時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

廻り道

 白絹を身に纏った少女が、さくさくと庭の下生えをかき分けて歩いていく。
 少し歩いて、辺りを見回し。また少し歩いて、辺りを見回す。
 小さな歩みは遅々として進まない。何かを探し、また誰かに見つからないようにといった風な動きのせいもあるし、まだ幼い柔らかな裸足のまま外を歩いてるせいでもあった。
 草履を履くには、側付きの自動人形を呼ばなければならず、何処に行くかも伝えなければならない。少女がそれを防ぐためにやむを得ず行った、苦肉の策だ。
 この庭は彼女の住まう屋敷と同じ敷地内ではあるが、一人で踏み込んではいけないと親に固く言い含められていた所だったから。
 朝方のひんやりとした露に濡れた芝は、裸足には少々辛い。音を立てないように出来る限り気をつけて足を進めながら、時々我慢できずに両足をちょっと重ねて擦る。不作法だと承知の上で、あくまでこっそりと。
 普段少女が暮らしている家屋から大分離れ、誰かに連れられなければ来ない玉砂利の広場まで足を進めた時、ぱっと彼女の顔に喜色が浮かんだ。
 少女から丁度三十歩ほど離れた場所。玉砂利をざり、と踏んで、僅かな呼気と共に空へ繰り出される小さな拳。その動きを絶え間無く、ずっと続けている一人の少年が、彼女のお目当てだった。
 いずれ、この国を継ぐ為の男名を戴いた少女の伴侶となるために、女名を授けられた少年。まだ遠い先の話だと解っていても、その定めは少女にとって心を浮き立たせるものだった。
 少女は生まれつき病弱であるが故に、後継を疑問視されている。もっと相応しい者に襲名を譲るべきではないか、いっそこの目の前の少年を擁すべきではないかと、子供の耳に届くところで声高に叫ぶ家臣は大勢いる。
 物心ついた時から、そんな軋んだ空気の中で生きてきた少女にとって、少年は救いであった。
 彼は、彼女にとって「同じ」存在だったからだ。傍目からみればまた違うであろうが、少女にとって少年は、全く同じ重さを押し被された存在に見えた。そんな彼の側にいる心地よさが、同情や傷の嘗めあいに近いものであっても、まだ幼い少女にとっては救いとなるものだったのだ。
 だから、初めて彼と会ったとき。両親達の目を盗んで、こっそりと約束を交わした。
『なにがあっても、わたくしのみかたになってくださいますか』
 身勝手な、相手のことを何も考えぬ我侭だということも、彼女は理解している。それでも、そう言わずにはいられなかった。
 不躾な思いを告げられた少年は少し驚いたようだったが、決して少女からその強い視線を外さずに、
『わかった。……やくそくする』
 そう言ってくれたから、少女にとって少年は、この世で誰よりも尊い存在になった。徒に家臣を刺激してはならぬと、父から公的な場所以外で会うことを許されていなかったけれど、それをこうやって破ろうとするぐらいには。
 目的の相手を見つけた少女は、しかし彼に直接言葉をかけるのは躊躇われるらしく、手近な土塀にそっと身を隠し、黙ったままその動きを見守ることにした。彼の修練を邪魔する心づもりは、彼女の中に皆無であったし――いつも、声をかけると、少年はその場から去ってしまうのだ。初めて謁見の間で出会ったとき以外、ずっと。
 それは少女にとってとても悲しいことだったが、諦めることも出来なくて、修練や勉学に忙しい合間をぬって、こうやって彼を捜した。いつも同じ時間に修練する彼を見つけて、帰るまで見送る。そんな生活を、ここ数週はずっと続けていた。勿論見咎められれば怒られることは間違いないので、側付きの目を掻いくぐれた時だけこっそりと、だったけれど。
 少年は自分を見つめる視線に気づくことなく、無心な様で拳を放ち続ける。きりのいい数だけ行ったのか、やがて汗だくのままで動きを止め、大きく息を吐いた。その様子をほう、と僅かなため息を吐いて見届けた少女は、その吐息さえこの静かな空間では意外と響いてしまうことに、吐いてから気がついた。
「!」
「あ……とくひめ、さま」
 この場に己以外の誰かがいたことにようやく気づいた少年はばっと顔を上げ、少女の姿を見つけて声を聞いた瞬間、藪睨みの目を大きく見開いた。
 少女も驚き戸惑っているうちに、少年は僅かに眉根を寄せて、視線を動かそうとして叶わず――不意に、踵を返してたっと駆けだす。
「あ! ――おまちください!」
 慌てて、少女も後を追った。折角数日ぶりに会えた相手と、たったこれだけの邂逅で離れてしまうのは耐え難かった。しかし殆ど体格差の無い少年と少女、尚且つちゃんと足袋草履を履いていた少年に対し少女は裸足だ。当然玉砂利の上を走り続けることは出来ず、
「――あぅ!」
 つま先を大きな石に引っかけ、こてんと転げた。膝がもろに玉砂利に突き刺さり、たまらず悲鳴を上げる。
 痛みと冷たさで、情けないと思いつつも反射的に、じわりと目尻に涙が浮かんだ。ゆらゆらと水の幕が張った視界を、こぼさないように堪えていると。
