時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

愛は少ししょっぱい

 目の前にことりとサーブされたのは、何の変哲もなく湯気を立てる湯呑だった。
 ゆらゆらと揺れるその茶を見下ろし、それを運んできた白い手の持ち主へ視線を動かし、酒井はひとつ溜息を吐く。
「酒井様、如何致しましたか? 何の変哲もない玉露ではありませんか、三河産の淹れたてです。一体何処にご不満が? ――以上」
 甲板に設えられた白い木机の傍に佇み、完璧な給仕としての振舞いを見せつける“武蔵”は、全く表情を動かすことなく彼を促してくる。丁寧な筈なのに、口調が有無を言わさぬ気迫に満ちているのも、酒井に対しては良くあることで。
「うん、確かに色も匂いも何の変哲も無く美味しそうなんだけどさ。如何して今日は“武蔵”さん、そんなに不機嫌なのかなと思って」
「不機嫌とは? 私達自動人形にそのような、心の機微という誤作動に近しきものが起こるとでもお思いですか? 私のどの部分をご覧になり、そのような見解に達したのかご説明を願います。さあお早く――以上」
「やっぱり不機嫌じゃない?」
 訥々と語られる抑揚のない“武蔵”の言葉に、酒井は苦笑するしかない。
 理由は解らない。だが、この美しい自動人形が自分に常々厳しいことを酒井は良く知っているし、彼女の雰囲気から、お叱りが来るのであろうことを何となく感じてしまっている。しかしこういう曖昧な感覚を彼女に説明することは難しいし、何を言っても否定されそうな気もするので、口元を歪めつつ大人しく湯呑を手に取ることしか出来ない。
 やはり、匂いも普通、色も普通、温度も普通の緑茶にしか見えないそれを、酒井はひとつ覚悟を決めて、ぐびりと一口。
「……ああー。これ、塩かな?」
「Jug.同じく三河にて入手しました純度99%海水塩を重力制御で固め、正方形に形作ったものを3つばかり投入いたしました。疲労の際に補給するのは、水分と同様に塩分も非常に重要ですので。――以上」
「うん、舌が痺れるぐらいに塩辛いね、涙が出そうだよ」
「おや、更に塩分不足が心配されますね。さぁ、遠慮なさらずもう一口、どうぞ。――以上」
 流石にその言葉には従えないレベルの塩気だったので、酒井は無言で湯呑を置いた。“武蔵”は一瞬目を瞬かせただけで、新しく茶を入れる為のスタンバイを既に行っている。角塩など入れる素振りは無い、ちゃんとした口直しだろう。どうやら飲むことによって彼女の「不機嫌」は解消されたようなので、密かに酒井は安堵の息を吐く。
 ――さて、今回一体己は何をやらかしたのだろうか。心当たりが有り過ぎてどうにも原因は絞れないが、彼女の不満や愚痴や憤りといったものが、この塩茶を使い己に向けられたことは想像に難くない。
 また“奥多摩”にドラマの代理鑑賞を頼んだせいだろうか。先日行われた武蔵アリアダスト教導院の職員会議をサボったからだろうか。後から後から原因らしきものが浮かんでくるので、酒井は突き止めるのを放棄する。丁度いいタイミングで出された湯呑に、有難うと言って口をつけ。
「――っぶほ」
 吹いた。先刻よりも強力になった塩気が喉を焼き、完全に油断していた酒井は咽るしかない。不作法ですね、と冷たい瞳で語りながらてきぱきと布巾で口元を拭いてくる“武蔵”に、酒井はいよいよ眉尻を下げた。
「まさか二段構えで来るとは……いつ入れたの?」
「Jud.事前に急須の中へ、7つばかり。如何でしたでしょうか? ――以上」
「何というか、全面的にごめんなさい」
 駄目な大人の手段だが、とりあえず謝罪が先に口から出た。ここのところ忙しくて、久しぶりにお招き預かれた甲板上のお茶会なのに、まともな茶を味わえない羽目になるのは御免蒙りたい。
