行為だと思っている、それでも―――この人だけは、別で。
「ふ、ぅ、う―――…ッ」
求められるのならば応えるし、与えられるものならば何でも捧げる。それが自分にとっての悦びになるのだと、アードは理解している。
サーライトの手指は変わらず、まるで言うことを聞いた犬を褒めるようにその頭や耳、首筋を撫でている。それだけで、アードの下帯の下にも熱が息衝きつつあった。
「んっぐ!? んんぅっ!!?」
不意にその熱がぎり、と押し潰され、痛みと衝撃にアードは呻いた。主の足が、服の上から膨らみかけた塊を踏みつけている。きつく、しかし決して潰さぬように、絶妙な強さで。
「ぅぁ、あっ、サーライト様ッ」
「口を離せとは言っていないが?」
「ぁ、すんませっ…ヒぃっ!?」
咄嗟に離してしまった欲望を慌てて咥えようとすると、再び痛みが襲ってくる。耐え切れず、咄嗟に両腕を床に着き、主の太腿にかくりと頭を乗せてしまった。は、は、と息継ぎをする喉を、ついと主の指がなぞる。
「如何した? ―――こうされるのが好きだろう? お前は」
「くぁ…ア…」
否定したかった。それなのに主の声を聞いた瞬間、確かな反応を自分の熱が震えて返した。足の裏からでもその感触に気付いたらしい主はくつくつと笑い、アードの浅黒い肌がその色を増す。
「欲しいか、アード」
「ぁ………」
主の両手がアードの顔をそっと抱え、仰のかせた。弱点である首を晒しても、何の恐怖も沸いてこない。只、主の望むがままの答えを返したいという欲が、唇を突いて出た。
「ほし…い、です」
「何を、だ?」
ひくりと喉が鳴り、目の端に涙が浮ぶ。こんな無様な姿を晒している自分が信じられなくて、それでも逆らえなくて。
「…果てさせて下せぇっ…俺、もう…!!」
主の熱に頬を摺り寄せた瞬間、ぐりりと自分の熱を踏み潰されて、アードは喉の奥から獣の叫びを上げて果てた。
かくん、と力を失って再び主の腿を枕にしてしまうと、その主からまた冷たい言葉が下りてきた。
「寝台に上がれ」
まだ息も整わないまま、アードはその命に従う。もう既に使い物にならなくなっていた自分の帯を解き、柔らかすぎる寝台に四つん這いで上った。
まだ主が果てていない事は解っている。口での奉仕で終らなかった場合、自分がその欲を冷ます役目を最後まで負うことになっている。
主は既に寝台に寝そべり、ただアードを待っている。服は僅かに乱れただけ、ただ欲望だけが勃立している。渇いた喉に無理矢理唾を飲み込み、アードはそちらに近づいた。
「んぅ…ぐ」
自分の指をしゃぶり、せめてもの潤滑油にして自分の背門に伸ばす。少しでも解しておかないと、次の日の朝起き上がれなくなってしまう。サーライト一の密偵を自認する自分にとって、そんな情けないことは避けたい。
―――そんな自分を、何故この人は抱くのだろうか。
その気になればどんな美人な女も、豊満な女も選り取り見取りな筈だ。それなのに何故、抱いても詰まらないとしか思えない自分を抱くのだろうか。
かの胸糞悪い「結社」というものに従う為なのか、或いは逆らう為なのか。それ故に女を抱く事は、無いのだろうか。
「―――何を、考えている?」
痛みを堪える為の散漫な思考を主に突かれ、はっとアードは我に返った。慌てて首を振り、「何でもねぇです」と答えるが、主の眉間には僅かに皺が寄ったままだ。
それはアードの恐怖を何よりも助長し、それを消す為に急いで主の腰に跨ることになった。
「っ……ぅぐぅ…!!」
本来有り得ぬ場所に有り得ぬものを受け止める痛みと衝撃は、どんなにこの行為を繰り返しても慣れることはない。それでもアードは唇を噛み締め、必死に力を込めてそれを飲み込んだ。
痛みを堪え、瞼を必死に開くと、主の顔には笑みが浮かんでいて安堵した。
―――そうだ。この人の深遠など、自分に見通せる筈が無い。
ならば、自分は与えられた役目を果たすだけ。それが正しいだの間違いだの、そんな理由は必要ない。
「っ…うぁ! あ…ッ、俺、は」
白い胸に片腕を付き、腰を持ち上げて落す動作を繰り返しながら言葉を紡ぐ。うわ言のようなそれを聞きとがめたのか、僅かにサーライトが眉を寄せる。
「俺は、あんたの物ですッ…から! ッア! 頼むからッ…!」
「如何した…?」
不意にサーライトが身を起こし、腰を掴まれる。いきなり与えられた明確な衝撃にアードの息が詰まるが、背を撫でられて緊張が緩む。しかしそれで逆に僅かに正気を取り戻してしまい、自分が口走りそうになった言葉を慌てて飲み込む。
「言ってみろ…聞いてやる」
「あっぐ! うンンッ! サー、ライト、様ァっ!!」
それでも、低い声音と共に喉笛を舐められると、留めておく事など出来ずに叫んでしまった。
「捨…てねぇで、下せぇっ…! あんたがっ、あんただけいれば…俺は…!!」
両腕を主の背に回して掻き毟った。片手が無いのがもどかしかった。いっそその身体に自分の牙を突き立てたかった。
その痛みにサーライトは僅かに眦をきつくし、それでも―――どこか満足げに微笑み、促すようにアードの顔を自分の肩口へ誘う。
「構わんぞ。食らい付け」
「あ、ぐ、ぁ、がっ」
衝動と必死に戦いながら涎を垂らすアードの箍を外す為、下から思い切り貫いた。
「んぁアアッ!! ぐる…ぅ、がぅううっ!!」
「ッ―――!」
その瞬間、アードの瞳から理性が全て消し飛び、獣が白い肩口に食らい付く。正しく狼の噛み付きに、しかしサーライトはやはり―――いつになく含みの無い笑顔で、微笑んでいた。





僅かに窓の外が白みかかった事に気付き、サーライトは目を開けた。
金糸を掻き上げ身を起すと、横でもぞりと温もりが蠢いた。
「…珍しいことだ」
理由は解っていると言いたげに、サーライトが唇を緩ます。普段ならば主と同じ寝台で夜を過ごすことなど考え付かない男だ。手酷く扱って身動きが取れない時でさえ、自分の部屋へ帰るか、床に下りて眠るのが常であるのに。それだけ昨日は、手酷さの割合が違ったのだろう。
きっと目を覚ませばあまりの醜態に狼狽し、暴れるだろう。それを考えると少し溜飲が下がった。
そう、サーライトは腹を立てていた。主の許しも無く片腕を失ったこの狼に。
どれだけ技術が卓越していても、片腕が無いというのは戦士にとって不利でしかない事象。自分の使う駒がそんな不完全なものになってしまうことを、サーライトは許せない。
―――彼自身が気付かない程の心の奥底では、運命の双子に内心惹かれているのだろうこの男に対する怒りが明確に存在していたりするのだが。
無論そんな心の機微に気付くことはなく、未だ眠り続ける狼の頭を撫でながら、サーライトは自分の肩口に治癒の魔法をかけ始めるのだった。