 じゃっ、と玉砂利を蹴って、近づいてきた小さな足先。
 驚いて、ぱっと顔を上げると、水の幕の向こう側に、すごくばつの悪そうな顔をした少年が立っていて、その手をこちらに差し伸べていた。
 一瞬戸惑うが、目の前に差し出された手にすがる以外の選択肢を、僅かに頬を上気させた少女は探すことすら出来ない。
 おずおずと差し出した手は、思ったよりも強く引かれ、すぐに少女は立ち上がることが出来た。
 ほっと息を吐いた少女は、改めて少年へ向けて頭を下げる。
「すみません……おてすうをおかけしました」
「……いたくないか」
「もう、へいきです」
 嘘だった。両膝はまだじりじりとした痛みを訴えていたし、それよりも冷えと躓きですっかり痛めてしまった足先が辛い。でもそんなことを訴えたら、この朴訥だが優しい少年が気にしてしまうのが解っていたので、少女は出来る限り平然と嘘をついたつもりだ。
 しかし、少年はまた眉を顰め、機嫌を損ねてしまったかと少女が迷うより先に、ぐいと少女の体をさらに引き寄せ――まるで、抱きしめるように片手を背に回した。
「っあ、あの、とくひめさま?」
「だまってろ」
 唐突に近くなった温もりに少女が戸惑っているうちに、少年は更に手を引いていた手を離し、少女の膝裏に回してぐいんと持ち上げた。
「く……!」
「とくひめさま!?」
「うごく、な」
「は、はい!」
 先刻まで修練の為に酷使していた両手と両足をぶるぶる震わせながら、それでも少年は少女を持ち上げたまま、どうにかよたよたと歩く。かなり不安定ではあったが、その歩みを邪魔しないようにと、少女は慌てて身を固くして応えた。
 歯を食いしばって少女を運ぶ少年は、非常にゆっくりとではあったが、手近な石段の上へと、どうにかそっとおろすことに成功した。そのまま少年は少女の目の前に膝をつき、裸足のままの少女の足を無造作に掴む。
「ひあ……!」
 あまりにも唐突な行動に堪らず少女は悲鳴を上げるが、少年は気にした風もなく冷えきった少女の足先を両手で包み、無言のまま、労うように暖めた。
「あ、あの、……」
 何か言わなければと思うのに、今まで冷えきっていたつま先がどんどん熱を持っていくようで、少女は何も言えなくなる。
 少年のそんなに大きくない手は、少女の足に熱を奪われてすぐ冷えてしまったようだったが、彼は己の行動を止めなかった。ただ、少女の足を暖める為だけに、出来るだけ乱暴にならないように、それでも真剣に擦っている。
「も、もう、だいじょうぶですから」
「……そうか」
 顔を赤くして、やっと少女は、どうにかそれだけ言えた。少年は今まで強ばっていた顔をようやく僅かに緩め、漸く少女の足を解放した。
 暫く、沈黙が続く。
「……こちらに、どうぞ」
 少女が己の隣を手で指し示すが、少年は僅かに首を横に振り、地面に膝をついたままだ。決して首を下げ傅いてはいないが、あくまで自分は少女の臣下であり、隣に並ぶことはまだ許されないということを、彼も親族に厳しく言い渡されているのだろう。その事情は彼女も十分承知だが――とても、遠く感じる彼との距離が、辛い。先刻まで、信じられないぐらい近くにいたのに、彼の体温を感じることが出来ていたのに。
 はしたない、と思いつつも、少女は座ったまま両手を無理矢理のばし、玉砂利についたままの少年の手をぐいと引っ張った。
 今まで無表情だった少年の顔が驚いたように目を見開いたのを、してやったりと思いながら、少女はなおも腕をぐいぐい引く。隣に腰掛けてくださるまで、離しませんよ、という思いを視線に込めて。
 少年は非常に困ったようだったが、彼女から目を逸らすことも、手を振り解くことも考えつかないらしく、やがてのろのろと歩いて、少女からちょうど拳二つ分ぐらいの隙間を開けて座った。少女はやっぱりそれが遠い、と感じたので、両手で腰を持ち上げてその隙間を無くす。少年が更に下がろうとする前に、肩に体重をかけてやった。
 ぎしりと固まった少年の、離れようとしているのに決して己を拒まない優しさに、少女は安堵の息を堪えてそっと微笑んだ。
「これから、なにかごようがありますか?」
「……ひるまでは、ない」
 ぶっきらぼうな答えに、少女はしかし微笑みを浮かべる。何か用事があるのなら素直に言えばいいし、無くとも己と過ごすのが嫌ならば適当に嘘を吐いて去ればいい。そのどちらにもきっと考えが及ばないのであろう、朴訥で正直な少年の優しさが、いとおしくて堪らなくなる。
「なら、もうすこしいっしょにいられますね。とくひめさま」
「……それは」
「え?」
 少女の言葉の後に、少年が僅かに眉を顰め、ぼそりと呟く。不満が僅かに籠もった言葉に気づき、私と一緒にいるのはお嫌ですか、という意志を込めて隣の相手をそっと見つめるが、少年は随分とばつが悪いのか、珍しくふいと顔を逸らせ、少女がそれを寂しく思うよりも前に、またぼそりと言った。
「なまえが」
「……なまえが?」
「……」
「……」
「……おんなのなまえは、すかない」
「あ」
 長い沈黙の後、言われた言葉に、思わず声を漏らした後絶句した。