 “武蔵”の目線がすうと鋭くなり、己を睥睨してくるのを大人しく受け止めつつ、酒井は彼女の言葉を待った。
「それは何に対する謝罪ですか? 謝られる謂れなど私には全くございませんが、何か疾しいことがあると言うのなら、お早めにキリキリ吐くのが正しいかと思われます。――以上」
 目は眇められたままだが、首を傾げて見せるその様は、言葉のとおり彼女にとって謝罪される心当たりが無いのだろう。彼女の機嫌が悪いことを、彼女自身が意識も納得もしていない限り。
「いや、俺自身心当たりは無いんだけどね? 俺、ここ数日何かしたかなぁと思って」
 頭を掻きつつ、あくまで低姿勢に理由を問うてみる。こういう質問をすれば、彼女が「酒井がやっていたこと」を丁寧かつ正確に把握説明してくれるだろうという期待を込めて。自覚が無かろうと引っかかっている部分があるのなら、その部分を語ってくれないだろうか、と。
 果たして“武蔵”は「漸く、いえ、ついにボケましたか酒井様――以上」と情け容赦微塵もないことを言い出しつつも、己の記憶領域を探っているらしく僅かに顔を仰のかせ――やがて、彼女なりの「答え」を得たのか、改めて視線を酒井に合わせて語り始める。
「――先日のホライゾン様奪還の打ち上げ後の事ですが」
「え? ああ、はい」
 唐突に意外な言葉が出てきて驚いた。この「武蔵」そして極東が、世界を相手に新しい道を歩み始めた時のことだ。あの時は教師陣の中でも打ち上げが行われ、オリオトライや三要と帰宅の途についた筈だったが――そこまで考えて、酒井は思い出した。
「あの後、こちらの艦橋に顔を出す予定だと言っておきながらドタキャンとは、良い度胸をしているものですね酒井様。ですがあの時お召し上がりになれなかった緑茶と食塩は、今ここで消費させて頂いておりますからご心配なく。――以上」
 確かに、K.P.A.Italiaと三征西班牙の連合部隊との戦闘を、勝利で納めた功労者のひとりでもある“武蔵”へ労いのひとつでも――と思い、彼女のところへ行く予定だった。「武蔵の皆様の生活を護るのは我々の仕事です――以上」と言われるであろうことも承知の上で。しかしその後、オリオトライと共に二境紋を発見し、その後P.A.ODAの船と接触してしまったため、警戒や報告の為に番屋と浅間神社までとんぼ返りする羽目になった。勿論その時に行けなくなった詫びは通神文で伝えていたのだが。
 ここ数日で彼女の中に、一番引っかかっている要素がそれなのだとしたら。
「ふ、はは」
「酒井様? やはり漸く、いえ、ついにボケましたか――以上」
 唐突に吹き出してしまった酒井に対し、“武蔵”が柔らかく柳眉を上げて彼を睨む。ごめんごめん、と手を目の前で振りながら、酒井はこみあげてくる笑いを堪えてはぐらかす。
「いやいや、まさか“武蔵”さんが真喜子先生に妬くとはねぇ。こりゃあ役得だ」
「……何を意味不明なことを仰っているのですか。オリオトライ様は今回における酒井様のドタキャンに関しては何の関係もございませんが。――以上」
 心底理解ができない、という自動人形の冷たい瞳が見下ろしてくるが、それすらも面映ゆく感じてしまう。戯言を否定するようでいて、酒井の行動をこそ責めているのであれば。
(俺とのささやかな打ち上げを、期待してくれてたって解釈でいいのかねぇ)
 流石にその自惚れは口には出さなかった。本格的に容赦の無くなった“武蔵”が、今度は湯呑に岩塩をぶち込みかねない。
 だから何も言わないまま、真白な木机に肘をつき、傍に立ったままの美しい人形を見上げる。
 綺麗に纏められて背に流された黒髪も、磁器のように冷たく整った白い肌も、艶めかしさよりも清らかさを感じる体のラインも、何も変わっていない。――まだ己が三河の学生で、何くれとなくやんちゃをしていた頃、一年に一度寄港する“武蔵”の艦上で、自分を見下ろしていた彼女の姿を見た時から。