×××



 少女の小さな、驚いたような声を聞いた瞬間、少年は己の言葉を著しく後悔した。
 我ながら酷く子供じみたことを言っていることは解っている。年の頃を考えれば少年は子供に違いないのだが、彼も彼の周りもそれを許していないため、その配慮は無意味だ。故に、ただひたすらに恥ずかしい。
 このご時世、襲名やあやかりの為、姓名が性別に合わない人間など大勢いる。目の前の少女とて、己の名を誇りこそ思え、不快だとは思わないだろう。
 下らないことに拘っている自分こそが愚かに見え、そんな様を目の前の彼女にだけは見られたくなかったのに、柔らかくて小さな体が己に寄りかかっているので、ここから立ち去ることも出来ない。
 どうしたらいいのか逡巡しているうちに、僅かに肩が揺れる感触。ちらりと横を見ると、少女が両手で口を押さえ、くふくふと笑いを漏らしていた。
 僅かに頬が熱くなるが、やはりそれを隠そうにも彼女の体を押し離すわけにはいかなくて、楽しそうな少女のしたいようにさせることしか出来ない。
 少年の不機嫌さに気づいたのか、少女は笑いを堪えながらすみません、と謝ってきた。
「でも、とくひめさま。そんなにこのなまえは、おいやですか?」
 仏頂面のまま頷くと、少女の笑いは潜められた。何故、と思う間もなく、少女は囁くように言う。
「……わたくしとの、はんりょのあかしは、おいやですか?」
 その言葉に驚いて、少年は少女の顔を真正面から、まっすぐに見た。彼女は悲しんではいないようだったが、ほんの少し、困ったように眉を下げていた。
 少年は焦り、戸惑い、ただ彼女を困らせることだけは避けたくて、無造作に何度も首を横に振ってから、ろくに動かない喉から言葉を搾り出す。
「……おまえがよぶなら、いい」
 少女はその言葉にとても驚いたらしく、只でさえ随分と近い顔を更に近づけてきた。咄嗟に逸らしたかったけれど、彼女の顔を見ずに居続けることは出来なくて、歯を食いしばったままじっと見詰めると。
「ではこれからも、よばせてくださいませ。――とくひめさま」
 頬を上気させて、少女は本当に嬉しそうに微笑んでくれた。



×××



 そんな少女の姿を、覚えている。あの国に居たときのことは、思い出したくないことの方がずっと多くて、覚えているのは彼女のことばかりだ。
「――宜しいですか、ノリキ様。相模ももう落ち着いてきているのです」
 季節の変わり目の度に体調を崩していた少女は、その身をたおやかに見えても強い自動人形のものに換装させていて、僅かに残るのは幼い頃の面影だけだというのに、その目を逸らせない。
「もう、十三年。戻ってこられても良いのでは?」
 それを望む彼女の言葉は、真実だろう。生まれた時から少しずつ、或いはたっぷりと互いに奪われ続けてきたものを、彼女は取り返そうとしている。その思いを受け止められない程、愚かでは無いつもりだ。
 それでも。
「……今更帰る意味もない。親も同じだ。ここでやっていくと。大体――」
 彼女は。嘗ての少年のことを、ノリキと呼んだのだ。
 乗って行く姫か、乗って去る者か。それはきっと、埒もないことだと全て承知の上で、彼に対して彼女が提示した意趣返しだ。
 あの船に乗ってから、随分と耳に馴染んだ筈の呼び名が、何故か彼の心に突き刺さるぐらいには。
「俺もお前も、違っていて。お前はだけど正しいと認められた」
 それに対して、責めるような口調になってしまった己も、彼は後悔する。口下手なのも言葉を選ぶのが苦手なのも解っているのに、直せない。彼女に対して一番必要なものであるはずなのに。もっとも、口で彼女に勝てたことなど、初めて出会った時から一度もないが。
「――」
 氏直の顔は動かない。幼い頃は隠そうとしながらも僅かににじみ出ていた感情を、一切表に出そうとしない。
 しかしそれは、彼女の中から感情が無くなったのだとは思わない。それならば――彼女は、彼のことをノリキとは呼ばない。
 そのことに、傲慢だと思いながらも、ノリキは安堵してしまった。彼女は随分と変わって、その実何も変わっていないのだと。北条の地で出会った時より、気弱で予防線をいくらでも張る癖に、我侭で欲しがりの彼女のままだ。
「ノリキ様」
「……」
 答えは返さない。彼女に応えたら、きっと彼女を傷つけてしまうのだ。その呼び名に答えたら、彼女にとっても己は「乗去」になってしまう。
「……約束を」
 覚えていらっしゃいますか、と言いたかったのだと思う。はく、と唇が僅かに動いたが、音は出てこなかったから。
 だから――僅かに顎を引き、頷くだけで答えた。それにより、ほんの少しだけ、彼女の肩が下がったような気がする。本当に僅かだったので、気のせいだったのかもしれない。
 それでも。ノリキには、それで十分だった。彼女が約束のことを覚えていた、解っていた、それだけで。
 だから、何も言わずに踵を返す。
「待ってますから……」
 という小さな呟きに、答えを返せなかったのは、まだ己がやるべきことと出来ることが、はっきりと決まっていなかったからだ。



×××



 ――そして嘗ての少年は、少女との約束を守るため、己の力を携えて少女の元へとやってくる。
「武蔵臨時代表。――松平・督姫」
 その名乗りを聞いた瞬間。氏直の中の、一番柔らかいところに被さっていた殻が、まるで砂糖細工のようにさらさらと崩れて消えた。
 その殻の中に、未だに泣き声を止めていない小さな己がいて、しゃくりあげながらも少年の方を見ている。
 心の中の少女の背を、氏直はそっと叩く。来てくださいましたよ、と僅かな羨望を込めて。
「北条代表――北条・氏直」
 何故なら、少女にとっての少年は今ここに現れてくれたけれど、北条・氏直にとっては、まだ解らない。
 試させて、くださいますか。言葉に出さない、出せないものは届いただろうか。
 彼の目は、まっすぐにこちらを見ている。他の誰でもない、過去の思い出だけでもない。今ここにいる北条・氏直を見ていてくれる。
 嗚呼、と小さく氏直は、感嘆の息を漏らす。これだけで望外の喜びのはずなのに、私は本当に欲深い、と。
 だからこそ。先代から与えられた両の目を開き、彼女は彼に対峙する。
 僅かに頷いただけで意志を告げ、ありったけの刃を彼に向かって打ち込んだ。