 ふと木机の上、無造作に置かれたままの、己の手を見る。随分と皺が増えた。もう昔のように武器を扱うことも無くなって、体は衰えていくばかりだ。まだまだ自信はあるものの――どうしても、現役の頃と比べてしまえば、見劣りする。
 己がいつか天命を全うし、この地で力尽きることになっても。彼女は何も変わらぬ美しい姿でこの艦と共に在るのだろう。埒もない悔しさが僅かに胸を焼くが、完璧に消し切り表に出さない程度には年を食っている。
「酒井様? ――如何なさいましたか。何か仰りたいことがあるのならば無駄な躊躇などせず、はっきり仰ってください。――以上」
 もう一度僅かに首を傾げて問うてくる彼女の瞳に、ひんやりと佇んでいた不機嫌の波はもう見えない。主である人間に最適な環境を齎すことを至上とする自動人形であるが故の行動だと、解ってはいるけれど。
「いやあ、ちょっと昔のことまで思い出しちゃってね。もう年だねぇ」
「成程、過去の罪状を思い出しての弁明ですか。さぁその湯呑を飲み干してから、存分に。――以上」
「いや流石にこれ以上は高血圧になりそうだから勘弁。って、罪状?」
「Jug.忘れもしません。まだ酒井様が新名古屋城教導院に在籍中の学生だった頃のことです。――その反応は図星ですね? ――以上」
 罪状にはさっぱり心当たりが無かったが、過去への追想を見切られていたのかという事態に驚いた反応を拾われたらしい。どこか勝ち誇ったように、僅かに顎を逸らした“武蔵”が訥々と語る。
「この連結式準バハムート級航空都市艦艦長である私に対し、初対面で何の躊躇いもなく尻を撫で上げるというセクシャルハラスメントを仕出かした罪が忘れられるとお思いですか? ――以上」
「……そんなことあったっけ?」
「成程、やられた方は覚えていてもやった方は忘れてしまう、人間の悪しき慣習という代物ですねこれが。覚悟はよろしいですか? ――以上」
「いやすいません、覚えてますごめんなさい」
 忘れるわけがない。初めて見た時、なんて美しいひとかと思い。その後すぐに自動人形であることに気づき。理不尽にも何故か、悔しさというか不満が沸き、咄嗟に込み上げたリビドーを昇華したらああなった。反省はしている。その後は本多や榊原、井伊達に散々「お前マニアックすぎんだろ!」とからかわれ罵られたのも今となっては嫌な思い出だ。良くはならない。
 それでも、あの時。自動人形らしからぬ、普通の女の子のような、小さな悲鳴を聴けたのは自分の幻聴では無いと思っている。
 そして。
「……“武蔵”さん」
「? はい。何でしょうか、酒井様。――以上」
 改まって名を呼ぶと、綺麗に揃った睫毛が一度だけ、硝子玉のような瞳を撫でる。
 一年毎に記憶容量をフォーマットしているという彼女が、当時は武蔵の民ではなかった男の、こんな下らない出来事を未だに記憶中枢へ保管してくれていたという事実。
 指摘してしまえば、酒井様の罪状と雪辱を忘れないためです、としか言わないだろうから。
 彼女の僅かな綻びを見つける度に、喜んでしまう己が、青いと思う。現・総長兼生徒会長のことを早々笑えない。
 だから、と言っては何だが。酒井は未だ湯気を立てている湯呑を掴み――
「――」
 僅かに目を見開く“武蔵”の前で、思い切り飲み干した。あまりの塩辛さに口端が歪むが、何とか耐える。
「うえぇ。……これでチャラってことで、勘弁してくれない?」
「……とても足りないと判断できますが、反省の意は汲んで差し上げましょう。――以上」
 どこか満足げに目を伏せ、新しい急須を用意して茶を淹れ直す“武蔵”に、舌を出して苦しみながらも酒井は笑う。
 きっと次の御代わりでは、最高級の美味な玉露を味わえると解っていたので。