×××


 ぱしゃり、と水を蹴る音が響く。すっかり熱も冷え、静まり返った夜の戦場を歩く影が二つ。
 否、本当は更に一つ、小さな走狗の影があるのだけれど、主に気を使っているらしく、彼女にしては随分と距離を取っている。小太郎は本当に良い子ですね、と氏直は密かに微笑む。
 月明かりの中、その月が浮かぶ澄んだ水面の上を二人で歩くなんて、まるで恋愛草子に出てくる逢い引きの様だ。己が未熟であればかなり上気していたであろう頬を押さえることなく、ただ彼の背を追っていく。
 この年頃にしては、決して貧弱ではないが、頑健でもない。背丈も殆ど今の己と変わらない筈なのに、その背中が随分と大きく見えて、寄りかかりたいと思ってしまう。
 はしたない、と己を心の中で三回ぐらい戒めていると、前を歩いていた彼がふと空を仰いだ。
 それに習って氏直も視線を上げると、夜空に浮かぶ巨大な船が目に入る。
 嘗て、彼を連れ去っていった船。埒もなく恨んだこともあったし、怒ったこともあったけれど、今は何と美しく見えることだろうか。
 私は本当に現金ですね、とまた口元が笑みで緩む。どうも、ひとつ箍が外れてしまったように、感情の制御が難しい。つまりテンションがアッパー系になっているということなのでしょうか、と一人反省していると、ぼそりと目の前の彼が一言呟く。
「……もう少しだ」
 その声に促されたように、武蔵から降りてくる輸送船が見える。彼と氏直を、回収しにきたのだろう。それを見て、氏直はごく自然に呟いた。
「ええ。残念です」
 驚きの反応は感じない。自分の真意は、彼にちゃんと通じている。それが、解る。
 まるで夢のようなこの狭間の逢瀬を、彼も楽しんでいてくれたのだと。
「そうだな」
 声を聞いて、己が決して独りよがりではないことが証明できて、氏直は嬉しさのあまり――長年、全力で培ってきたしとやかな礼儀を、この一瞬だけ放り出すことを自分で決めた。
「とくひめさま」
 まるで子供の時と同じように、なんとも呼び慣れぬ木訥な声が出た。驚いたようにこちらを振り向いてくれた彼に向かい、氏直はたった一歩で距離を詰め――
 ばしゃん、と水を蹴立てて彼を押し倒した。
 浅い水なので決して沈むことは無かったが、それでも彼の下半身は完全に水に浸かってしまう。その腰の上に乗り上げて、氏直は全ての感覚素子を彼に集中させる。
「この名前は、お嫌ですか?」
 からかいを含んで言おうとしたのに、喉が震えて随分と無様になった。先刻の血と涙が漸く乾いた己の頬へ、滴が再び伝う気配がする。
 その滴は、顎から零れ落ちる前に、胼胝だらけの指で拭われた。強くだけど、優しく。
「お前だけが呼ぶから、良い」
 あの時とほんの少しだけ違う、少年の、彼の、答えを聞いて。氏直は思わず、彼に身を擦り寄せてしまった。互いの鼻が触れ合うぐらいの位置にまで近づいて、彼の驚いた顔を再び感じ取れたので、満足して離れようとして――
 ぐいん、と彼が上半身を思い切り起こして、とっさに避けようとした氏直の首に腕を回す。
 え、と小さく声を上げた瞬間、殆どぶつかるぐらいの勢いで、唇が塞がれた。
 戸惑ったのは一瞬。氏直もすぐに、応えるように彼の唇に己のそれを押しつけた。意識のはしに随分と慌てた小太郎が写ったけれど、必死に盗撮と盗聴を防ぐためにあれこれ表示枠を出している様に感謝をしながら、ひどく不器用な口づけをずっと続けた。
 舌を絡めるでもない、ただ押しつけあうだけの子供のような口づけを、互いに勿体無くて止めることが出来なかった。
 ちかりと、停船する輸送船の誘導灯が見えて、ようやく二人とも体を離す。
「……行くぞ」
「……はい」
 どちらからともなく立ち上がり、濡れた体のまま差し出された手を、何の気負いもなく氏直は手に取った。
 きっと出迎えの誰かが来たら離さなければならないのだから、今だけのつもりで互いに手指を強く絡ませた。僅かな隙間も、作らないように。